Chapter-1
僕が初めてその学校を訪れたのは、もう五月も二週目に入った頃だった。
学校というより、美術館とか博物館とか、そういう建物みたいだと思った。荘厳、と言ったらいいのだろうか。白くてすべすべとした大きな円い柱が何本も並んでいる。アーチを描く窓枠と、細かな線を重ねたような装飾。校内はすべて土足らしくて、上履きに履き替えるための靴箱のスペースは見当たらない。
そのまま建物の中に足を踏み入れて、僕は息を呑んだ。高い天井には、きらきらと輝く銀色の幾何学模様が並んでいた。四角や三角にカットされた鏡がさまざまな角度で貼り合わされて複雑な形を描き出し、光を反射させ、芸術的な空間を作り出しているのだった。
この私立香々見学園は、創立者の各務さんという人が、祖父の建てた香々見館という立派な建物を子どもの教育に役立てたい、と考えたとかで設立されたらしい。もちろんそのままは使えないから、あれこれ改築・増築はしたらしいけれど。ともかくこれまで公立中学校の灰色の校舎しか知らなかった僕には、これが学校の校舎だというのがどうも信じられない。さっき通り抜けた門の脇に「香々見学園 中等部」とあったから、まちがいはないはずだけど。けれども放課後の、中途半端な時間のせいだろうか。高い天井の神殿めいた廊下に、他に生徒の姿は見当たらない。窓明かりを受けて、天井の鏡は鈍い光を放ちながら無数の僕をさまざまな角度で映し出している。真新しい紺のブレザー。散髪屋に行ったばかりの頭。二年生になっているのに、背丈はどうにも低いまま。表情は、よく見えない。きっと浮かない顔にちがいない。どこかから、ぷあー、と気の抜けた金管楽器の音がする。運動部の掛け声らしき声も、空気に混ざるように聞こえてくる。
――あれ、なんだろう。
その時気がついた。赤色、が空中に浮かんでいる。血……ではなくて、絵の具?
二つ先の鏡細工のわずかに下の空間だった。僕は真下まで歩いて行き、目を凝らす。どうやら天井を覆うように、透明のアクリル板か何かが張られているようだ。上品そうな私立の学園とはいえ、男子ばかりの学校で、誰かが鏡に向かって石やボールを投げつけないとも限らない。おそらく鏡の防護用だろう。赤い絵の具はそこに付着している。点々と、それはよく見ると白い壁にも飛び散って、そしてその壁に飾られている、額に入った風景画に……いや、ここがメインだった。アクリルにはわずかに飛び散っただけだ。額に入った雄大な山の景色の表面に、赤い絵の具が盛大にぶちまけられていた。これはこれで、そういう抽象画だと言えなくもないかもしれない。まあ、額やまわりに飛び散っているのでちがうと思うけど。いや、まわりも込みで、そういう現代アートかも……
「自己顕示欲のかたまりだな」
間近で降ってわいた声に、僕ははっとして振り返った。完全に人気がないと思っていたのに、僕の背中のすぐ後ろに、いつの間にか人が立っていた。僕と同じ制服を着ている。僕よりだいぶ背が高い……けれどもその胸の校章の台布は青色で、僕がつけているものと同じ。僕と同学年の二年生だ。
「誰かに自分を見てほしくて、見てほしくてたまらないんだ」
薄い笑いを浮かべて、その少年は言った。初対面だと思う。その割に、いや、たとえそうではなかったとしても、この近さは何だろう。身長差があってむしろよかった。見上げた鼻先に相手の顔がある。彫りが深くて大人びていて、くせ毛っぽい長めの前髪が少し目にかかっている。
僕はどう反応していいものかわからず、ただ黙って相手のことを見上げていた。彼の言ったことばに対して、返すことばが見つからない。
「今君がどんな気持か、当てて見せよう。これからこの学校に通うのが不安だ。そうだろう?時季外れの編入生」
僕を見下ろして、彼は言った。
「……なんで、その、僕が編入生だということを知ってるんですか?」
僕は何とか言葉を絞り出す。
彼はひどく愉しそうに笑った。
「なぜかって?だって君の制服は、まったくの新品じゃないか。肘にも腕にも尻のあたりにも、擦れた形跡がまるでない。初めて着用して、一時間も立っていないのだろう。机やテーブルに腕を置いたこともない、つまりそれを着て授業を受けたこともご飯を食べたこともない。ここに来るまでの電車の車内で君は一応は肘を曲げて吊革に掴まっていたけれど、布の伸縮がまだ十分でないので窮屈な感じを覚えていた。そうして電車を降りて以降、君は歩く時も先ほど立っている間もそして今も、できる限り腕を棒のようにして体の横に垂らしている。無意識的に、君は自分の体の動きを制限して、制服の形に自分の方が合わせようとしている。その制服は袖も裾もやや君には長いし、それに君は制服自体を着るのが久しぶりだ。二か月近く、君は室内で楽な服装しかせずに過ごしていたのだろう。君の肩は服の重みにわずかながら疲労を覚え始めている」
僕は思わず自分の腕に目をやった。
特に自覚はしていなかったけど……そう言われたら、確かに肩が重い。肘が窮屈だとも思う。だけど。
「ふむ。君は右腕に痛みの記憶があるのかな。ぎこちないとまでは言わないが、動かす時に、やや神経が過敏になるようだね。動きに支障が出るような大層な怪我ではなかった。ほんのかすり傷。しかし君の身体は無意識的に、同じ痛みを怖れている」
「なんでそんなこと」
「わかるはずがないって?いや、わかるよ」
「だから、なんで」
「なぜなら僕は、探偵だから」
得意げな顔をして、少年は言った。
「探偵?探偵って……」
「探偵とはなにか。なかなか深遠な問いだ。探偵というのは、生き様だ」
夢見るような顔つきで、天井を仰ぎ見ながら彼は言った。
そんなことは訊いていない。
「僕は探偵。探偵の、磯崎めぐるだ」
自分を指し、胸をそらしながら彼はいきなり名乗った。
強引に、自分が喋りたいことを喋る。大げさな身振り。目立つ容貌。自信ありげで、感情表現が豊かで……。
そういう奴を、僕はよく知っていた。前の学校で。
「……なんだ?どうしてそんなに悲しい目をしてるんだ?」
自分の世界に酔っているのかと思ったら、磯崎はふいにそんな風に言って、僕の顔を覗きこんだ。
「別に」
「別に、ってことはない。右腕に手をやりながら、そんな悲しい目をするというのは……」
「別になんでもない。……探偵、なら、あれの犯人でも見つけたら?」
僕は無理矢理話をそらした。絵の具をぶちまけられた絵を指す。
「これの犯人?そんなものは自明だ」
磯崎は僕についての話題にこだわることなく、絵を横目にふふん、と笑って言った。
「あ、そういうこと」僕は冷やかに頷く。
「そういうことってどういうことだ」彼が訊ねる。
「つまり犯人は君ってことだろ」
僕は言った。すると彼は不意を突かれた表情になり、次の瞬間、こらえきれないように噴き出して、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「いやあ、君は名探偵だ」
「探偵は君だろ」
「いやいや君も名探偵。おそれいる」
「じゃあ認めるのか?」
「いや、残念ながら僕は犯人ではない」
「そう?あれは『自己顕示欲』によるものなんだろ?君は探偵ぶって謎を解明してみせて、自己顕示欲を満足させる。そういうことなんじゃないの?」
「ははは。いいね。君は本当に面白い。でもこれは自明のことだ。犯人は『ねずみ』だよ」
「ねずみ?」
「二年B組、根津充。そいつが犯人だ」
その時だった。
「沙原彰吾くんだね?」
名前を呼ばれて、僕は振り返った。大人の男の人が立っている。年は二十代ぐらいだろうか。背がすっと高くてかっこいいけれど、その笑顔はとても気さくな感じだ。
「なかなか来ないから、どうしたのかと思ってね。はじめまして。君の担任の、高槻といいます」
そう言うと、先生は深々とお辞儀をした。僕はびっくりした。なんだろう、この腰の低さは。教師が生徒にそんな風に接するなんて。
「職員室、わかりにくかった?」
「いえ。すみません」
「二人、もう友だちになったんだ」
高槻先生は、自称探偵磯崎めぐるを見やると、微笑んで言った。探偵は生意気そうな笑みを浮かべると、
「先生、僕が何をしていたと思いますか?」と訊ねた。
「さあ」先生はにこにこしながら首を傾げる。
「探偵がいるところ、事件在り、ですよ」
「そうなんだ」
「……先生の目は節穴ですか?」
不満そうに探偵は言った。
先生はきょとんとし、首を傾げて考え込む。
「この汚された絵を見て、何か言うことは?」
いらだったように探偵が言って初めて先生は、僕たちの背後の絵とまわりの壁や天井に絵の具がぶちまけられていることに気づいたらしい。「うわあ」気の抜けたような驚きの声を上げると、言った。「掃除の方たちが大変だな、これ」
「犯人は誰だと思いますか?」
「さっぱりわからない」
先生は屈託なく言う。
「僕にはわかります」
「そうなんだ」
「ええ。だって探偵ですから」
「そうだったねえ」
「犯人は、根津です」
磯崎の断言に、先生は顔を曇らせた。「なんでそんな風に決めつける?」
「自明のことです」
「そうなの?」
「探偵ですから」
「根拠は?」
「まず、絵の具は油絵の具です。美術で油絵の授業が選択できるのは二年生以降。つまりそれで一年生は除外される。そうして絵の具の飛び散り方から、犯人の身長が推測できます。身長百五十センチ足らず。二年生以上の生徒でそれに該当する人間は五人しかいない。その五人の中で油絵の授業を選択しているのは根津充ただ一人」
「うーん……」
先生は、困ったような、けれども緊迫感のない顔をしている。
何て頼りない先生だろう。
その様子を見ていて、僕は不安になった。
探偵ぶって、馬鹿みたいな決めつけで人を犯人扱いする生徒を諌めることもできないなんて、大丈夫なのだろうか。
「まあ、そのことは考えておくよ。磯崎くん、君、部活は?」
「あ、ちょっと抜けて来たんです。今から戻ります」
抜けてきた?何のために、なぜ、このタイミングで?
怪訝な顔で見ている僕に、磯崎は笑顔で手を振ると、走り出した。背の高い彼の走りは優雅で、脚が長い分距離が稼げるのだろうか、あっという間に見えなくなった。
「あーあ、廊下は走ったらいけないって、いつも言ってるのに」
その背を見送りながら、先生は苦笑いしている。
「何部なんですか?彼」なにげなく、僕は訊いた。
「文芸部」
先生の答えに、僕は絶句した。たぶん、露骨に顔をしかめてしまっていただろう。
しかし高槻先生は、そんな僕に気づく様子もなく、
「君も前の学校では文芸部だったんだよね」と無神経に言った。
「はい。まあ、……今回も同じ部に入るとは限りませんけど」
「そうなの?確かコンクールで賞を取ったこともあるんだろう?」
いやな先生だ、と僕は思った。そんなこと、関係ないじゃないか。
「……磯崎くん、背が高くて運動神経もよさそうなのに、文芸部なんて意外です」
僕が返答をそらすと、
「ふふ。彼は探偵小説が大好きらしいからね」
何もわかっていない先生はそう言った。その上さらに、こう付け加えた。
「とりあえず、まずは一人同じクラスに友達ができたのはよかった。君も彼も、明日からは同じ二年B組だよ」
二年B組。
彼に犯人扱いされている根津充くんも、さっき磯崎が、二年B組だと言っていなかったか。
「へえ」
僕は完全に顔をひきつらせていた。しかしやはりこの無神経な先生は、察する気配がまるでない。
「渡すものもあるし、とりあえず職員室に行こう」
そう言って先に歩き出した先生に、僕はただ、付いて行くしかない。
とはいえ救いだったのは、この学校が「教科教室型」というのを採用していたことだ。
説明を受けて僕も初めて知ったのだけど、一般的に、学校の授業形態には、「教科教室型」と「特別教室型」の二種類があるらしい。「特別教室型」というのは、美術や音楽などの「特別な授業」だけを「音楽室」「美術室」といった特別教室に移動して受ける方式。一方この学校の「教科教室型」というのは、すべての授業――国語も数学も理科も社会も英語も、全教科の授業を、「国語教室」「数学教室」といった教科ごとの教室で受けるという方式だ。
毎回移動するのはかなり大変な気がするけれど、先生が言うには、自分で移動することで自発的に授業を受ける意欲が生まれる、またクラスに縛られず、個人の得意不得意に合わせて各自違うカリキュラムを受けられる、というメリットがある方式なのだという。
あと、それぞれの教科教室には専用の設備や資料が揃っているので、その分専門性の高い、面白い授業ができるんだよ、とも。それって先生の都合なんじゃないの、と思うけれど。まあ、面白くない授業よりは面白い授業の方がいい。
ともかくこの学校では、一日中自分のクラスの教室にいる必要はなくて、朝のHRと昼食、帰りのHR、その他一週間に一度の「学級活動」の時間を除くと、「同じクラスのメンバー」で集うことはないということだ。もちろん休み時間のたびに教科書やノートを「ホーム教室」二年B組の自分のロッカーに取りに行かなければいけないけれど、余分な時間はないだろうし。
「いつどの教室に移動するか、慣れるまでは大変かもしれないけれど、とりあえず端末で授業についての情報が確認できるから」
職員室の隅には、パーテーションで区切られた談話スペースが並んでいた。先生は脇の給茶機から紙コップにお茶を汲んできて、僕の前にも置いてくれていた。ざっと説明を終えると、先生は僕に、ノートの半分くらいの大きさの電子端末を渡した。設定は済んでいて、電源を入れると僕の名前が表示された。言われたとおりの初期パスワードを打ち込んで、指示のままにパスワードを自分で決めたものに変える。画面の指示に従って進んでいくと、明日の時間割が確認できた。教科書や資料などの必要なものや教室番号が表示されていて、さらに教室番号のリンクを押すと、今いる職員室からその教室までのルートが親切に図と文字で示された。
「先生はいつでもホーム教室にいるから、何か困ったことがあったらいつでも相談してくれたらいい。端末からメッセージをくれてもいいし」
「先生は、何の教科の担当なんですか?」
「国語だよ。でも担任を持っている間は、教科担当としての仕事は準備補助だけで授業はないんだ。研究と勉強の期間ってことで」
先生は、にこにこと言った。
前の公立学校の先生たちと違って、たぶん相当暇なんだろうな。
ふぬけたようなその表情を見て、僕は思った。
「何か質問は?」
「……編入試験の時、五教科以外に、すごく大量の心理テストとアンケートみたいなのを書かされました。面談もとびとびで別の日に別の人で三回くらいありました。入学試験で、全員にあんなことをしているんでしょうか。それとも、編入生には全員そうなんでしょうか。それとも僕だけなんでしょうか?」
僕は訊ねた。先生は、相変わらずにこにこしたまま、
「この学校はすごく生徒数が少ないよね」と言った。
「一クラスの人数がおよそ二十人。一学年は四クラス。……この学校は、生徒一人一人に合わせたきめ細やかな教育を重視しているんだ。君が特別なんてことはないよ。それぞれの生徒を理解するために、全員に、学力試験以外のさまざまな質問と面談を行っているんだ。入学後も、定期的に行われる」
「じゃあ別に僕は、『特別』とは見なされていないんですか?」
「生徒は全員『特別』だよ」
「……でも、僕の事情は先生はご存知なんですよね」
「ご存知だよ」冗談めかして先生は言った。
「けど……そうだね。君は冷静に、客観的に物事を見ようとするタイプのようだから、僕も正直に言うけれど。きめ細やかな対応を売りにしているこの学校には、普通の公立学校で何らかのトラブルに見舞われた子が数多く入って来る。その中で、別に君は『特別』でもなんでもないよ」
「……そうですか」
「そんな風に言われると、自尊心が傷つくかな。自分としては大ごとなのに、と」
にこやかなままそう言う先生の顔を、僕はまじまじと見る。
単に穏和でぼうっとした人ではないらしい。
「そんなことは、ないです」
僕は言った。
「じゃあ、磯崎くんや根津くんも何か問題があってここに来たんですか?」
僕の質問に先生は、これまでとは違う困ったような表情になり、けれども吹き出すように笑った。
「本当に君は、自分の心よりも他人のことばかり気になる子みたいだね」
そう言うと先生は立ち上がり、僕の頭を撫でた。
頭を撫でられるなんて本当に久しぶりで、すごく変な感じがした。馬鹿にされた、子供扱いされた、と受け取るべきなのだろうか。正直なところそういう感情はなくて、ただ、温かい手だ、と思ったのだけど。温かくて、大きいな、と。
「……でも僕は、人の気持のわからない、冷たい奴なんですよ」
僕は言った。
そうかなあ?と、背中を見せて遠ざかりながら先生は言った。職員室の中にはまばらに他の先生がいて、それぞれの机でパソコン作業をしたり紙のファイルをめくったりしている。
いきなり席を立った高槻先生は、扉のところに歩いていった。ちょうどのタイミングで「失礼します」と扉を開けた子がいて、真正面にいきなり立っていた高槻先生に、すごく驚いた顔をした。
「理科室の鍵を返しに……」
「ついでだから紹介するよ。編入生の沙原彰吾くん」
言われて僕は慌てて二人のところまで行った。
「彼は根津くん。根津充くんだよ」
そう言われて、根津くんははにかんだように笑いながらぴょこんと頭を下げた。僕もつられて頭を下げる。根津くんは本当に小さくて、とても華奢だった。おかっぱに近いような髪はさらさらで、黒目がちな目はやけに大きい。色白で、何というか女の子みたいだ。なんで磯崎は、彼を犯人扱いするのだろう。
「明日からよろしく」僕は言った。
「こちらこそよろしく」根津くんも言う。
彼が去ってから、僕は先生に訊ねた。
「今、彼が来るのわかってたんですか?」
先生は、きょとんとした。「どういうこと?」
「だって、彼が来るからさっき、立ち上がって扉のところに行ったんでしょう?」
僕が言うと、先生はうーん、と唸ってから、真剣な顔をした。
「実はね」
「はい」
「先生は超能力者なんだ」
「そうなんですか」
「……沙原くん。冷静に頷かれると先生はどうしていいかわからない」
「そんなこといわれても」
実は訊いてみたものの、話している途中で謎は解けていた。
廊下の天井には、鏡細工がある。天井のすぐ下は壁ではなく窓になっていて、しかも職員室の奥、廊下の反対側の窓際の端には姿見サイズの鏡が立ててある。職員室の天井の鏡細工の鏡片のいくつかは、その姿見を映している。さらにその鏡片のいくつかを、少し離れた位置の鏡細工のいくつかの鏡片が映している。
廊下同様職員室の天井も高くて、意識しなければ気がつかない。けれども意識をすれば、やって来る人の姿を職員室の中から確認することは可能なのだ。
とはいえ実際先生は超能力者ではないらしいので、常に気づくかといえば、そうでもないようだった。
しばらくすると、僕たちが話しているところへ、作業服を着た年配の女性がやって来た。先生が「あ」と立ち上がる。彼女は今よろしいでしょうか、と断った上で、廊下の例の絵の具をきれいにしたことを報告した。そういえば先生は職員室に入ってすぐ、どこかに電話をして、廊下の掃除を依頼していた。
「生徒さんが一人、手伝ってくれました。私はこれが仕事だからいいんだよ、と断ったんですが、どうしてもと言われて」
「そうですか」
先生は微笑むと、女性の差し出した紙にサインをした。
「ご苦労さまでした」お辞儀して見送る先生は、やはりどこまでも腰が低かった。
「沙原くん!」
帰り道。駅を出て歩いていると、声をかけられた。
「……あ。……ひさしぶり」
「『ひさしぶり』じゃないよ!」
一年生の時に同じクラスだった水橋あずさだった。肩までの髪を揺らし、自転車を引きながら走り寄って来る。かつては毎日当たり前に目にしていた制服が、妙に懐かしいものに思えた。重たげな紺色の膝丈スカート。三つ折りの白い靴下。
「新しい学校に通ってるって、本当だったんだ」
うっすらと翳り出した川べりの道を、僕たちは並んで歩いた。水橋の自転車が、からからと音を立てる。
「まだ通ってなくて、明日からなんだ。今日は説明とか、挨拶とか」
「じゃあ今までは……」
「南中に一応籍があったよ。新しいクラスは、一度も行ってないけど」
「そうだったんだ……」
水橋は黙り込んだ。たぶん訊きたいことはいろいろあるのだろう。でも、訊いていいか迷っているにちがいない。
「あのさ、城山は元気?」
僕は敢えて、その名前を自分から出した。会話にタブーがあるのは、お互いにしんどい。
「ん……元気って、言っていい感じではないかも。まあ、毎日学校には来てるみたいだけど」
「部活は?」
「来てない」
そっか、と言いながら、本当は、全部知っていることだった。
僕は毎日城山からメールをもらっている。それを毎日読んでいる。……返信は、してないけれど。
「沙原はさ……城山のこと、怒ってる?」
水橋が訊いた。
「怒って……」
僕は自分の気持について考えてみる。「怒っている」のだろうか。
「わからない」
僕は正直に言った。自転車はからからと音を立て続けている。車が車道を通り過ぎる。
「腕はもう大丈夫?」
「うん、それは。元々大したことなかったんだし」
そこの角で水橋の家とは別方向になる。そのことに少しほっとしている自分に気づく。これまで水橋と話しづらさを感じたことなんてなかったのに。まあ、仕方ないのだろうか。
「じゃあ……」
言いかけた僕に、黙りがちだった水橋が突然早口に言った。
「ねえっそれって香々見の制服だよね」
「え、うん」
「噂は噂だったのかな。それとも沙原くんは意外に」
意外に?
「え、噂ってなに」
立ち止まって僕は訊いた。水橋も立ち止まり、なぜか僕を上から下まで眺めた。
「そうか。沙原くんは大穴だったのかも」
「ええと、だから何が……」
「香々見ってイケメンばっかりでしょ。そんなことなかった?」
「へ」
思わず変な声を出してしまった。確かに磯崎は彫りが深くてかっこよかったし、根津くんは可愛らしい顔をしていた……けど。
「香々見は顔で生徒を選んでるって話だよ。松島翔って知ってる?」
たしかテレビドラマに出たりしていたような……少女漫画原作の純愛ものの映画で高校生役をやったりしていたような……いわゆる「イケメン若手俳優」だった気がする。
「俳優……だよね」
「そうそう。松島翔も香々見の卒業生らしいよ。エリリンが言ってた。ファンだから」
「へえ」
「謎の学校だよね。偏差値も進学率も非公開でしょ」
「……詳しいね」
「だからエリリンが松島翔のファンだから。沙原が香々見に入ったって知ったら、たぶんいろいろ聞きたがると思う」
そんじゃね、と水橋は手を振ると自転車にまたがった。
最後の唐突な話題転換は……水橋なりの気遣いだったのかもしれない。
城山について。あの出来事について。僕はもう平気なつもりだったのだけど。
けれど気がつくと、僕の右手は震えていた。
家に着いても、しばらくその震えは止まらなかった。