勇者へ捧ぐレクイエム 1
暗闇の雲が空の果てを覆っているのに、海辺の町は嘘のような静けさだった。
砂浜の終端にじっと立ち、祈るように地平線を見つめる少女。
エミィは来る日も海の向こうを眺めては、兄の帰りを待っている。
兄は勇者である。彼も勇者になってしまった。
彼が空を覆う暗闇の雲――世界に終焉をもたらすとされる災いの調査に向かってから、もう3年と少しが過ぎた。
勇者となった者は二度と故郷へ生きて戻ることはないという。たとえ歴史がそうであっても彼女は諦めたくなかった。
だって。兄は必ず帰ると約束したのだから。
だから少女は切に待ち続けるのだ。彼がいつでも帰って来られるように大切な日常を守りながら。
だが無情にも海は風の便りの他に何一つ知らせを寄こさない。
……今日も来ないか。
エミィは諦めの悪い性分である。あの兄がそう簡単にくたばるものかと思う。
だから「ひとまず」だ。「ひとまず」この日は引き下がろうとした、そのときだった。
ばしゃーん!
豪快な飛沫を立てて、等身大の何かが勢い良く水面へ飛び込んでいった。
遠目で容姿までははっきりとわからないが、人の姿のように思われた。
誰だろう。まさか兄では。
スカートの裾をたくし上げて、少女は逸り砂浜を駆けていく。
近付くにつれそれが少年と見えたとき、彼女は髪色から兄ではないと気付いて落胆したが、同時に顔を青くした。
「わ、大変!」
あちこち焼け焦げた服はぼろきれのようで、よもや水死体が浮いていると見紛うほどのひどい有様だ。
けれどどういうことだろう。周りに落ちるような崖もないし、船などもない。
いったいこの子はどこから突然現れたものか、エミィには当然の疑問が過ぎったのではあるが。
目の前の惨状をして、そんなものはさて置くことにした。
彼の安否を確かめるため、スカートが濡れるのも構わず、浅瀬をざばざばと進んでいく。
「もしもーし。生きてますか~?」
とりあえず軽く頬を突いてみる。
このご時世死人など見慣れてしまったものだが、彼女なりに真剣に人の心配をしてみると。
ゆらりと少年の顔が持ち上がる。ぼんやりした茶色の瞳が力なく少女を見つめている。
よかった。生きてた。エミィは素直にほっとした。
「……おかまいなく」
どこかあどけない顔付きの彼はどうにかそれだけ言うと、ぐったりと水面へ突っ伏してしまった。
口をぶくぶくさせているところを見るに、健気にも息をするつもりはあるらしいけれど。
放っておくと沖へでも流されて、そのままおしまいになってしまいそうである。
無事にもおかまいなくともほど遠い哀れな姿に、少女はたちまち余計なお節介が募ってきた。
誰もが人の心配をする余裕などない世の中で、言われた通り放っておけばいいのにと自分でも呆れてしまうが。
幸いにしてうちは旅立ちの宿。寝床は当然として、食糧も一定数確保している。
「あのねえ。そうですかはいさようならって、そういうわけにもいかないでしょう」
呆れたように諭すと、彼は辛うじて顔を横に向けて呟く。声が掠れている。
「いや……休めば回復するので……そのうち……」
しょっちゅう死と隣り合わせで戦い続けてきた旅人にとっては、この程度のことはいくらでもあった。
だから嘘偽りなく、誇張のない事実ではあるのだが。エミィには自殺願望の強がりにしか聞こえない。
同じ年頃の男の子であって、しかも優男でか弱そうなのが余計彼女の保護欲を掻き立てた。
「いいから。連れていきますよ。ほっといて死んじゃったら寝覚めが悪いもの」
「えっと……じゃあ、すみません」
旅人はこの少女に強情なまでのお人好しを認めた。こうした手合いに抵抗しても経験上無駄なので、厚意には素直に甘えることにした。
エミィはさらに濡れるのも厭わず、傷付いた彼の手を取り屈み込んだ。
いざ背負い上げようとして、それが彼の見せかけよりもハードなミッションであることに彼女は気付いた。
おもっ。意外にしっかり男なんですね、この子。
ただでさえ海水をたっぷり含んだ衣服は重たくなっているのに、実は背丈もそれなりでよく鍛え上げられているらしい。
冷静に考えると、そもそも非力な女子が男を一人で支えるのは無理があったかもしれない。
だが勢い言ってしまった手前、すぐ投げ出す気にもなれず。顔を赤くして力を入れていると。
旅人は申し訳なさそうに力なく笑った。
「ごめん。重いよね」
「いえ、このくらい。ふぎぎ……!」
あくまで強がるエミィに、少年は困ったように笑い。
「ちょっと……待ってね。驚くかもだけど」
すると突然、エミィの肩にかかる重みがふっと軽くなった。
持ち手のところがややくびれたかと思うと、むにゅん。と背中に柔らかな感触が押し付けられる。
さらには黒髪がしな垂れかかってきて、彼女の頬をくすぐる。一連のことに戸惑って顔を向けると。
は!? え……!?
エミィはあまりのことにぽかんと口を開け、すぐには声が出なかった。
女の子になってる!?
顔つきこそ元の彼の面影を残してはいるけれど、身体つきも含めてすっかり自分と同じ女の子のものになっていた。
「どういうことなの……?」
呆然としたまま尋ねてみるも、返事はない。
今の変身で力を使い果たしてしまったのか、それとも危険はないと安心したからなのか。
黒髪の少年もとい少女はすやすやと眠りに落ちてしまった。
「やっぱり限界だったじゃないですか。もう」
ただおかげ様でエミィ一人でも運べる程度の重さにはなり、所期の決心をどうにか果たせそうではある。
「後でちゃんとお話聞かせてもらいますからね」
――それにしても。こんなときになんて呑気な寝顔をしているものかしら。
それは荒んでしまった世界がいつしかほとんど忘れてしまった――人を信じることを躊躇いもなくできる少女の安らかな顔だった。
エミィはぼろぼろの彼女を、何だかちょっと羨ましいと思ってしまったのだ。
***
「確かに男の子、でしたよね」
滅多に使われることもなくなった客室の一つへ彼女を運び込んだエミィは、うーんと首を傾げている。
目の前で寝ているのは紛れもなく女の子だ。
寝巻へ着替えさせる際に素肌も確認したけれど、それはもう立派な――自分よりも一回り大きなものをお持ちだった。
それに……認めよう。すごく可愛い。
怪我をしているところ以外は、肌も髪も嘘みたいに艶やかだし。こちらの姿の方が自然に思えてしまうくらいには。
手入れもおざなりな自分の髪に触れ(このご時世だからそれが普通なのだ)、女として妙な敗北感まで覚えさせられつつ。
こんな不思議な現象に思い当たるとすれば。
「いよいよ世界の終わりも近付いているのかなぁ」
暗闇の雲あるいは終末の雲と呼ばれる事象は、それが覆う世界のいたるところで怪奇現象を引き起こしてきた。
幸いにしてこの海辺の町にまで脅威は届いていないものの、時間の問題だろう。
それでも性別転化現象なんて、そんなもの一つも聞いたことがないけれど。新手の事象かといったんは納得しておく。
さて――久しぶりのお客様だし、我が宿特製の温かいスープでも作ってきますか。
思いがけない出会いに心なしか弾んだ気分で、エミィはキッチンへ向かった。
***
黒髪の少女が目を覚ましたとき、傍らにはうつらうつらと船を漕ぐエミィがいた。
自らを見下ろすと、着慣れた旅服ではない。
薄桃色のゆったりした寝巻を身に纏っていることに気付いて、着替えさせてくれたであろう彼女に心の内で感謝する。
それから先般やっとのことで解決した事件を思い起こし、さすがに反省した。
「ちょっと無理し過ぎちゃったな」
身体はもう治り始めているが、相当無茶をしたので心の力を随分消耗してしまった。完全回復には数日かかるだろう。
こういうときはよく気を付けなければならない。いつもは押さえ込んでいる内なる脅威も活発になるから。
『あなたの無茶なんていつものことじゃない』
すべての元凶にして悩みの種――内側で皮肉っぽく笑う生意気な妹に何も言い返せないので、苦笑いを返す。
『精々感謝なさい。わたしの身体を奪ったおかげで色々と無茶が効くのだから』
『君とアルシアたちがくれたもの、でしょう?』
『あくまで強情なのね』
『そこだけは譲れないからね』
『心の世界』で静かに睨み合う二人の少女。
死闘の果てに奇妙な同居生活をすることになったが、そもそも水と油の関係。決して安易に相容れず、大抵はこの調子である。
彼女が受け継いだ『女神の五体』は驚異的な自己回復力をもたらす。普通なら動けないほどの大怪我や内臓の損壊、身体の欠損でさえも時を待てば完全に回復させてしまう。
これにより『青の旅人』は恐るべき継戦能力を獲得した。死ぬほど無理が効いてしまうため、それで人や世界が救えるならばとついやってしまうのだ。
ただしリスクとは隣り合わせである。規律を緩めるとすぐにでも【侵食】してこようとするため、『五体』の力は抑制的かつ完全に制御されていなければならない。
ゆえにオリジナルの『女神』が誇っていた自由自在な身体変形や即時再生などは決してさせられない。それすなわち目の前の『彼女』に支配権を委ねてしまうことを意味するからだ。
『彼女』はいつでも内側から彼女のすべてを塗り潰し、成り代わることを今でも虎視眈々と狙い続けている。
二人は外なる脅威に向かっては互いに睨み合いながらも手を取り、内では自己存在を賭けて永遠に戦い続けることを選んだのだ。
そして皮肉にもこの奇妙な共生によって初めて彼女は人の領域を踏み越え、奇跡をもたらす『青の旅人』たり得るのだった。
さておき。上空に禍々しい気配をずっと感じていた彼女は、窓辺から険しく空の向こうを睨み上げた。
暗闇の雲が世界の果てを覆っている。
「あれかな。この世界の脅威は」
一難去ってまた一難。やはり彼女の旅には悲劇や滅亡の欠片が大概いつも傍らにあるものだ。
『つくづく【運命】に愛されてるわね。わたしたちって』
『まったくだよ』
『だからわたしに任せて、こんな苦労ばかりの旅なんて終わりにすれば楽だったのに』
『そんなつもりは毛頭ないってわかってるでしょ』
『ええそうね。あなたってそういう子よね』
相変わらず『心の世界』でバチバチにやり合いつつ、今度の旅に向けて気を入れ直すユウだった。




