Chapter-6 ①
「廃屋」であれこれ話をして、駅前のマンションに向かう根津さんに手を振る頃には、もう辺りは真っ暗になっていた。
「自販機寄っていいか」
駅には行かず、僕たちは線路沿いの道を歩いていた。磯崎が言うので、僕も付いて行く。大人なら、きっとこんな時はお酒を飲みに行くのだろう。
あれ、でも。
「磯崎くん、さっきの缶コーヒー、まだ開けてなかったよね」
「ブラックは飲めない」
「じゃあなんで買ったの」
「わからん」
「え、もしかして、女子の手前かっこつけたとか?」
「そんなことはない。ないはずだ」
磯崎は、コーラを買った。
「どう思ってる?根津さんのこと」
「どうもこうもない。なんだ君は、そういう話が好きなのか」
「いや、そうじゃなくて」
僕は炭酸を買った。僕は炭酸を飲むとくらくらする。だから何となく、お酒もこんな感じではないかと思っている。屈んで取り出しながら、無駄にうろたえている磯崎に言う。「そうじゃなくて。さっきの根津さんの話、どう思う?」
磯崎は憮然とした。少し歩いてフェンスのところまで行き、二人で並んで寄りかかる。プシュッと音を立てて開け、それぞれにペットボトルを傾ける。
「高槻先生が、その、根津さんに何でも言うことを聞けと言ってきたって話……僕にはどうにも信じられないんだけど」
僕が言うと、磯崎は前を向いたまま応える。
「当たり前だ」
「そうだよねえ」
まだ編入三日目だけど、どうにも高槻先生は、そんなことをする人だとは思えない。もしもそうだとしたら、それこそ僕は……人の見方を、もっと変えなくてはいけないと思う。
「根津が学校の権力者にコネクションがあるのは自明のことだ。そうでもない限り、男子校に入学なんてできるわけがない。担任である高槻が、百歩譲って本当に根津の性別を知らなくて、最近何かのきっかけで知ったとして、それが脅しのネタになるだろうか。根津が学校の経営陣に訴えたら、むしろ困るのは高槻だろう」
「でも、じゃあどうして根津さんは……」
根津さんは嘘をついているのだろうか。もしそうなら、明日三人で面と向かって高槻先生と話した時点ですべてばれてしまうだろう。それなのに、話をするからついてきてほしいなんて自分から提案したりするだろうか。第一、何のためにそんな嘘をつくのか。
「わからない。根津の奴は本当にわからない。前からわからない。何を考えているのか何がしたいのか何なのか、ずっとわからない」
まるで呪文を言うみたいに、磯崎は「わからない」を連発した。
「根津さんの依頼に従って、根津さんを犯人にでっちあげるいたずらをしていたのに?」
「あれは……とりあえず根津に従うしか、探る手段が思い浮かばなかったから。何かあれでヒントを得られると思ったんだ。たとえば僕は、僕がどれだけ根津を犯人にでっちあげても高槻が気にしないのは、高槻も根津が女子であり『特別』な生徒であることを知っているからではないかと思っていた」
「実際はどうなんだろう」
「根津が言うように盗撮によって……あるいはそうでなくても何かのきっかけで根津が女子だと知ったのだとしたら、だからといって他の生徒に濡れ衣を着せられているのを放置するのはどうかと思う。根津が何らかの『特別枠』で別格の存在であることを元々承知していたのだとすれば、僕ごとき一生徒の言いがかりなど何の問題もないと……教師がそう判断することはありえるのではないだろうか」
「こういうのは?君が信頼されているっていうのは」
「どういうことだ」
「君はいじめが大嫌いなんだろう?そんな君が根津くんを陥れるようなことをするはずはない、何か事情があるんだろう、と先生は思った、とか」
「そんな教師は問題だ。誰だって人を憎んだり排斥したいと思ったりする。元いじめられっこだからいじめはしないだろうなんて、そんな決めつけでいじめの芽を放置するなんてあるまじきことだ。そんなのは偏見だし、贔屓だし、正しくない」
「高槻先生は違うって?」
磯崎は、考え込む。
「この学校はやたらと心理テストや面接をするよね。それで生徒の内面をかなり把握している気ではいると思うよ」
「……癪だな」
「うん」
「ならばやはりいじめの一つでもして見せるべきか?」
「それでもいいけど」
「……いや」
目の前を、自転車の人が通り過ぎた。ペダルを漕ぐ音が、次第に遠ざかっていく。
「根津の件はとりあえず脇に置こう。明日話をしに行けば、大部分は見えるはずだ。もう一方の、高槻の兄に絡む件、こちらについて考えよう」
磯崎は言った。
僕はふと思いつき、鞄の中からノートと筆記用具を引っ張り出した。しゃがみこみ、街灯の明かりを頼りに文字を書く。
・畑さんは高槻先生の四歳年上のお兄さんの同級生(香々見学園中等部で同じクラス)
・高槻先生のお兄さんは中二の時に自殺している。
・畑さんは昨日、高槻先生を尾行していた。
・畑さんは精神的に不安定になっていて、「高槻」を罵っていた。
「『事実』はこんな感じだよね」僕は言った。
「まあ、そうだな。根津の言ったことが本当なら」と磯崎。
「まず、畑さんと高槻先生が面識あるのか自体、わからないよね」
「確かに、高槻は何も知らないという可能性はある。畑が道を歩いていて高槻を見かけた。自殺した元クラスメイトにそっくりなので思わず後をつけた。なぜ生きているのか、訳がわからない。混乱して、帰宅後当時の写真等を引っ張り出した。これもありえる」
「その場合は、先生は復讐とはまったく無縁だよね」
「そうとは言い切れない。今はまだ気づいていないけれど、存在に気づいたら復讐を考える可能性はある」
「まあそれは……」
カンカンカンカン……と、少し離れた場所の踏切が鳴り始める。
「だがそれは、あくまでも畑が高槻の兄の自殺の原因であった場合だけどな」
「それもそうとは言い切れないんじゃないの。実際は無関係でも、こじつけて逆恨みすることはあるよね」
「それはそうだ」
轟音を立てて背後を電車が通過する。背中に風圧を感じながら、僕たちはそれぞれにペットボトルを傾ける。
「とりあえずは、もう少し情報がほしいな。社会の吾妻は知ってるか?」
「知らない」
僕が言うと、磯崎は学校の端末を取り出して操作し始めた。程なくして、先生の顔写真入りの簡単な紹介が載った画面を僕に向けた。眼鏡をかけている、少しふっくらとした、五十台くらいの穏和そうな男の先生だ。残念ながらいつから学校にいるかとか、年齢なんかは載っていない。名前と担当教科、あとは得意分野が簡単に書かれている。
「こいつが一番古くからいる教師だ。高槻兄がいた当時のことも知っているだろう。ちょっと明日の昼休みにでも、話を聞きに行かないか」
「いいけど……。でも、どうやって説明するの?」
「ぶっちゃけるとやはりまずいだろうか」
「ぶっちゃけるって、まさか高槻先生がお兄さんの復讐をしようとしているかもしれない、って言うってこと?」
「いや、いくらなんでもそれは言わない。……高槻の兄だというと高槻のプライバシーに配慮して話を控える可能性もある。とりあえず、十五年前この学校の生徒が自殺したと偶然知って、そのことについて調べていると言ってみよう。僕は探偵だし、僕たちと同じ中二で自殺したということで気になっている、と。あとは反応次第だが」
「そうだね。そんな感じなら……」
再びペットボトルに口をつけようとしながら、本当に何気なく相づちを打っていて……ふいに僕の動きは止まった。
「どうした?」
怪訝そうに磯崎が訊ねる。
「……」
「どうしたんだ」
「……目にゴミが」
僕はてきとうにごまかした。
磯崎は訝しげな顔でじっとこちらを見ている。
「なんでもない」
僕は言った。