9.幽霊における夜這いの割合とその習性研究
レイスは、何かの気配を感じ、目を開けた。咲月の寝顔が前にある。
レイスは眼球だけを動かし、暗い部屋の中を見回す。
扉、よく閉まっている。
窓、普通に閉まっている。
レイスの目は、小さな茶色いテーブルで止まった。
一瞬だけ思考が停止する。
スープの入っていた器が、五センチほど、宙に浮かんでいた。
目を閉じた。
目を開けた。
咲月を見た。
気分が落ち着いたので、脳の一部を停止させた。
レイスは、咲月の口にそっと指を入れた。
咲月はレイスの顔しか見えてないのに、驚いた表情を見せる。レイスは三回、人差し指を回した。
咲月の顔が緊張したものに変わった。
テーブルの上では、器は、もう浮かんでいない。
今度はスプーンが空中でくるくる回っている。
もう一度、念を入れて脳に停止を命令した。
レイスは胸元に置いていた、ナイフを悪魔に思いっきり毒づいてから抜いた。
自衛のために戦って、何の意味があるというのだ。
「なんで浮いてる!」
レイスは毛布を跳ね除けると、空中のスプーンを斬り付けた。
軽い音と共に木のスプーンは真二つに割れると、部屋の隅に飛んでいった。
咲月も、ベッドから転がって飛び出す。
「うわ! あなた達、起きてたの!」
レイスは声のした方向、テーブルの真上を斬り付けた。
手の平は空気を切り裂いたと喜んで報告した。
「ちょっと待って! 別に、襲いに来たんじゃないんだってば」
「顔を明かさないでしゃべるのに、ろくな奴はいない!」
レイスは、適当にあたりを付けてナイフを振った。
空中がまた声をあげる。
「わかった、わかったわ。姿を見せるから、落ち着いて」
すると、テーブルの上の空間に、少女が現れた。
咲月の投げた薪が、恐ろしい速度で少女の頭部を通過し、小屋の屋根に穴を開ける。
「うわ! 顔を明かしたのに攻撃するんじゃないわよ!」
その少女から声が聞こえた。レイスは、扉の方へ下がりながら、少女を観察した。
外見年齢は小学生ほど、水色のドレス、金髪、青白い肌には生気がない。
しかし大きな金色の目だけは生気に満ちて爛爛と輝いていた。
「わお、幽霊です!」咲月がレイスのすぐに目をつぶってしまいこんだ直感を声に出した。
壊れた民家から恰好の遺品として出てくる西洋人形のような姿の少女は、ふよふよと浮いていた。
この少女の存在に対しレイスの頭の中では思弁哲学者的部分以外は全て、否定的な反応を示していた。思弁哲学者的部分だけは日頃馬鹿にされ続けていた、知覚に対する懐疑論を勝ち誇ったように大音量で主張していた。
「咲月、寝る前に舐めた飴ってもしかして演説配布用?」
「そんなことないですよ……」
「あの化物の言い訳が思いつかないわ」
寝ても覚めても気違いじみたものが現れる。夢と現実の区別がつかないという言葉は、今この時のために誕生したのではないだろうか。
「フリーズ」レイスは最後の望みをかけて、不機嫌に銃を突きつけた。少女は不思議な顔をして近付いて来る。
「くそっ、認めるわよ……」レイスは舌打ちしてポケットに突っ込んだ。
「せっかく、仲間がいたから声をかけたのに! そら、ちょっとは驚かしてやろう、とかも思っていたけど……とにかく! ねぇ、おしゃべりしましょうよ」少女が言った。
「仲間?」レイスは思わず聞き返した。
「あなた達、一度死んだでしょ?」
レイスは何と返していいか解らず口をつぐんだ。ただでさえ慢性的混乱を患っているのにその質問は重すぎる。
「あなた達、生きてないわね! 死んだ奴の目をしているわ」今度は質問ではなく、断言をしてきた。
固まっているレイスを見かねたのか、咲月が薪を手に声をあげる。
「ノックもせず部屋に入るわ、姿は見せないわ、上から喋るわ、名は名乗らないわ、失礼の役満野郎ですね。楽しいおしゃべりには順序があります。あなたの名前、いや、あなたが何者なのか、早く答えてください!」
少女は拗ねたような仕草を見せるが、余程喋りたいのか同じ目線まで降りてきた。
「私の名前はショットアウト、ポルターガイストっていう種類のお化けよ。昔の名前は忘れちゃったわ。ねえ、あなた達死んでるわよね」
ショットアウトと名乗った幽霊はふわふわと移動すると、空いている方のベッド台に、腰を下ろした。
腰を下ろす。
いわゆる幽霊であろう彼女が腰を下ろして座れるのか。レイスは気が紛れるようなるべく懸命に考えた。
「あなた達も座ってよ、まさか上から話すわけじゃあないのでしょ?」ショットアウトはにこりと笑って見せた。
咲月がレイスの顔を伺うように見る。レイスは首を振ってベット台に座った。
ショットアウトは……何かを催促する目で、こちらを見ている。
「……あぁ、姫条レイスよ」
「兵堂咲月です」
まだ微妙そうな顔をしている。表情豊かな幽霊だ。
「で、あなた達のケルゴンパターンは?」
「は?」咲月が言った。
「もしかして死んでることに気付いてないの?」ショットアウトは何故か嬉しそうな笑顔を作った。
「いや、あなたの質問の意味が解りません」咲月は不機嫌そうに答えた。
ショットアウトはその言葉が予想外だったのか、暫く呆けると、次に同情と哀れみを混ぜたような視線をこちらに向けた。
「うぅ、あなた達も私と同じ記憶喪失なのね。自分のケルゴンパターンも解らないなんて、そうに違いないわ。かわいそうに、お昼に、街の中に入っていこうとしたのを見て、もしかしてなんて思っていたけど。よく気持ちはわかるわよ。私も幽霊になったときは、何もかもがわからなくて……」
金色の目には涙が浮かんでいた。演技なのか情緒不安定なのか、レイスはまだ掴めない。
情緒不安定な演技をしているのか、情緒不安定な演技でひどい情緒不安定を隠しているのか、情緒不安定な奴が情緒不安定の演技をしているつもりなのか、ただのどうしようもない情緒不安定かさっぱりわからなかった。
「彼女なんなんでしょう」レイスの耳元で咲月が小さく囁いた。
「化物の一種」レイスはすぐに答えた。
「会話できると思います?」
「やる気はあるみたいよ」レイスはそう言ってから少し考えた。
「もしかしたら会話を上手くやらないとまずいかもしれない」
少なくともナイフと薪と銃の脅迫は通用しそうにない気がする。
幽霊の泣き声が止んだ。
レイスは穏便に対処するという方針を可決して、柔らかく友好的で財布を預けても良さそうな表情の準備をした。
ショットアウトはいきなり顔をあげた。顔は笑顔に変わっていた。
「私はあなた達に共鳴したわ! 久しぶりの会話できる同類が記憶喪失の死人同士なんて嬉しい! 怨念に頭をやられているのが多すぎるのよね。殺すしか言えない奴とか、食べるしか言えない奴とか。みんな私を無視するのよ。でもあなた達はその点とっても理性的! お友達になれそうな予感がすると思うの。その服装は元魔術師のリッチかしら? あは、記憶が無いなら解らないわよね。大変だけど、新しい人生だと思えばいいのよ。ねえ、ところで協力してほしいことがあるんだけど。あ、実はこれが話しかけた理由なのよ」
ショットアウトは早口で全ての言葉をまくしたてた。
レイスと咲月の顔は同時に引き攣った。
「ねえ、咲月。私の手には負えないかも。予習してきたあなたに任せるわ」
「ご、ゴーストには魔法が効くんですけど……」
「会話技能の方に期待をするわ。私は演説と交渉以外は得意じゃないの」
「り、了解です」
レイスは咲月の返答を聞いて、安心すると、柔らかく友好的で財布を預けても良さそうな表情を引き出した。
「ショットアウト、咲月が話を聞いてくれるわ」
咲月は数秒、自分の指を噛んでガリガリと音が聞こえてくるほど考え込んだ後、目を細めて咲月の正面にいつの間にか移動していたショットアウトと顔を合わせた。
「あぁ、はい。えーと、自分の名前以外は全然、思い出せなくて……。いろいろ教えてくれたら多分、協力、とかもできると思うんですけど」
ショットアウトはそれを聞くと顔を明るくする。
「ほんとうに? 嬉しいわ」
「多分、ですけどね」
「何から知りたいの」ショットアウトは咲月に向かって、机にのめり込むほど身を乗り出した。
「では、まず世界とは何ですか?」