空から降ってきた話
空から女の子が降ってきた。
どさっ。がさがさがさ。
…………。
目と目が合った。
「や、やあ。こんにちは」
「……ふつーさ、もう少しロマンチックに来るもんじゃない?」
木の枝に無様な逆さ吊りで引っかかっている少女に。
彼女が持つ柔らかい雰囲気がそうさせたのか、僕は初対面にしてはやけに気安い突っ込みを入れてしまった。
しかしすごいな。
薄手のシャツがめくれて、胸の膨らみのところで辛うじて引っかかり、くびれた腰のラインにへそまで見えてしまっている。中々目の毒だ。
「え。いきなりなに。どういうこと?」
「だよな。意味わからんよな」
逆さ吊りなどさして問題でもなさそうに、ただ言われた言葉にだけきょとんと首を傾ける彼女に、僕は同意して頷いた。
この人にとったらお約束なんか関係ないわけで。何だっていい加減な言葉が口から衝いて出ることってあるのだなと思った。
「ま、いいか」
彼女は事もなげにくるりと体を回して枝を掴み、人が違うのではないかというほど華麗に着地を決めた。
そして毒気のない笑顔を浮かべて、歩み寄ってくる。
改めて観察して見れば、珍妙な恰好をしている。
男物のパンツにこれまた男物のシャツを一枚羽織っているばかりで、しかも所々に焦げていたり破けた形跡があり、妙な色気があった。
夜逃げか何かでこの森まで逃げ込んできたと言われても信じるだろう。空から降ってきたのさえ目の当たりにしていなければ。
なんかエロいな、などと当人に失礼なことを考えていると。
「何か顔についてる?」とまじまじとこちらを覗いてくるので、ついどぎまぎしてしまう。
距離感がおかしい。近い。近いって。
天性の人たらしだぞ、この子。
「葉っぱが」
どうにか取り繕うと、
「そっか。ありがと」
彼女はその場で何もないところから水の球を作り出し、ぱしゃりと顔を洗った。
袖を拭ってから、さっぱりした顔で僕を見つめて。
「驚かないんだね」
「そろそろまた空から魔法使いの女の子が降ってきてもいいかなと、ちょうどそんなことを思っていたところだったのさ」
「ふうん。変わってるねー」
妙にこちらを品定めするような、探りを入れるような視線だった。
まあこちらも探り探りなのだから、おあいこ様か。
「いきなり降ってきたお前に言われたくないな」
「あはは。確かに」
朗らかなソプラノの笑い声が、森の木々に溶けて霞んでいく。
「で、お前はどうしてここへ?」
普通じゃあり得ない現れ方をしたのだから、普通じゃない事情があるのでは。変わった話でも聞けるのではという期待があった。
何せ僕の期待は外れた試しがないのだから。
同時に「よりによってこんなときに来ることはなかったよな」と同情的にも思いつつ。
彼女はあっけらかんとして言った。
「ちょっと世界を救いに来たの」
返す言葉が出てこない。そんなちょっと買い物行ってくるみたいなノリで。
どうやら思った以上に変なヤツのようだ。もしくはただの与太娘か。
つられて、つい僕も馬鹿真面目に聞き返してしまった。
「そんなことできると思うか」
「できるよ」
曇りなき茶色の瞳が、真っ直ぐに僕の顔を見つめている。
あまりに当然に言うものだから、下らない冗談と笑い飛ばす気にも、呆れる気にもなれなかった。
ぐううううう~~~~。
そのときだった。盛大にお腹の鳴る音がしたのは。
断じて僕ではない。ということは――。
やってしまったと伏し目がちに顔を赤らめる少女は、反則的に可愛らしかった。
「あの。実はここ四日くらい、何も食べてなくて……」
「四日も?」
さすがに驚く。
「マジかよ。よく平気で突っ立ってられるな」
「ずっと気を張ってなくちゃいけなかったからね。実は今もいっぱいいっぱいなの」
精一杯取り繕うようにウインクした彼女に、僕は思わず笑ってしまった。
「傑作だな。これから世界を救おうってヤツでも、腹ぺこには勝てないのか」
「いや~、そうだよね。それ言われちゃうとね」
照れ臭く苦笑いするばかりの少女は、その辺りの普通の女の子よりも頼りがいがなく見える。
お前本当に夜逃げでもしてきたんじゃないだろうな?
まったく。放っておくには始末が悪い。
「しょうがないな。来いよ」
「へ?」
「うち来いよ。飯ぐらい食わせてやるって言ってるんだ」
「ありがとう。助かるよ」
「どういたしましてだ」
構わないさ。最後の晩餐くらいは相手がいた方が楽しいだろう。
そこまではあえて口には出さなかった。
***
「まあ上がれよ。大したものはないけどさ」
「お邪魔します」
人とまともに話すのなんて久しぶりだ。
こんな秘境の森の奥なんて、辺鄙なところに住んでいるからだけど。
「落ち着いた部屋だね」
「な。つまらないだろ」
我ながら殺風景な部屋とは思う。
人一人暮らせれば構わないと潔く、寝るところと食べるところ以外には何もない。
この森に自生する木で拵えたテーブルは、二人でゆったりかけるにはやや窮屈だ。
「そんなことないよ。静かでいいところだね」
「そうか?」
何となくバツが悪くて目を反らし、視線を落とすと。
テーブルを挟んで、二つの丸椅子を置いていたのが目に入る。
そう。ちょうど椅子は二つあった。
僕のためのものと、もう一つは――。
使う予定もないだろうと思っていたものが、今さらな……。
「まあ座れよ」
「うん」
勧められるがまま素直に腰かけた彼女は、頬杖をついてわずかに身を乗り出した姿勢でこちらを見つめている。
ほのかな笑みを浮かべる様は、雰囲気も柔らかく、初対面というのにまるで距離感というものを感じさせない人懐こさがある。
――あいつもそうだったな。
何もなければ、今こうして向かい合っていたのは……いや、よそう。
あいつとさっぱり違うと言ったら、目のやり場に困るところか。
意図的というより単純にガードが緩いのだろうが、豊かな胸はテーブルという安住の地に身を任せ、惜しげもなくこちらへ突き出されている。
男装なのも相まって、何かいけないものでも見ているような気さえしてくる。
というかなんで下着も着けてないんだこいつ。よほど慌てて来たのかな。
ただ……。
この親しみやすさと無防備の塊にあって、透き通るような彼女の瞳だけが異質だった。
上手く言えないが、そいつにじっと見つめられていると。
まるで僕という人物が見透かされていくような、空寒い心地がしてくる。
いささか動揺を自覚していた僕は、取り繕うように飯の話題を切り出した。
「持ち合わせは山菜くらいしかないけど、それでいいか。簡単な炒め物くらいなら作ってやれる。ちょうど夕飯時だしな。ついでだ」
「あ、それなら私に任せて。お世話になるのだし、せめて腕を振るわせて」
「へえ。お前、料理できるのか」
「多少は心得があるよ」
と、控えめな言葉のわりにはしっかり胸を張って言うものだから、相当の自信があるのだろう。
「ならお任せしようか」
「よし。ちょっと待っててね」
お言葉に甘えて、くつろぎながら待つことにする。今度はこちらがお前を観察する番だぞ、と思いつつ。
まるで手品のように一瞬でエプロンを上にまとった彼女は、軽い足取りでキッチンに向かっていく。
肩にかかるほど伸びた黒髪を、髪留めを使って後ろへ束ねた。
後姿が重なる。あいつも同じように髪を束ねて、随分楽しそうに料理していたっけ。
やがて、トントンと野菜を切る小気味良い音が鳴り始める。
彼女の手捌きは、素人と言うにはあまりにもてきぱきとし過ぎている。
備え付けのキッチンでは飽き足らず、また何もないところから火を生み出した。
おまけにどうやっているのか、フライパンや鍋まで宙に浮かび上がらせて火に当て、さながら曲芸の器用さで調理を続けている。
これまたどこから取り出したのか、謎の調味料たちを振りかける。すると香ばしい匂いがこちらまで届いて、鼻孔と食欲までくすぐってくる。
調理中、彼女は時折鼻歌を交えていた。透き通ったソプラノが、美しい声の持ち主であることを示している。
歌詞はさっぱりわからないが、何かへの祈りの歌だろうか。そんな印象を受けた。
まったく聴いたことのないメロディのはずなのに、不思議と心を揺さぶるものがある。
そいつに聞き惚れているうちに、いつの間にか終わっていた。
「お待たせ。できたよ」
「マジで美味しそうだな」
「ふふふ」
目の前に置かれたのは、何の変哲もない野菜炒めだ。
あいつが時々作ってくれたもので、僕も下手くそなりに覚えた(というほど大層な料理でもないが)数少ない料理の一つだった。
食材の切り方からして不格好になってしまう僕と比べれば、ここにいる彼女もあいつも腕は確かなんだろう。
再び彼女は僕の向かいに腰掛ける。
「さあ一緒に食べよう。いただきます」
「イタ……何なんだよ。それ」
「私の故郷での挨拶なの。気にしないで」
「……あのさ。お前、どこから来たんだ」
「ずっと遠いところから、かな」
「そうか」
はぐらかされてしまえば、仕方なく納得するしかない。
とにかく一口頂いてみる。
野菜炒めなんて、違いと言っても誰が作ったところでそれほど変わらないはずだが。味付けのところでははっきりと差があった。
香ばしさと塩辛みが絶妙に効いていて美味い。それに懐かしい味がする。
どうしても僕には再現できなかった、あいつの味が。
どうやって。あの調味料に秘密があるのか?
当時は料理になんて全然興味なかった。だから聞きそびれたままで。
はっとしたまま顔を上げたが。彼女はちょこんと首を傾げて、僕の感想を楽しげに伺うばかりで。
「どう? お口に合うかな」
「ああ、美味いよ。とても」
ぶっきらぼうな、月並みな感想しか返せなくて。
それから僕は夢中で食べ進めていた。何かを噛み締めるように。
「泣くほど美味しかった?」
「熱いからな。刺激で出てしまっただけさ」
目の端に浮かんだ涙を拭いながら、僕は平静を装って誤魔化す。
少女の瞳が、探るようにこちらを覗き込んでいる。
僕は肩をすくめて言った。
「最後の晩餐には申し分ないな」
「最後の晩餐、ね」
彼女はこれと言って驚きもせず、日常会話の一つのように軽く流している。
お誂えのタイミングで、本日幾度目かの地鳴りが始まった。それは数十秒ほども続く。
都会じゃどんな阿鼻叫喚になっているのかは知らないが、この森の小屋だけは平穏なものだった。
揺れが終わって。たっぷりと余韻を含んで、僕は彼女に告げる。
「何もこんなときに来ることはなかったんじゃないのか」
「こんなときだからこそ来たんだよ」
――ああ。もしかしたら、きっとそうなんだろうな。
念のためにはっきりと言っておく。
「今夜には世界が滅びる」
「そうみたいだね」
「単純さ。空からお星様が降ってきてドカーン、だ」
何も降ってくるのは女の子だけじゃないってな。
「世界を救うために来たって言ったな」
「うん」
「人に星が壊せるものか。圧倒的な絶望を前に、お前に何ができる。魔法使いだか何だか知らないが、たった一人の女の子に」
世界のあらゆるヤツにだって、僕にだってどうにもならないんだ。今さらになってお前が来たところで何になるのか。
――あいつがいれば、何か変わっていただろうか?
いや、その結果が今の通りだ。
あいつは……たった一人の女の子は、狂った世界に立ち向かって。
そしてあっけなく死んでしまった。
そこまで挑発的に言われて、彼女は初めて優しい微笑みを消した。
目をほんのりと細めて、何かを考えている。しかしまるで絶望というものを感じさせる様子ではない。
穏やかに、冷静に。彼女は彼女のすべきことを考えている。戦士の顔だ。
「なるほどね。事情は見えてきたよ」
「やけに落ち着いているじゃないか」
「君こそ」
「僕はとっくに覚悟ができているのさ」
「それは――」
君がアレを呼び寄せたから、かな。
「――へえ。お前はそう思うのか」
「違うの?」
「さあ。どうだろうな」
少なくとも、はっきりと自覚があってやっていることじゃない。一つだって証拠があるわけじゃない。
あくまでそうかもしれない、という可能性の話だ。
自分に言い聞かせながら、僕は語気を強める。
「仮に僕だとして。じゃあどうする? 英雄さん。今さら僕を殺したところでアレは止まらない。何の解決にもならないぞ」
もう起きてしまったことは、取り返しが付かないのだから。
「そうだね。もう起きてしまったことは、取り返しが付かない」
まるで心を読んでいるかのように、そっくり同じ言葉を返す彼女。
「でもね」
当然、何の疑いもなくそれが真実であるかのように。
彼女はきっぱりと言った。
「あんなものは、君自身の問題に比べたらずっと些細なことなんだ。本当の危機は今、ここにあるの」
「ははは!」
馬鹿馬鹿しくて、僕はとうとう高笑いした。
「あんなもの!? あんなもののために、世界中のヤツらがどうしようもないって。今も馬鹿騒ぎをして、泣き叫んでいるのにか!? 僕はうんざりして離れてやったよ! せいせいしたね!」
「あんなものだよ。君の深い深い絶望に比べればね」
「…………」
返答に詰まる僕に、少女はやおら立ち上がると、外へ出るよう目で促した。
僕は付き従って外へ出て行く。
月明りに照らされた夜空は、今日が最後の日だなんて嘘みたいに穏やかだ。
巨大隕石は自分を知らせる光を持たない。地鳴りを虫の知らせとして、終わりは一瞬でやってくる。
僕と一緒に空を見上げていた少女は。
向き直ると、憂いを交えて少し目を細め――それでも目線はしかと僕だけを捉えている。
「正直なところ、今も判断が付きかねているの」
――君を殺す必要があるのか、ないのか。
それこそが至上命題なのだと。僕こそが世界の敵なのだと。宣告した。
彼女は掌を天に掲げる。すると、強烈な閃光が視界を眩ませた。
青い光――。
ほんの一瞬、空をも覆い尽くすほどの巨大な球体が現れたように思えたのは、本当に錯覚だったのか。
光は一気に収束し、今や彼女の掌の上では、深青の球が目にも留まらぬ速さで回転している。
それはまるで小さな――星だ。星のようだった。
彼女の掌の上で青い恒星が躍っている。
それが何なのか、皆目見当も付かないけれど。ただ凄まじいものであることは直感的に明らかだった。
そして、不覚にも綺麗だと思ってしまった。
見惚れる僕を見つめ返して、
「綺麗でしょう」
彼女は哀しげな表情で言った。
「これはね。終わらせてしまうものなんだ」
「終わらせてしまうもの……」
「君ごと一瞬で、跡形もなくね。大丈夫。苦しみはないから」
少女は決然とした声色で続ける。はっきりと僕に問いかけている。
ああ――やはり。間違いなく。
僕が何であるかを知っている。
「必要なら。そのときが来れば、私はこれを撃つよ。躊躇いはしない」
いつの間にか、彼女の瞳の色までが変わっていた。
穢れのない海色の瞳が、すべてを見透かすように僕を射抜いている。
僕は慄き、身体が震えるのを自覚していた。
――これだ。
この凍り付くような。どこか突き放したような、冷たさと厳しさこそが。
彼女に見出されたときから、僕がずっと感じていた違和感の正体だったのだ。
それはおよそ人というものが。
しかも本質的には心優しく人懐こいはずの少女が、同時に携えて良い代物ではなかった。
いったいどれほどのことがあれば――。
こいつも、間違いなく絶望の味を知っている。
彼女の掌では、『終わらせてしまうもの』がくるくると回り続けている。
今は間違いなくそれが『終わらせてしまうもの』だと確信できる。
はは。おかしいな。
隕石に潰されて死ぬのなんて、怖くも何ともなかったのに。むしろ望んでいたくらいだった。
なのに今の情けない自分の姿はなんだ。結果は同じことのはずなのに。
僕は今、恐れているというのか?
「だから。よく考えて、心して選んで。君の選択にすべての命運がかかっているんだよ」
僕はよろめいた。喉がカラカラだった。
何があどけない少女だ。ちょっと変わった客人くらいと最初は思っていた。
とんでもない。こいつは――死神だ。
最後の最後になって、今さらになって。
この僕と対決するために。裁定を下すために、空の向こうからわざわざやって来たのだ。
眩暈がする。どうしてこうなってしまったのか。
いや、僕はきっとこれすらも望んでいたのかもしれない。
僕が招いてしまったものだ。僕自身が向き合わなくてはならない。
目の前の少女に。間違いなく最強の敵に。
僕は彼女を睨み付けた。皮肉な気分もあった。
僕しか知らないはずの真実まで辿り着いたんだ。おおよその事情だってもうわかっているだろう。
「本当に今さらじゃないか。もっと早く来てくれれば、違った今だってあったかもしれないのにさ」
「ごめんね。もっと早く来られていれば……。それは、本当にそうだよね……」
ひどく心を痛める様は、心優しい少女としての姿だ。彼女なりの事情というやつがあったのだろう。
そもそもこいつには一切責任を負う必要のない話だ。これ以上追求する気にはなれない。
次の言葉を言い淀んでいると、彼女はしみじみと何かを思い返すように言った。
「死んだ人が生き返ることはない。過ぎ去った者は返らない。たとえ時間を巻き戻せても、どんなに繰り返せたとしても、伸ばした手をすり抜けていく。既に確定してしまったものはもう取り戻せない」
「まるで見て来たような言い方だな」
「そういうものだからね。でも君はまだ生きている」
「のうのうとね。死に損なったよ。あいつが生きるべきだった。僕なんかが生きてても何だってことは――」
「ねえ」
「…………」
「ほんとにそう思ってる? 実はもう気付いてるんでしょ?」
「……ああ、そうさ。そうだよ。本当はとっくにわかってた」
ずっと、それとなくそう感じていたことを。だが奥底では確信していたことを。
それでも認めたくなくて、目を背け続けていたことを。
僕が何であるかを。
「誰よりも世界の破滅を望んでいるのは――こうなってしまったのは、僕のせいだ」
「やっぱり。わかっていたんだね」
苦々しい気持ちで頷くと、彼女からはやけに同情的な視線が向けられていた。
不思議だよな。僕には、なぜかそういうことがよくあった。
どんなことだって実現してしまうんだ。
僕がただ何となく望んだだけのことが。そう願っただけのことが。
あまりにも馬鹿らしくて、荒唐無稽で、突拍子もなくて。
本当にそうなんだと言っても、誰も信じなかったけれど。
――あいつ以外は。
いや、どうなんだろう。
あいつはちゃんと話を聞いてくれて、でもただからかうように笑っているばかりだったから。
「仇討ちのため?」
「どうだろうね。そういう気持ちだって、もちろんないわけじゃない」
あいつは、本当に強い女の子だった。
世界は絶対に間違っていて。でもちっぽけな個の人間に対しては、あまりにも強大だった。
それでもあいつは一人で挑んでしまうだけの強さと、危うさがあった。
いくら止めようとしても、あいつは止まらなかった。あいつは己の信じる良心に殉じる決意があった。
僕は結局、見ていることしかできなかった。
自分を何でもないただの人間だと思いたかった僕には。真実から目を背けていた僕には、あと一欠片の勇気がなかった。
あいつは「君はまだいいんだよ」って笑って。
たった一人で間違った世界に挑んで……そして死んでしまった。
まったくひどい話だよな。
心から願っていることだけは。誰かの幸せだけは――あいつの勝利と幸せだけは、絶対に叶わないのだから。
人の不幸が、都合の悪いことばかりが叶えられていく。
嫌いな奴がいなくなってしまえば。もし誰かが事故か病気で亡くなってしまったら、なんて他愛のない空想でさえも。
そして、今は――。
彼女は、僕の心の声に応ずるように続けた。
「そう。君は世界の破滅を願っている。それだけじゃない。何もかもすべて自分ごと巻き込んで、なくなってしまえばいいとすら思っている」
「だからもし奇跡的に隕石をどうにかできたところで、また必ず次が来るってわけか」
そいつはとんでもないことだな。確かにこっち(自分)の方がよっぽど重大だ。
でもな、そんなこと。
「わかってんだよ……。でもどうしたらいいんだよ!? 僕にはどうしようもないだろう!」
みっともなく叫んでいた。
相手も人じゃないって言うなら、化け物だって言うなら。
僕の気持ちだって、少しはわかってくれてもいいはずだ。
「今からやめるってさ。表面だけ綺麗事言ったってダメなんだよ!」
そんなことじゃこいつは止まらない。
僕の本心は誤魔化したって変わらない。
「僕はもう、世界を憎んでしまっている! 間違ってると確信してしまっているんだ!」
一度認めてしまったら。ダメだ。
今さらになって、どうしようもなく震えてきて。止まらない。
「それに……考えただけで、あんなものが……いきなり降って来るなんて。そこまでなんて、思ってもみなかったんだ……」
とっくに覚悟していたはずのことが、いっぺんに崩れ落ちてしまう。
誰にも言えなかった。あいつがいない世界で、誰も信じるわけがなかった。
万が一信じられたところで、どうしようもなかった。
だから僕は逃げた。狂騒する街から離れた。
すべてを捨てて独りっきりになった。独りになりたかった。
みんなを恨んでもいた。ざまあ見ろとも思った。
「こうなってしまったのは結果だ。でもな。やっぱり僕の気持ちは変わらない。こんな世界なんてなくなってしまえばいいと――本気でそう思っている」
世界は間違っていて。間違った正義の名の下に、星の民たちは当たり前のように活動していて。
数え切れないほどの人たちが死んだ。
間違っていると声を上げたごく少数の勇者たちは、無残に殺された。あいつも。
狂っている。腐っている。
いっそみんな隕石にでも潰されてしまえばいい。そのくらいしか、ヤツらを止める方法がないのだから。
全身が震えて、立っているのがやっとだった。
でも僕は改めて決意していた。
せめて今だけは、あいつのような心の強さが欲しい。
「お前は僕が間違っていると、そう言いに来たのか? 僕だって正しいなんて思っちゃいないさ」
それでも、この世界は滅ぼす。
これが僕のすべきことだ。誰かがやらなくちゃいけないことなんだ。
たとえ目の前の相手に敵わないとしても。今殺されるとしても、意志だけは貫く。
この力は僕が死んだくらいでは止まらない。
「僕を殺すなら殺せばいい。それで止まるんならな!」
僕の覚悟の限りを受け止めた少女は、瞑目した。
再び目を開いたとき、彼女もまたはっきりと覚悟を固めているようだった。
「君の想いはよくわかった」
掌から滅びの青球がゆっくりと離れていく。それは僕たちの頭上で煌々と光を放っている。
いよいよ撃ち放たれるときを待っている。
だというのに。もう終わりだってときに。
なぜお前は、そんなにも優しい目をしているんだ。
「もう一度言うね。君はあの子と違って、まだ生きているの」
「だからどうした! 僕はもうすぐ死ぬ。世界もみんなも、全部一緒に消えてなくなるんだ!」
「君はまだ戻れるはずだよ」
「戻れるもんか! もう遅いんだ。僕は、やってしまったんだ。僕がやらなきゃダメなんだ。ヤツらを放っておいたら、そしたら――」
「だって君は」
気付けば、僕は――。
僕の未成熟で、年頃の女の子よりも小さな身体は――彼女の胸の内に抱き留められていた。
あいつがお姉さんぶって、よくそうしていたように。
「君は。大好きな人のためにも、全然知らない遠くの人たちのためにも。こんなにも苦しんで、いっぱい泣けるんだから」
「あ……」
無我夢中で、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるまで泣いていることさえ、ちっとも気にしていなかった。
「もういいの。強がらなくたっていいんだよ。どんなにすごい力を持っていたって、子供の君が責任を持つことじゃない。君はまだいいんだよ」
「お前まで……っ……そんなこと言うのかよ……」
堪え切れなかった。嗚咽を上げて、彼女にしがみついて泣いた。
彼女は僕の頭を優しく撫で続けた。
「こうするしか、なかったんだ。僕には直接戦う力がないから。だから、こうするしか……」
「うん」
弱いままではいたくなかったから。あいつを助けられなかった自分が許せなかったから。
独りきりになって。必死に強がって。大人ぶって。
だけど、本当は。許されるのなら。
「お姉ちゃん」
「うん」
「助けて」
「任せて」
背中をドンと叩かれる。
はっと見上げた僕を見つめて、彼女は力強く頷いた。
「どうするつもりなんだ」
「簡単だよ。空からお星様が降ってくるなら――こっちもお星様打ち上げてドカーン、ってね」
そして、僕たちの頭上をくるくると回っていたそいつは放たれた。
青い閃光が夜空を駆け上がり、やがて見えなくなって――弾けた。
雨が降り始めた。星の雨だ。
無数に分かたれた隕石の欠片たちが、罪深き世界を裁く礫となって、地表のいたるところへと降り注ぐ。
残酷で、そしてとても綺麗だった。
でもなぜ。どうして。
お前ならきっと、隕石なんか跡形もなく消してしまえたはずなのに。
「なんてことを……」
自分だってもっと破滅的なことをしようとしていたのについ忘れて、ぽつりと漏らしてしまう。
僕を抱き締める手に力がこもる。
彼女を見上げた。歯を固く食いしばり、泣きそうなのを懸命に堪える人の姿だった。
「……私たちの答えを、見に行こうか」
抱きかかえられたままの状態で、僕たちは空へと浮かび上がる。
夜空は青い炎で照らされていた。街が燃えている。
一目でわかる。壊滅的被害だ。
「どうして。世界を救うんじゃなかったのか?」
「この世界だなんて、一言でも言ったかな」
彼女はあえて冗談めかしてみせた。でも目は一切笑っていない。
彼女がずっと何を迷っていたのか、僕もようやく理解した。
これが、返答次第では僕共々向けられていたかもしれない覚悟だったのか……。
星の悲鳴のように燃え輝く街々に向かって。
『どうしようもないもの』に向かって、彼女は憐れむような目を向けて言った。
「君は確かに正しくはなかった。だけど間違っているとも、私にはどうしても思えなかった」
この星はいつからか、宇宙盗賊のようなことを生業としていた。
どこよりも優れた科学技術を持ち、近隣の星々を片っ端から殲滅していった。
民はすっかり堕落してしまった。倫理観は既に失われていた。
優れた自分たちが奪い殺すのが当然で、正義なのだと信じて疑わなかった。
長い時間をかけてこびり付いてしまった価値観は、もはやどうあっても変わることはない。
狂った常識に反する数少ない者たちは、みんな殺された。
巨大に膨れ上がった悪意の前には、あいつもなすすべなく踏み殺されてしまった。
あのとき。もうすぐ、大遠征という名の大虐殺が迫っていた。
中途半端な痛撃では止まらない。傷が癒えれば、ヤツらはすぐにでも宇宙へ略奪に行く。
だから。やるなら決して立ち上がれないように。徹底的に叩くしかなかった。
あいつも、僕も。そして目の前の彼女も。ギリギリまで悩んで、必死に考えて。
それでも残されたものは、残酷な答えしかなかったのだ。
「誰かがやらなきゃならないのなら、私がやる。あの子もたぶんそう言ったんでしょ?」
「うん……」
「バカだね。あの子も君も。こういうことはね。汚れた大人に任せたらいいの」
「大人って。よく言うよ。あいつもお前も、僕と三つか四つくらいしか違わないくせに」
「その年頃の四つは小さくないよ。それに私はこれでも君よりはずっと長生きしてるんだよね。これが」
「えー。嘘だあ。全然見えないよ」
「ふふ。よくそう言われる」
「……なあ」
「なに?」
「みんな、死んじゃったのか?」
「ううん。実は、見た目ほどはね。ほとんどの人は死んでないよ。そういう風にしたから」
ただ、一部の極悪人と優れた技術は根絶やしにしたけれど、とさらりと言う少女。
それを聞いて、よかったねというほど能天気な僕ではない。
現実というものは、悪いものをやっつけたからめでたしめでたしというわけにはいかない。
この世界の人口は、進んだ科学技術があって初めて支えられてきたものだ。それが一夜にして崩壊したというのなら。
これから大混乱が起こる。
水や食料は不足し、他から奪っていた者たちは自ら奪い合う者へと堕ち。醜い争いが始まる。
「たくさんの人が死ぬことになるぞ」
「かもしれないね。でももしかしたら、思ったよりはひどいことにはならないかもしれない」
そこまで言われて、はたと気が付く。
「まさかお前は。この僕に。世界をこれだけ憎んでいる僕に、みんなを救えって言うのか……?」
少女は頷いた。
「そんなことを言っている時点で、心の内はもう決まっていると思うけどね」
確かに僕の能力は。心からそう願うのなら。
だけど……。
「でも僕の力は……。たぶん滅ぼすためには使えても、救うためには……」
彼女はわしゃわしゃと頭を力強く撫でてきた。
「大丈夫。君を縛っていた運命は断ち切った。今の君なら――心からそう願うのなら、救えるはずだよ」
「そうかな。本当に、できるかな。許せなくても、できるかな?」
「できるさ。君は優しい人だから」
穏やかに微笑む彼女は。
確かに恐ろしく強くて、厳しくて。そして優しい死神だった。
***
夜が明けて。終わるはずだった世界は、今日も辛うじて続いていた。
彼女は僕に後を託すだけ託して、どこかへと消え去ってしまった。
今にして思えば、僕はしてやられてしまったのだろう。
世界を滅ぼすだけのポテンシャルを持った恐ろしい力を。よりにもよって、憎き世界を救うために方向付けられてしまった。
それでもなぜだろうか。不思議と悪い気がしないのは。
――森の小屋も、そろそろ後にしなければならない。
もう独りではいられない。助けを求める人たちが待っている。
旅立ちの準備をしようと意気込んだそのとき、ふと気付いた。
「結局名前、聞きそびれちゃったな」
あの人、何だったんだろう。
思えば、あいつもそうだった。
ある日、突然空から降ってきた。あいつは記憶喪失だと言っていた。
ただ、やらなくちゃならないことがあると。あいつ自身の名前と、そのことだけは覚えていたようだ。
僕は当時から孤独を好む傾向があった。僕の力が余計なことをして、誰かを傷付けたくなかったから。
だからあいつのことも突き放そうとしたのに。
どんなに遠ざけても、あいつはうざいくらいくっついて離れようとしなかった。
まるで僕といることが、本当に大切なことだとわかっていたかのように。自分のことは何にもわかってないのにさ。
結局くたばるまで、あいつの記憶は戻らなかったらしい。
でもあいつは、あのときのあいつなりにやるべきことを見つけて。
最後までカッコいいあいつのままで、遠い世界へと旅立っていった。
僕の気持ちも知らないでさ。勝手だよな。まったく。
『なあ』
『なに?』
『どうして僕のところに来たんだ。どうしてわかったんだ?』
『そうね……。助けを求める声がしたの。消えゆくあの子の心の声が。一言だけで、詳しいことまではわからなかった。今は――うん。よくわかるよ』
「……僕、守られていたんだなあ」
強くならないとな。今度は僕が誰かを守れるように。
あいつにも、彼女にも負けないように。
小屋の中に一度戻ったとき、テーブルの上に取り残されている一本の調味料が目に留まった。
透明感のある赤橙色。ラベルになんて書いてあるのかもさっぱりわからないし、あいつが最初から持ち込んでいたもの以外には同じものを知らない。
「なんだ忘れ物かよ。しまらないな。あいつもあの人も。おっちょこちょいなところはそっくりだな」
二人して木にひっかかって、ひっくり返って。葉っぱ塗れになって。
何だかそっくりさんみたいで、つい思い出して笑ってしまった。
――そうだな。
こいつを使って、今度また久しぶりに作ってみようか。
あいつが作ってくれた野菜炒めを。次は上手く作れそうな気がするんだ。
僕、ちゃんとやるからさ。空の向こうからでも見ててくれよな。
今度はうっかり落っこちないようにね。




