8.そこは悪人だけが知っている
いつの間にか、レイスは赤銅色の砂漠の上に立っていた。ひっくり返したように地面と同じ色のくすんだ空が広がっている。そこはあたかも不気味な場所で、紛れもなく不気味な場所だった。空だけではない、耳にはずっと不安を掻き立てるような音楽が入って来る。そして地面には炭化した赤ん坊のようなオブジェが無数に突き刺さっていた。
レイスがしばらく呆然と立っていると、オブジェの一つが間抜けた音と共に飛び出した。
人型は弧を描いてレイスの前に着地する。
レイスは目を細めた。弾が無いと解っていながら手がポケットへ移動する。
人型は一瞬痙攣したように震えた後、レイスに向かって頭を下げた。
「夢の中で夢を……」レイスは思わず呟いた。
「夢ではないぞ、我が同類」しゃがれた気管支炎声が聞こえた。
振り向くと牙だらけの黒い獣がレイスを見つめていた。
黒い獣はまるで、このふざけた世界に詳しいから説明を始めてやるという風に口を開いた。
「そいつはお前を――」
「久しぶり」レイスは鋭く挨拶をした。
「……ああ、久しぶり」黒い獣は顔をしかめて、牙を数本折った。「そいつはお前を案内しようとしている」
黒い獣が顎で示す先を見ると、人型が砂の上を偏平足の患者のような足取りで歩いていた。
レイスは特に何の変哲も無く後ろに付いていった。
黒い獣はレイスの隣にのろのろと貼りつく。
しばらく、歩き続けたが景色も音楽も何一つ単調で変わらなかった。地平線の果てまで黒い子供は砂漠に突き刺さっている。レイスはふと夢から覚めたように……足を止めた。
「なんで私は間抜けなアヒルみたいに付いていってるのよ」
予期していたように黒い獣と人型はレイスとぴったり寸分も狂わず同時に止まった。
「間抜けだからだ」黒い獣は嫌味に唸った。
「違う」レイスは言い返した。言ってる途中に少し考え直して、「そうね、間違ってないかもしれない。いや、でも確か、あなたに怒鳴るべきことが一つあって……」
周囲の砂漠は風も無いのに黒い人型を乗せてうねっていた。よく見ている内に砂だと思っていたものは乾いた塩だと解った。
「ここはどこなの!」レイスはようやく答えが出て嬉しく怒鳴った。
「お前の今いる世界や元いた世界よりも、遥かに素晴らしいところだ」黒い獣は言った。
「そうじゃないわ、こことあそこのことよ! えーと、つまり……私は生き返っていない!」レイスは不快に怒鳴った。
黒い獣の首がねじ曲がり醜い顔で笑みを作る。パリパリという音がなり、折れた牙が砂の上に落ちた。
「約束通り生き返った、お前は。どこにとは言ってなかったが」
「ふざけるな! 私の世界に帰しなさい! あんなところ気が狂うわ!」
「ククク、気に入らなかったか。お前が住みやすく変えてはどうだ、ん?」
「何ができるっていうのよ。森で暮らせっていうの!」
「好きにしてくれればいい」黒い獣はまた得意気なうざったらしい表情を作った。「それで我らは満足だ」
レイスの足と手がどちらでストレスを解消するか激しく議論を始めた。その間にレイスは半笑いで尋ねた。
「あなたが、私に何をさせようとしてるのか知らないけど、何もしないわよ。夢想家から夢を取ったら何も残らない」
黒い獣は目に刺さっている牙を前脚で割った。牙に刺さったままの目玉が乾いた砂漠にぼとりと落ちた。
「いや、お前は我らの役に立つ」黒い獣は無頓着に答えた。
「立たない」レイスは叫んだ。「いいか、我らは快楽的でも自然的でもない。我らの銃弾には思想がこもって――」
「立つのだ」黒い獣が遮って言った。「そういう奴を選んだ。お前はどこでも戦う」
耳に入るでたらめな音楽が一層大きくなった。レイスは黒い獣を睨みつけた。
自分が苛立ってくるのがとても解りやすい。
「何をやらせるつもりか、聞いてあげるわ」
「言ってもいいが、貴様は怒るかもしれない」
「じゃあ教えて」ちょうど怒りたい気分だった。
「悪魔の敵を倒してほしいのだ」
「はあ?」レイスは怒った。「何故、貴様が戦わない」
黒い獣は笑いながら足を止めた。
「ククク、怒るなよ。お前は我らにも戦えと言うのだろ? 知っている。お前はそう言いながら何人も殺して来た」
そう言って呆れたように首を振ると、白い破片があたりに飛び散った。
「できるなら我々もそうしたい。だができない。そっちの世界は毒まみれだ」
「なんでそのために私が――」
黒い獣はレイスの言うことを無視するように口を大きく開いて吼えた。
「天使だ! 天使を殺せ! 貴様の送った場所に逃げ込んだ奴らだ! いいか、お前にも理由がある。天使は戦いを止めるぞ。そっちから魔界にやってきて……つまりお前の世界だ。我らの世界にだ! それは困るだろ、嫌だろ貴様は! 故に、必ず、我らの役に立つのだ。真に、身も心も同類なのだよ。だから貴様を選んだ」黒い獣は深海魚のような牙を一斉に折って全て説明したというように口を閉じた。
レイスは突飛で奇怪な説明に、苛立ちとその他もろもろを投げ捨てて検証しつつ、少し引いた。
「天使って……」
続く言葉と、先ほどの楽しかった気分思い出そうとしていると、前にいた人型がいつの間にか近づいていた。
ぞっとして顔が引き攣る。人型は黒い獣の前に立つと何かを囁いた。
「なんだ、忙しい奴だな」黒い獣は不満げに言った。
「何を」レイスの言葉は途中で止まった。急に煙が湧き上がって周囲を覆いつくした。腐った泥の塩辛い匂いが鼻に入って来る。爆音に近くなった音楽の合間を縫って悪魔の声が聞こえた。
「我は一切の協力を惜しまない。好きにするのだ、お前こそが悪魔の意思。ではまた、ここで待っているぞ……」
「ちょっと待ちなさいよ」レイスはまるで何事もなく去っていく雰囲気の声を上げる黒い獣を呼び止めた。
「なんだ」煙の中から気味の悪い顔が現れた。
「頭大丈夫?」議論に勝った足が嬉しそうに塩の砂漠から離れた。