森のくまさんと赤ずきん
「ザンフト地区の森の周辺地域でクマが出る」
そんな噂が聞こえだしたのは最近のこと。それはそれは大きな身体で、牙は鋭く、目は夜闇の中ギラリと光る黄金色だそうな。
少女は言った。
「ザンフト地区の村にはおばあさまが一人で住んでいらっしゃるわ。危険だからしばらく私が向こうで様子を見るわ。最近顔を見せに行っていないからいい機会だし」
「しかし、そこへ行くには例の森を通らなければならないじゃないか。大丈夫か?」
そう尋ねたのは彼女の兄。彼はこれから狩猟に行くため荷造りをしている最中だった。両親も遠出をしていて不在である。
「大丈夫よ。私お兄さまより銃が得意なの、知っているでしょう? それに、ほら」
少女は彼に一通の手紙を見せた。手紙には一言、
――ザンフト地区の森に出るクマを退治しろ――
とだけ綴られていた。村長からの仕事の依頼であった。
少女の家系は代々ハンターとして働いていた。獲った獲物の肉や皮を売ることを生業とした家系。社会的に卑しいとされる身分だが、誰かがやらなければいけない仕事だった。今回は退治すること自体を依頼されたが、こういうことも稀にある。
「もしクマに出会ったら私がついでに仕留めておくわ。大丈夫、ちゃんとやってみせるから」
そう言いながら、もう彼女は銃に弾を込め始めている。随分慣れた手つきだった。数十分後、必要なものをすっかりリュックに詰め込み、トレードマークの真っ赤なずきんを被って出て行ってしまった。
***
森に足を踏み入れてから歩くこと三十分、鬱蒼とした木々を抜け、色とりどりの小さな花が咲き乱れる小道に出た。
「まあ……森の中にこんな美しい空間があるなんて」
少女は思わず立ち止まり感嘆を漏らした。
せっかくだからおばあさまのお土産に、と花を摘み始めた時だった。
「お嬢さん、こんな森の中まで何用かい?」
優しい青年の声。振り返ると、少女のすぐ後ろに、毛皮のコートを着た黒髪の青年がにっこりと微笑んで立っていた。その瞳は優しい光をたたえた金色だった。この地域では珍しい。
「あ……えっと、おばあさまの家へ……あなたは?」
「僕はここに住んでいるんだ」
「森の中に、人が……!」
変わった人もいるものだ。少女は目をパチパチさせて驚いていた。
「この森のことなら詳しいよ。良ければおばあさんの家の場所を教えてくれないかい? 最短ルートを案内するよ」
なんて幸運なんだろう。方向感覚に自信がなく少し大回りでも分かりやすい道を歩くつもりでいたが、これなら予定より早くたどり着けそうだ。
青年はとても親切だった。疲れたら休ませてくれたし、道中で見つけた美味しい木の実を取ってくれたりした。
「随分と大荷物だね。僕が持つよ。それにしても何を入れてきたんだい?」
「あっ、気にしないで! 大丈夫よ。これは……その」
銃が入っているなんて知られたら狩人であることがばれてしまう。この青年に低い身分のことは隠しておきたかった。
「おばあさまへのお土産をたくさん用意しすぎちゃって……」
ちょっともじもじしてそう言うと、青年から「おばあさん思いなんだね」と褒めてもらってしまった。
***
夕方頃にはおばあさまの家に着いた。本当に早く着いて少女もおばあさまも驚いた。少女は青年にお礼は何がいいかを尋ねてみた。
「森に人が来るなんて珍しいから君と話せただけで僕は十分嬉しいけれども……そうだね、もしよければ少し食糧を分けてくれないかい? 最近森の環境が悪くて食べ物が見つからないんだ……」
青年は辛そうな顔をしてそう言った。それなら村で暮らせばいいのに、と少し不思議に思ったけれども、きっとそう出来ない事情があるんだろうと思って聞かないことにした。
もう日も暮れてきたし泊まっていくよう勧めたけれども、青年は断り、食べ物だけ受け取ると慌てて帰ってしまった。
***
その夜、おばあさまと二人でたくさんお話をした。久しぶりに会ったものだからお互い話題は尽きることがなかった。
食事もお風呂も済ませ、少女はおばあさまにおやすみを言おうとおばあさまの部屋のドアをノックした。
返事がない。もう眠ってらっしゃるかしら、と思いつつ少しだけドアを開けてみた。案の定明かりはすでに消えている。そっとドアを閉めようとした、その時。
「赤ずきんや」
おばあさまの声がした。
「赤ずきんや、こちらに来てもう少しお前の可愛い顔を見せておくれ」
赤ずきん……? 何か違和感がある。赤ずきんというのは少女の狩人としての通り名であり、おばあさまにそう呼ばれたことは今まで一度もなかった。
「どうしたの? おばあさま急に……」
そう言いながらドアを押し開けた瞬間、少女が見たものは。
奥の大きな窓から差し込む満月の光がベッドに座ったおばあさまを映し出す。大きな耳、大きな目。そして耳のところまで裂けたそれはそれは大きな口。グルル、とおばあさまの喉がうなる。
「おばあ……さ……ま……?」
少女は頭が真っ白になった。この狼は何? おばあさまは? おばあさまはどこ? ざっと部屋を見渡すがおばあさまの姿は見当たらない。
「赤ずきんや! さあこちらへ!」
驚いたことに、その声を発していたのはあの狼の大きな口。そんな……嘘でしょう? おばあさまは? 今まで数多の獣を手にかけてきたはずの赤ずきんの足が震えて止まらない。逃げなきゃ、頭の中ではそう叫ぶのに身体は硬直したまま言うことをきかない。
狼がベッドからゆらりと立ち上がり、一歩、また一歩と少女との間合いを詰めてゆく。ついに少女の目の前に大きな黒い陰が立ち塞がり、ギラリと光る牙が少女に迫った、その瞬間だった。
ガシャーン!!!
物凄い破壊音と共に部屋の奥のガラスが砕け散った。もう一つのとてつもなく大きな黒い陰が狼に飛びかかる。小さな部屋と廊下に響き渡る獣の悲鳴にも近いうなり声に、月夜に照らし出された大きく鋭い牙。後から飛び込んできた黒い獣の瞳は金色に輝いていた。
バシャ! 顔に血飛沫がかかり、ようやく赤ずきんは我に返った。一目散に自分の荷物のところへ走り、息を切らして先ほどの部屋の近くまで戻った。銃を構えて廊下の角から様子を伺ったが、その頃にはもう物音一つ聞こえなくなっていた。
おそるおそる例の部屋を覗いてみると、大きな獣が二つ、横たわっていた。一つは先ほどの狼、もう一つは大きな黒い熊だった。
うっすらと目を開け、金色の瞳が少女を見つめた。優しい金色の光。
「そんな……何故……」
少女が涙を零すと、彼は少しだけ微笑んで、そのまま目を閉じてしまった。
それから彼が目を開くことは二度となかったという。
***
「みんな、お金もなくて、食べ物がなくなっちゃったら、どうする?」
あの夜から十年後。小さな公園で、一人の女性が子供たちに話しかけていた。
「え――っ! お腹すいて死んじゃう!」
「隣の家に分けてもらう!」
「働いて稼ぐ!」
子供たちは口々に言った。
「そうね。でもね、森のくまさんは働いてお金を稼ぐこともできないから、森に食べ物がなくなっちゃったら村に下りてくるしかないでしょう? それじゃ、私たちも困るわよね? だから森の環境は私たちが守ってあげないと」
女性が言うと、子供たちは頷いた。その女性はかつて赤いずきんを被っていたが、今はもう被ることはない。
彼女は、後に森の環境保護に貢献し、世に名を残したそうな。