4.哲学的議論における棍棒の効用とその重要性
レイスと咲月は全速力で山をくだっていた。
もちろんレイスは走るより歩く方が好きな人種だし、山道は下りほど慎重にするべきだと知っている。
耳元を小枝がかすめていった。足は奇妙に思うほどに軽い。驚嘆すべき速度で二人は駆けている。
意外な身体能力にはしゃいでいるわけではなかった。つまるとこ二人は追いかけられていたのだ。
「くそっ! もう、追いつかれます!」
咲月は上気した顔で言う。後ろからは追跡者の大声が飛んでくる。
「guah! 逃走を続けることの意義を再考するべきだ!」
レイスは甲高く気味の悪い声から耳を塞ぎたかった。これ以上のスピードは、出そうにない。
背中に寒気が走り、咄嗟に頭を屈めた。
古典的な槍と剣の中間物、グレイブが髪を掠めて通り抜けていく。
グレイブはレイスを仕留め損ねると、勢いを保ったまま、なんと岩に刺さった。
「うわ……」レイスはかなり引き気味に呟いた。
咲月が青い顔になり、大声で叫ぶ。
「レイス様! 私の! 前に! 来てください!」
レイスは頷くと、速度を保ったまま咲月の前に出た。
咲月はスーツケースを、頭の後ろに抱える。
巨大なケースは、咲月の上半身をほとんど隠した。
二本のグレイブがケースと衝突し、歯の溶けるような音と共に弾き飛ばされる。
凶暴な威力を走るのと同じ方向に受けて、咲月がうめき声を上げた。
「うっ…ぐう! さすがに、対爆仕様が、ぶち抜かれることはないと、思いますけど、これで、バランスを崩さないでいれるのは、素晴らしいですね!」
耳元では、風が不満げに唸り続けている。
眼下に望む目的地にはだいぶ近づいた、が、まだ十二分に距離がある。
「ほんと、ここはどこなのよ……」
レイス達は奇怪な原住民に襲われていた。
彼らの迫る足音は、逃げれば逃げるほどに増えていった。
延々と、グレイブと、声が、空を飛び続ける。
「grrrrr! 鉄槍の形相を適応させろ!」
「drrggg! 突き刺さることが貴様の実存だと主張する!」
レイスと咲月は、今晩に基地へ着く予定で、山道をゆっくり下っていた。
実際に歩いている間はハイペースで下っていたのだが、咲月が事あるごとに立ち止まるため、結局はゆっくり下っているというぐらいで落ち着いていた。
咲月は数十歩進んでは、この植物はすごく珍しいだとかいうことを、キラキラした目でレイスに話した。
レイスは咲月の話の一割ほども理解できなかったが、彼女がしゃべるのを楽しく見ていた。
「ほら見てくださいレイス様! このお花なんて、学会に持っていったら死人が出ますよ!」
咲月はさっきから、重たいはずのケースを振り回しながら、山道を行ったり来たりしている。
レイスも結構な時間下山してきたが、あまり疲れた気はしない。
山道といっても、整備されたようなところではない。おそらく春には雪解け水で小川になるようなところなのだろう。大小様々な石が転がり、その間を草が埋めている。道の両側は身長ほどのブッシュ帯になっており、ところどころに木も生えていた。
咲月はまた何かを見つけたのか、こちらを向いてぴょんぴょん跳ねている。
ある程度まで近づくと、腕を振って声をあげた。
「レイス様! 向こうの、藪の中に、動物みたいなのがいましたよー!」
レイスがそちらの方に目を向けると、確かに、咲月の近くの藪が音を立てて揺れているのが見えた。
そして、藪の中から子供が飛び出してきた。
「は……?」
「うわ」
「grag?」
レイスと咲月は同時にひるんで体が止まった。
子供が出て来たのが理由ではない。その子供は余りに奇怪な風貌だった。病的に丸い身体に、茶色の毛皮をレザースーツのように隙間なく纏っていた。さらにその上にくすんだ分厚い防護チョッキを重ねている。この時点で嫌悪に値するが、何より猪の頭を繰り抜いてそのまま被っているとしか思えないマスクがおぞましさを感じさせた。
子供も驚いたように立ち止まっていたが回復はレイス達より早かった。
開いていた足をきっちりと閉じて、勢いよく曇った空を指差した。厚ぼったく変色した手の先も白リン弾の火傷を思い出させレイスは少し胃がむかむかとした。
「guagg! 集結の実行を提案する!」
不快なほど甲高い声が山に響いた。
子供が大きな叫び声をあげると、今まで静かだった藪が一斉に動き始めた。
レイスの全身に緊張がまわった。
「ち、ちょっと」
レイスは目を細め、咲月に駆け寄った。子供を追い抜いて、麓へ近い方から向かい合う。
「待って、我々は通りすがっただけよ。危害は加えない、ここの政府の関係者でもない、あなた達を尊重して、何もせず……」
レイスの言葉を遮るように、姿を見せている子供が大声で叫ぶ。
「guag! 空腹の可能目的は非実現! grrr! 必要を保持する間抜けな人間! grag! 貴様の肉は食卓を帰着とする!」
レイスはぞっとして足に力を込めた。
「いや、私は食糧の手持ちは無いのよ……」ちらりと横目で見ると、咲月はまだ目を見開いて固まっていた。
「grag! 食肉の定義は所有で無く、内在するものだと主張する!」まるで議場の机で仁王立ちをする思索家のように子供は声を張り上げた。
「カニバリスト……」
藪を見るとうねりがさらに大きくなっている。相当に、多い。
「咲月、走って!」
レイスは子供に背を向けて、麓へ駆け出した。
固まっていた咲月も、レイスに声をかけられると、はじかれたように走り出した。
原住民はすぐに山道に集まってきた。
数は十…いや、二十人ほどいる。全員同じ奇怪なマスクをつけ、大きい奴ですら咲月ほどもない。慰めは誰も銃を……少なくとも小銃は持っていないことだ。
レイスは走りながらポケットの中のモロトフを引き抜くと、初めに出てきた声の大きい子供に向けた。
「追ってくるな! 殺す!」
子供はレイスの忠告を嘲るように奇声を上げて、走り出した。
ふと強烈な違和感に囚われる。レイスの目的は威嚇だった。それはひとまず自らの能力で実現可能な、最善の結果と考えたからだ。
しかし、走りながらでも銃はまっすぐ奇怪なマスクの中央、おおよそ美しいという概念に反逆を試みている、突き出した鼻を捉えた。
腕の骨が一本の真鍮になったように微動だにせず、上半身はその腕を完璧に制御している。
当然、すぐに怒り心頭でこんなことあるかと疑問が浮かんできたが、浮かべた馬鹿は当然、すぐに頭から追い出された。レイスは、引き金を引いた。
「guahhguah! 人間の食肉的実存明確化作戦の準備を主張する! 奴等で腹ごしらっ!?」
銃弾はマスクの鼻に吸い込まれるように命中した。大声を出していた子供は血を噴き出しながら勢いよく後ろへひっくり返る。音からして気休め程度の防弾機能もついていなさそうだ。
他の原住民がぎょっとしたように立ち止まった。レイスはすぐさま続けて撃った。
「guah!?」
「gett!」
すえた銃声が耳に入り、最初の死体の近くに二人が倒れ込んだ。一人は当たり所が悪かったらしくまだ生きて血と悲鳴を巻き散らしている。
集団のどこからか、背筋の凍る大声が上がった。
「grrraaaa! 魔術師だ! 散開を主張する! 対策の実行を提言する!」
原住民達は慌てて山道から藪に飛び込んだ。数人は頭から突っ込んだようで、不満そうなうめき声が聞こえた。
レイスはスライドの下がった銃を二、三度見た後、コートに突っ込んだ。
疑問が間を見計らって戻ってきたところで、いつも通り咲月が代弁する。
「レイス様、って、そんなに近接戦闘……得意、でしたっけ?」
「いや……だいぶ下手だったわ」レイスは左手を見て考えた。
「咲月、あなたが、重いケースなんてもって走れるのもおかしな話よ、それに、こんなにも速く」
咲月は、ケースが重かったことを今思い出したようで、慌てて答える。
「いや、確かに! 私がこんな重いものを持てているのは……ありえない。え、なんでだろ……」
咲月は考え込むように腕を組んだ。今にも立ち止まってぶつぶつ言いだしそうであるし、立ち止まってぶつぶつ言いだす人物だということをレイスはよく知っていた。
黒い獣の捨て台詞の一部を思い出して、少しだけ自分を呪った。
「あー……悪魔が私も悪魔だって。だから、多分、咲月も」
「知ってますよ」咲月は腕を組んだまま呟いた。
「なんか強くなったりするんじゃない」
「ちっ、もうちょっと調べとくんでした」
「あんまり深く考えないことよ」
しばらく走って、多少速度を落としてもいいだろうと思い振り返るとレイスは信じられないものを見た。藪から飛び出した原住民が、再び山道を駆け下りてくる。手には呆れるほど古典的などう見ても引き金も信管も無い鉄の棒を持って。
「うそでしょ、あいつら銃を知らないの」
「ははは、それはそうですよ、レイス様。では文明の力を思い知らせてやりましょう。虫唾が走る台詞ですけど、この際仕方ないですよ」
レイスはため息をついて、咲月を引っ張った。
「走り続けましょう。もう弾が無いの。あのどう見ても怪しい場所が悪魔を入れてくれるといいけど」
咲月の顔がひきつり、いびつに笑った。
「あ、あはは、まあ大丈夫ですよ。心は優しい人間ですし……ね」