早朝のなめくじ
「アンニュイね」
目線を上げれば少女が私を見下ろしていた。逆光の朝日が眩しくて、表情を窺い知ることは出来ない。
「アンニュイなんて言葉どこで覚えたのよ」
続けて「おはよ」と取って付けたように挨拶をしたが、返事は来ない。目も合わない。少女の丸い瞳は私の手元をまじまじと観察しているらしい。
「お姉ちゃん何やってんの!?」
そして、何をしているか分かったようだ。私の隣にしゃがみ、服を後ろへと引っ張る。
やっと見えた顔には、不安そうな表情。
「……なめくじの駆逐?」
軽いノリで言えば表情はますます悪くなるばかりで、眉間にはシワが寄り、口はへの字に曲がった。
「大きさの比率から言えば、お姉ちゃんが駆逐される側だよ」
「それもそうね」
話しながらも変わらず指を擦り合わせて、塩をかける。また一つまみ塩を取ると、ねぇねぇと少女が腕を揺すった。
「ねぇ、止めようよ」
「なめくじさんが塩を食べたいような気がするのよ」
「嘘だよ。世迷い事を言わないで」
さらさらとかけていく。今で二匹目。
「なめくじの巨人が現れたらこわいなぁ」
巨人というか、巨なめくじというか。
さらさら。
ある程度かけたら、次のなめくじへ。
次はどこにいるだろう?
「止めてったら!」
塩を取り、またかけようとした瞬間、腕をがしりと掴まれた。さほど力は無いはずなのにその手に抗えないのは、少女の意志がそれほどまでに強いせいだろうか。
「悪いことしてないのに!」
「花壇の花を食べた」
「三大欲求満たそうとしてるだけじゃんか!」
声は悲痛に歪んで裏返りそうになる。本当に痛いのは、あなたじゃないのに。
「生きようとしてるだけじゃんかぁ……」
なぜ、小さななめくじの為に少女は目に涙を浮かべるのだろう。
「……私は生きるために肉を食べます」
「……」
「牛も鶏も豚も好きです。魚も食べます」
「……」
「好物は豚の角煮です」
「……」
「あなたもそうじゃないの?」
そうでしょう?肉を食べるでしょう?だから、あなたの言っていることは矛盾するんじゃないのかな?
だから、自分のために生物を殺すのは、おかしいことではないんじゃないのかな?
「違う?」
「……私は、ベジタリアンです」
「……え?そうなの?」
なめくじから目を離さないまま少女は口を動かす。
「家では肉を食べません」
「ゴキブリが出たら?」
「叫びながら掴んで逃がします」
「うっかり虫とかを潰してしまったら?」
「埋めてお墓を立てて、土に返ってもらいます。それで、ごめんなさいと何度も謝ります」
そして、こちらに目を向けて。
「それが、私なりの贖罪です」
はっきりとした口調でそう告げた。
真っ直ぐな瞳、真っ直ぐな背筋、真っ直ぐな言葉。あなたの芯は、真っ直ぐでしなやかで、私程度の人の戯言では曲がらない。
「……そう」
話を飛躍させてごめんね。
そうやって悪いお姉さんは議論をずらして誤魔化してただけだよ。
「なら、あなたに免じて今日はもう止めておこう」
「……ありがとう」
力が抜け、少女の表情は不安から安心へと変わる。
今塩をかけたなめくじには水をかけて逃がしてやる。これからは塩をかける以外の、殺さない方法でなめくじの対処をしなければならない。
少女を見て、ゆっくりと息を吐く。
ずるい人でごめんね。
あなたはこんなに考えて行動しているのに、私はあなたを自分の位置まで引きずり落とそうとしたんだ。肉を食べるでしょう?同じでしょう?って。
とはいえ、こうやってちゃんと行動も言うことも一貫し徹底している少女の言うことだから聞く、というのもおかしな話なんだけど。
「けどさ」
一つだけ、負け犬のように私はあなたに言っておこうと思う。
「……難しい言葉は無理に使わなくてもいいんだよ」
背伸びしたいのは分かるけどね。
覚えたての言葉を使いたい気持ちも分かるけどね。
素直な言葉で構わない。私のように、人をはぐらかして、自分を欺いて、行動を正当化させるような大人になっちゃダメよ。
悪い大人。
正しい子供。
けれどいつも叱り怒るのは大人達。癇癪を起こした大きな子供は、難しい言葉で子供達を誤魔化そうとするばかりで。
どっちが子どもで、どっちが大人なんだろう。
「じゃあ、塩はスイカにでもかけようかな」
「そうしよ!」
「時間あるならうちにおいで。一緒に食べよう」
朝日は眩しく、てらりと湿ったなめくじは光を反射する。少女はバイバイとなめくじに声をかけて、私の手を取った。