2.悪魔の持つ契約論とその固有性
「さあ、起きろ」
器官支炎にかかったオペラ歌手のような声だった。声はレイスの脳みそを遠慮がちにノックして、幸い自らの意味を実現できた。レイスは言葉の意味は理解していなかったが、ともかくしゃがれた声で眠りから覚めた。
「目を開けろ」
次の言葉が持つ意味は、レイスにしっかりと届いた。だが、それは実現されなかった。眠たい時に起きろと言われることを、レイスはそこそこに嫌っていたからだ。
「おはよう、新たな同類。貴様の契約と、事後サービスは私が、私がやらされるのだ」
二秒ほどの間が空いた。
「それでは、契約を……」
意思表示を無視されたので、レイスは仕方なく目を開いた。太さも長さも不揃いな、無数の牙が目に入る。深海魚のような牙が張り付いているのは、真っ黒い狼の顔だった。それが仰向けのレイスを頭の上から覗き込んでいた。
一度、口がかわいい悲鳴の準備のために開いたが、驚愕と眠気がまったくの偶然に中和し、レイスは冷静に、四年前にばったり出会って少しだけ撃ったその顔を、思い出すことが出来た。二回、音の無い空気が喉を通り過ぎた後、ようやく声がのろのろ這い出す。
「あぁ……あく、まか」
「お前もな」
首を思い切り捻ると、凝ったり固まったりしていたものが音を鳴らすと同時に、青々としてとても透き通っている草原が見えた。レイスは草原に寝ころがっていることのうち、理由以外の点は納得した。
逆に回すと、今度は嫌な痛みの後に、朝と夜の間を示す空と鮫の歯に似た岩山の列が見えた。そして背中の下は湿っていて冷たいし、とても傾斜しているし、薄い雲はレイスと同じ目線に浮いている。つまり、自分が高地か、かなり期待外れの最後の審判待合室にいることも同時に分析した。
「それでは――」
「ここは何処よ。くそ……体が重いわ」レイスは質問と悪態を吐いた。
「やはり先に、挨拶をぱっぱと済ませろ」黒い獣は不満そうにうなり声をあげた。
足の先まで回りきっている倦怠感に抗い、レイスはため息のついでに口を開いた。
「おはよう……」
レイスが答えると、黒い獣はおおよそ神妙と推測できる顔になった。
「それでは、契約を完了する」
牙のいくつかが割れて顔の近くに落ちた。人間の前歯によく似ているものも混ざっていた。それに何の感想も浮かばない程度には、レイスはひどいダウナー状態だった。
「姫条レイス、貴方が来る日を我々は長いこと待ち望んでいました。しかし、ここに来たのは貴方の意思だということを忘れないでください」黒い獣が、読み上げるように言った。
「……来る?」レイスは質問をした。黒い獣は、その質問を万全に予測していたという風に「あぁ」と言った。
「新たな力が、貴方のお役に立てれば幸いです。しかし仮に役に立たなかったところで、それは少し不幸が重なっただけです」
「……力?」レイスは最低な気分を奮い立たせて質問をした。黒い獣は簡潔に鋭く的確に、一度頷いた。
「貴方の活躍に我ら全員が期待して、楽しみにしています。しかし、原則的に以降の行動は全て、貴方の責任だということをご了承ください」忙しそうに言い切り、口をぴったり閉じた。長くて細い牙がぱりぱりと数本折れて、地面に落ちる。
我ら?と口を動かすのをやめて、レイスは立ち上がった。思ったより傾斜がきつく、バランスを崩しかける。
風に混ざった冷気が少しだけレイスの触覚からいろいろをまんべんなく刺激した。
「私は生きているのかしら」無意識がふと勝手に飛び出した。
「そうだ」黒い獣は憎々しいことにこれには答えた。
今いるのは高地に間違いないと、レイスの頭の中でいつも暇をしている所が満足げに宣言した。残りの大部分は血を吐くほどの労働の末、口に重大な指令を出した。口はその内容に大きな疑問を持ったが、ぱくぱくと二回ほど確認をとって、ようやく慎重に言葉を発した。
「……私は生きているのね」
「間違いない」黒い獣は答えた。
「それは……」レイスの頭がぴりぴりした。「朗報ね」
「そうだろうな」
「いや……」レイスはゆっくりこめかみに手を押し付けた。「奇跡的?」
「そうではない」黒い獣は牙の隙間から声を漏らした。
その不満げな声を聞いてから、二秒ほどレイスの身体は静止した。足りなかったのでもう一秒静止した。震えが一つ走った。ダムを爆破したように一気に実感が湧き上がって来た。脳髄が軋む音を立てて動き出し、感情が大急ぎで全身を叩き起こして回った。
「私は生きている!」
レイスは顔を手で覆い、呆けた膝がまた地面に勢いよく落ちた。今度は冷たく柔らかい。
「くくく、私は生き返ったわ! みんな口を馬鹿みたいに開ける! ぬか喜びしてる奴の顔が固まるのが目に浮かぶわ! 同志達は涙を流して喜ぶはずよ!」
黒い獣はレイスの言葉に反応することも無く、周囲をゆっくり歩く。
「『魂を悪魔と変えるならば、死の鎖から解き放とう。我らが告げる盟約を果たし、再び実存を為すべし』」
黒い獣は厳かに言った。レイスの身体の中ではちょうど奥歯が興奮してガチガチふるえだしたところだった。
「忘れてないわよ。本気にして無かったけど! 生き返れるなんて、本当に、あはは」
レイスは遂に抑えきれず、転がって大声で笑い始めた。笑えば笑うほどレイスは生きていることを感じることが出来た。つまり、たくさん自分の声が聞こえるからだ。
黒い獣は怪訝そうに歩みを遅らせる。三周目の途中で痺れを切らしたのか、潰れている口を開いた。
「イカれる前に契約を完結しなければ、貴様に災いが降りかかるぞ」
レイスは腹部を痙攣させたまま体を上げた。
「いや、素晴らしい。素晴らしいわ。それで、私は生き返った代償に何をすればいいの。悪魔さん」
「生き返った、生き返ったね。いや、我々の望むものは一つだ」
黒い獣は笑い続けるレイスの目前でぴたりと止まった。そしてゆっくりと、恐ろしげにフィルムの中に出て来る侵略的銀行員か、エイブラハム・リンカーンのように口を開いた。レイスは笑顔のまま少しだけ息をのんだ。腹筋は気まずそうに動きを止めた。
「すきにしろ」
「はあ?」
黒い獣は呆けたレイスを見て、あたかも「ざまあみろ」と考えている風に推測出来るような顔で笑った。
「ではまたな、新しき悪魔よ。この世界は毒々しくて気分が悪い。次に来る狂信者にはよろしく言っといてくれ」
「待って、いったいどういう……」レイスの言葉は、突然吹き上がって来た濃い煙に遮られた。
止める間もなく黒い獣は、腐った死海の泥のような、鼻につく匂いの中へ消えていった。すきにしろだと? レイスは肩透かしの要求に一秒間、頭を悩ませた。
「なんだ、あいつも私の同志だったのか」
適当な結論を適当に作ると、レイスはまた口を開けて笑い始めた。息が切れるまで続けてやるのだ。何しろこれほど愉快な気持ちは久しぶりだった。
しばらくすると煙は薄れ始めた。
世界が息を吹き返したように遠くから虫と木々の騒ぎ声が聞こえてきた。何故今まで聞こえなかったのかと一瞬考えたが、余計な疑問を提起した頭の部分はすぐに無粋として一時退出を宣告された。
太陽が山の影から姿を覗かせた。日光が一瞬で薄くなった煙を貫いた。
何かが立っていた。
レイスは口を開け、停止した。それは頭の中から消えて行かなかった。懐疑担当は意気揚々と戻って来た。日光を背に受けたシルエットが立ち上がった。レイスより一回り小さいぐらいだった。煙の中から声が聞こえた。
「けほっ、成功ですね。ははは」
ガチンという音を鳴らして口が閉じた。鳥肌が全身にはしった。何故ならその耳触りのいい声に聞き覚えがあったからだ。レイスの身体は硬直した。全神経が慌てて眼球に集まって来た。
周囲を囲むどれかの岩山を越えて来た風が、煙を一気に流した。
白衣が見えた。左右で縛った砂色の髪が風に揺れている。ぎらついた瞳が見えた。
「おはようございます。レイス様」
レイスの心臓がドクンと脈を打った。何かを言おうと口を開いたが、特にいかした意見はでなかったのでそのままぽかんと開きっぱなしになった。スカートのベルトに付いた、真っ黒な羽とナイフのシンボルがこちらを見ていた。
「もう逃がしませんよ」
彼女はそう言って、レイスに笑いかけた。