凍てついた世界に終焉を 後編
在りし日の惑星から散り散りになった末裔たちによって、連綿と紡がれてきた物語がある。
『終末の戦い』の伝承は、当時の姉妹の戦いの凄まじさを伝えるものである。
いつか彼女を止める勇者のための道標として、姉は変貌した彼女の性質を可能な限り残した。
呪われし地の女神は、一目に映る姿が真にあらず。
幾重もの地層を積み重ねたように、悪感情の具現化したベールがその真実を覆い隠している。
具現化心象――あるいは単に心象と呼ばれる殻たちに包み込まれているのだ。
それらをすべて退けなければ、本体に辿り着くことはできない。
【第一心象】《憎悪の怪物》
最外殻にして、絵本にも記される最も有名な「かいぶつ」の姿がそこにあった。
暗黒の瘴気がドーム状に膨れ上がり、輪郭は常に揺らめいてはっきりとしない。
その中央で不気味な光を放つ巨大な紅の双眼が、映るすべてを憎悪しながら、不気味なほど物静かに見つめている。
子供の落書きのような丸みを帯びたフォルムであるが、その性質は実に恐ろしいものだ。
常に漏れ出す瘴気は周囲を死の毒に変え、闇から巨大な腕を伸ばしてあらゆる人と建物を薙ぎ払ったという。
そんな化け物を正面に見据えて、解放の戦士は雪原に降り立つ。
想いの力が現実に作用する点において、確かに『青の旅人』と姉妹は同類であった。
だからこそ、彼には二人の立場と気持ちが痛いほどよくわかるのだ。
この戦いの目的は、決して世界を救うことではない。
もう人のいなくなってしまった世界で、たった一人の少女の心を救うために彼は戦うのだ。
だから、いかなる手段によらずただ倒すことだけでは――それではあまりに救われない。
もうまともには届かないかもしれないが、彼は心に念じる声によって妹へ呼びかける。
『君が溜め込んでしまった絶望、みんな残らずぶつけてこい。それでも構わない者がここにいるぞ』
正面から受け切って、すべて剥がして。そして君に届けよう。
『青の旅人』は切なる決意とともに、その代名詞たる深青のオーラを解放する。
利き手の左手に祈りを込めると、鮮やかな光を放つ『心の剣』を作り出した。
想い定めたものだけを皆斬る刃――終わらせるための力。
静かに剣を構えた『青の旅人』に、憎悪の怪物は睨みを向けた。敵とみなしたのだ。
伝承の通り、瘴気の塊から巨大な四本の腕が一斉に飛び出した。
音を容易く引き裂き、通過する一線上に雪を蒸気に変えるほどの凄まじい速度で彼に迫る。
そのうちの三本が包むように獲物の逃げ道を塞ぎ、最後の一本が無慈悲に叩き潰そうとする。
旅人は極めて冷静だった。叩き付けを身一つで軽やかにかわすと、巻き上がる氷雪の塊の隙間を飛び抜けて、さっと鋭く剣を振り払う。
同時に三か所へ回り込むように斬撃が奔り、闇の腕はただ一撃の下に斬り落とされた。
砕け散った残骸は一息に浄化されて、大気中へ霧散する。
ここで再び伝承をなぞるならば、闇の腕は本体が無事である限り何度でも生えてきたという。
しかし青の剣によって斬られたものは、二度とは再生しない。終わらせる力とは、構造や概念そのものを断ち切るものだ。
彼は残る三本の腕も続々と斬り落としたが、ほとんど衝動のみによって動く怪物に一切の動揺は見られなかった。
再び本体へ狙いを付けて構え直した旅人に、すべての腕を失った憎悪の怪物は――。
ただ、吼えた。
衝撃波が迸る。
「……!」
旅人が双眸に宿す心眼は技の性質を見極め、急所を正確無比に捉える。
彼は剣の切っ先を見えざる衝撃に向け、最小限の力でそれをいなした。
彼自身の力は――純粋な出力という意味では、実のところ星の支配者たちを凌ぐほどではない。
特に現在対峙する彼女ほどの強大な相手であれば、馬鹿正直に受け止めるにはパワーが足りない。
柔よく剛を制すように、持てる技術と見切りを駆使して立ち回るのが彼の真骨頂だった。
軌道を変え、跳ね上げられた衝撃は空の彼方へと吸い込まれるように向かっていく。
やがて遅れて返ってきた轟音が、大気を激しく揺らした。
見れば、雪夜に浮かぶ月の一部は砕け散っている。
「咆哮だけでこの威力か……!」
あまりの威力に旅人は舌を巻く。こんなものが星の核へ向けられれば、それこそひとたまりもない。
破壊の権化がそれをしないのは、敵対するもののみに意識を向けているからか。姉がまだここに在るからか。
一度蘇ればこの星だけでは済まないと姉が予見したことは、確かに正しかったと見える。
これが人ある世界ならば、よほど細心の注意を払わねばならないが。
周りの被害を一切気にしなくても良い点ばかりは、彼にとってありがたいところであった。
憎悪の怪物はなおも唸りを上げている。追撃の準備をしている。
それを黙って見過ごす旅人ではなかった。
「そろそろ次へ行かせてもらうよ」
彼が手にする青剣に心力を込めると、輝きを増して煌々と寒空を照らす。
再び迫り来る咆哮を前に、今度は一つも動じることなく正面から振り下ろした。
それは彼が最も得意とする基本の技にして、奥義の一つ。
《センクレイズ》
剣閃が奔り、衝撃波を中心から真二つに切り裂いていく。同じ力で立ち向かうのではなく、現象そのものを断ち切るのだ。
それは破壊者の攻撃とは対照的に音もなく、一切の余計なものを傷付けない最も静かな一撃だった。
ただし狙い定めた対象にのみは、極めて深刻なダメージをもたらす。
彼女の真実が感情のベールに覆い隠されていなければ、この一撃をもって決着したはずであるが。ともあれ。
第一の殻が、砕けた。
***
【第二心象】《散華繚乱》
砕けた卵から中身が孵るように、内側から膨大な何か――いや、何かたちが乱れ弾けた。
数多なる瘴気の小塊がうねりを打ちながら、徐々に人のような――兵士の形を成していく。
その総数は数億にも上るだろうか。
かつて彼女に刃を向けた者たちを象った成れ果てが、瞬く間に空を覆い尽くしていた。
第一心象を個の暴力とするなら、第二心象は超集団の破壊力である。
当時の伝承においても、辛くも第一心象を突破した姉に襲い掛かったのがこの第二心象である。
かの戦いにおいて、兵士たちは憎悪の怪物に吞み込まれた犠牲者そのものであったが、悠久の時を経てその性質は昇華されたようだ。
彼らの魂は既に尽きたか抜き取られており、これ以上の尊厳を侵す心配は無用だったが。
「まるで雪細工のようじゃないか」
今現在の大地の性質を反映するのか――あるいは微かに残る姉への思慕か。
第一心象の禍々しい黒と対照的な、白一色の鮮やかな軍勢が全方位から彼を包囲していた。
中心では巨大なファーレの花の蕾が鎮座し、取り囲むように雪の兵隊が守護に就いている。
ともすれば美しい絵画の一幕であるが、見惚れている間などない。
ただ一人の敵対者である少年に向かって、白の軍勢は怒号を上げながら一斉に銃口を構えた。
生命エネルギー、同時に魔力の圧倒的暴力が集中的に狙いを定めている。とても受け切れるものではない。
瞬時に判断した旅人は深青のオーラを纏い、空へと舞い上がった。
直後、一斉掃射の白光が瞬間的に夜を昼に塗り替えた。
それは天蓋を覆う軍勢に比べれば、あまりに小さな個の人間を直ちに焼き尽くさんと襲い掛かる。
第一射を先んじて避けたところで、気を落ち着ける隙間は存在しない。
――ついて来る!
無数の光の束がホーミングしながら、寒空にえげつない線模様を描く。
さらに続く第二隊による追射が、逃げ惑う彼の正面から容赦なく飛び込んできた。
やむを得ず急旋回した向こう側にも、既に多数の兵士が待ち構えている。完全に囲まれている。
安全な逃げ場をなくした戦士は覚悟を決め、おびただしい放射の網目を縫うように空を舞い続けた。
時に剣で反らし、衣服を掠るギリギリの位置でかわしながら、致命傷だけは受けぬよう努める。
神話にも形容されるほどのレベルの戦いにおいて、旅人の弱点はあくまで人間の範疇に留まる素の耐久力の低さにある。
彼は事実上体力受けという選択が取れない。
月を砕いた咆哮に比べれば個々の攻撃は微々たるものだが、その一つでもまともにもらえばただでは済まない。
心眼による見切りを駆使してまで徹底的に攻撃を捌くのは、裏返せばそうせざるを得ないのだ。
なおも個によって完璧に統率された雪の兵士の波状攻撃は、間断なく執拗に彼へ迫る。
かわしてもかわしても次が来る。終わりがない。反撃の隙間が見えない。
――ならば。
活路を求め、旅人は青剣の先端で氷雪の層を容易く貫きながら、あえて雪中に突入した。
間もなく、なぜかターゲットを完全に見失った軍勢に戸惑いめいたものが広がり始める。
やがて勢いよく雪中から飛び出し、天高く舞い上がった旅人は、その見目を明らかに変じていた。
艶やかな黒髪は肩の辺りまで伸び、強風にたなびいて揺れている。
あどけなさを残す面影はそのままに、痛々しく衣服のあちこちを削り取られながらも、構わぬ凛とした態度と色香を醸していた。
『青の旅人』は、もう一つの姿である少女に変身していた。
時には男、時には女。性別と能力の異なる二つの姿を使い分けることで、彼(彼女)は過酷な旅と戦いの人生を貫いてきたのだ。
彼女は魔法を得意としており、右の掌にはとうに膨大な魔力が収斂している。
《ブラストゥールレイン》
少女の気合い念じとともに右手から解き放たれた一本の筋は、間もなく弾けて無数の青光に枝分かれした。
それは天の恵みの雨のように一斉に降り注ぎ、美しい光のアートを描きながら、残酷にも狙い定めた兵士一体一体の急所を正確無比に打ち抜く。
これまでの戦闘経過、そして心眼による完全な状況把握が、水一つ漏らさぬ徹底反撃を可能にしていた。
手厚い護りを一挙に失った怪物に対し、せっかく手にした機を逃す彼女ではない。
掲げられたもう一方の左手には、さらなる力が結実しつつあった。
一瞬、空のすべてが青一色に塗り替えられるほどの圧倒的な光が広がったと思えば、瞬く間に圧縮されて一点へと収束する。
今や彼女の掌の上で青い恒星が躍る。恐ろしいほどの回転量を有しながら。
天体魔法と呼ばれるそれは、心力を練り込んだ膨大な魔力に念動力による圧縮を作用させ、初めて実現する神域の魔法だった。
凍てつく星に顕現した三人目の女神は、一抹の感傷とともに滅びの小星を撃ち下ろす。
《アールスピリット=ベルファ》
超回転の青球は、対象に命中するとたちまちねじ込まれ、蕾が誇る鉄壁の防御さえも容易くこじ開けた。
第二の殻が、破ける。
***
【第三心象】《幻想ノ花》
いよいよ蕾が花開くと、それは雪の園へ胞子様の光粒を大量に撒き散らした。
それまでと一転して、物言わぬ静かな形態である。それ自身は何一つ動かず、自ら攻撃を加えることもしない。
ただ精神に作用して、深刻な幻覚を見せるのだ。そして身動きの出来なくなった者をゆっくりと瘴気で殺してしまう。
ちなみに伝承はここで途切れている。姉はついに『思い出』を突破することができなかったからだ。
無理もない。妹の在りし日を際限なく夢見せられ続ければ、振るう刃も持てない。
だが怪物にとって誤算だったのは、この形態に対して旅人は無敵の耐性を持っていたことである。
彼女が内に有する【神の器】こそは、まさに精神を司る力。感情のるつぼである。
今も内に巣くう深刻な精神侵食と常に戦い続ける彼女にとって、怪物の誘惑は嵐の前のそよ風に過ぎない。
加えて、いかなるときも真実を見抜く目を持っている。
「無駄だよ。地獄ならもう――嫌と言うほど見てきた」
旅人から冷めたソプラノが紡がれ、しかし彼女は極めて同情的だった。
これではまるで――妹自身も過ぎ去った『思い出』に浸り続けているようではないか。
彼女はただ掌を正面に向けて、撃ち出す。
光線に焼き尽くされて、花びらのベールがみるみると剥がれ落ちてゆく。
そして。
「……とうとう出会えたね」
すべての外殻を失い、ついに剥き出しになった彼女の本体が現れた。
【最終心象】《少女》
***
アハハハハハ……。
かつて花のようだった笑顔は、無残にも歪み切っていた。
残念ながら正気はとうに失っており、彼女を救うにはその命を正しく終わらせるしかない。
淡い望みを完全に打ち砕かれた旅人は、気を落ち着けるために一つ深呼吸すると、当初の仕事を改めて決意した。
再度男へ変身する。対個の戦闘においては、剣技に優れるこちらの方が向いている点が多いためだ。
再び元の姿になった少年は、油断なく静かに青剣を構えた。
焦点の定まらない少女の瞳が、ゆらりとこちらへ向いた瞬間――。
理のない力任せだけの剛拳が、剣のガードの上からでも強引に叩き付けていた。
「くっ!」
たったそれだけの折衝で陸地から弾丸のように弾き飛ばされた彼は、凍てつく大海へとまさに痛烈と叩き付けられようとしていた。
咄嗟に剣を氷床に突き立て、オーラを逆噴射して勢いを殺す。
地平線の彼方まで跡を引きずった後、ようやく止まることができた。
――ものすごい力だ。一撃がとてつもなく重い。
やはりこの攻撃を地に向けられていたなら、星が無事で済むだろうかという余計な心配が脳裏に過ぎる。
vhaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa……!
声にならない叫びが彼方より星を揺るがし、少女を中心に瘴気のドームが天高くまで膨れ上がる。
みるみるうちに雪が蒸発していき、腐敗した地面が剥き出しとなって隆起する。
この世の終わりとしか思えない光景を前に、青の勇者は果敢にもただ一つの剣で立ち向かう。
祈りを込めた一振りが、ガラスを砕くように瘴気の層を叩き割る。
彼は注意を惹き付けるため、自ら空高く飛び上がって相手を誘導した。
第一心象憎悪の怪物が見せた咆哮が幾重にも積み重なった、死の多重奏が迫る。
旅人は歯を食いしばって迎え撃ち、青剣の輝きでもってことごとくを打ち払った。
再び神速で襲い来る彼女の飛び蹴りを、今度は剣の腹でしかと受け止める。
目まぐるしく戦況が動いていく。
剣閃と叫びの激突は流星のごとく幾度も煌めき、その度雪に覆われた星の表面を少しずつ削り取っていった。
やがて怒涛の攻めを見せた彼女の体勢が下がり、低く警戒するような唸りを上げている。
「どうした。俺はまだここにいるぞ。かかって来い!」
――いや、違う。
戦士はそこで気付いた。
それが次なる攻撃の準備ではなく、わずかながら弱りを見せたのだということに。
無限に近しいかと思われた彼女にも、少しずつ――少しずつだが、瘴気に陰りが見えている。
ならば、この戦いの果てに待つものは……。
確かに身を護る殻のない今なら、剣の一撃によってすべてを終わらせることはできる。
だが本当にそれでいいのか。ここまで剥がして来たのに、それでこの子は救われるのか?
「…………」
下手をすれば星そのものが終わり、さらなる被害を及ぼすリスクもあるけれど。
旅人は思い悩み、結局は長く困難な道を貫くことを決断した。
危険な綱渡りがどこまでも続く。剣一つであらゆる猛攻を一身に受け止めて。
すべてを受け入れる覚悟で、彼は敵対する者に微笑みを向けた。
「ハルファ、とことん付き合うよ。君の心が尽き果てるまで」
旅人は彼女の憎しみと嘆きを宥め鎮めるように、いつまでも剣舞を舞い続けた。
奇しくも姉がそうしたように、誰の伝承にも残らない戦いは三日三晩続いたという。
そして――。
***
「誰が星をこんなに滅茶苦茶にしろと言ったんだ」
「あはは……。ごめんよ。下手に加減できなくて」
すべての決着がついた後、晴れ上がった空と澄んだ空気の下で、姉と少年は穏やかに語らっていた。
気付けば大陸の一つを覆っていた氷雪はすっかり溶け上がり、瘴気も失せて荒涼とした大地ばかりが剥き出しになっている。
……底の見えない穴ぼこをしこたま拵えて。
「どうだ。妹は強かっただろう?」
「うん。本当に強かった」
アレと戦い抜いた両者にしかわからない、妙な共通認識があった。
彼が『青の旅人』と謳われるようになってからは、稀に見る激戦だったと言えるだろう。
精神を司る能力者は、彼自身がそうであるように、時に永年の蓄積によって信じられない力を発揮することがある。
「終わったんだな……」
「ああ。終わったよ」
二人立ち並び、言いようのない感慨とともにしみじみと呟いて。
「そうだ。これを」
彼はぼろぼろになった服に辛うじて無事だったポケットから、小さな花の種を取り出した。
結局はたった一人の命も救ってやれなくて、せめて心に寄り添うだけで。
下手をすれば近隣諸星を滅亡の脅威に晒しながら、得た見返りはそれだけだったが。
「最後に、ありがとうって」
妹の大好きだったファーレの花の種を見つめて、姉の目に涙が滲んだ。
「バカ……。ありがとうは、こっちの方だ」
妹の献身によって、姉は最後まで温かな涙を流せる人間であることができたのだから。
***
「君はどうする。望むなら、終わらせてあげることもできるけど」
少年はどこか寂しげにそう言った。彼がその提案をするときは、大抵いつもそうだった。
自らろくな形では死ねない超越者を正しく終わらせること。
それは彼と、彼に志を同じくする限られた仲間にしかできない最も残酷で優しい仕事だった。
姉は彼が「必要ならば」と言ったことの真意を悟りつつ、首を横に振った。
「いや、せっかくだ。まだもう少しだけ、生きてみようと思う」
「そっか。うん。それがいい」
天候の少女は、憑き物が取れたように優しく微笑んだ。
「いつかまた来るといい。そのときは本来の美しい星をお見せしよう」
「楽しみにしているよ」
***
宇宙の片隅に、今はもう誰もいない星がある。
小高い丘の上にはたくさんの白い花が咲き誇り、ささやかな二人の墓標が添えられているという――。




