まだアイを知らない獣
幾千億を数える神速の応酬の中、アイは驚嘆せしめられていた。
『封函手』による念動力は、もはや青剣を振るうまでもなく完璧に無効化されていた。
ユウの体表を水面のように揺蕩う深青のオーラが、あらゆる能力の脅威をほとんど自動的に退けている。
『響心声』はもう何ら意味をなさない。もはや触れたところで、この身で包み込んだところで【侵食】も効かない。
アイは舌打ちとともに悟る。
やはり直接勝負で打ち倒すしか。気絶させ、あるいは完膚なきまでに殺し。
あの忌々しいオーラを完全に失わせなければ、わたしの牙は決して届かない。
《アールリバイン》
牽制にと放った光の矢であるが、彼女にとってはむしろ逆効果になった。
ユウは超高速で飛来するそれを心眼で見切り。素手で掴み取ると、目の覚めるような青に変えてそのまま投げ返した。
目を剥いて避けるアイに、一直線に飛び込んで斬りかかる。
『青の剣』を『白の剣』が辛うじて受け止めるも、首筋へわずかに切れ込みが入る。
もちろん再生などしない。ダメージはずっと消えない。
どちらも言葉を交わす余裕などなく、ただ譲れぬ戦いだけがひたすら加速していく。
月面を数え切れないほどの『青』と『白』の光の筋が駆け巡りながら、激突のたび閃光が弾けて瞬く。
互いの存在そのものをぶつけ合い。魂を削り合い。
双方身体にこそ目立った傷はないものの、「深いところ」を傷だらけにしながら。
いずれが勝ったとて、取り返しの付かないほどの「傷」は残るだろう。
いつ果てるとも知れない死闘が続く。
《《センクレイズ》》!
真っ向勝負で迎えた剣閃の激突は、まったくの互角。
中央で一気に膨れ上がり、巨大なクレーターを残して消える。
それを見届けるよりも早く、二つの光の帯は伸びて。幾周も月を狭しと駆け巡る。
対話を重ねるように、剣を打ち重ねていく。
どれほど経ったか。数え切れない衝突の果て。
ついに限界を迎えた『青の剣』と『白の剣』が、同時に砕け散る。
だがユウもアイも、なお意地にかけて止まれない。
そんなことでは、この戦いは終わらない。
斬り合いから、身体と身体のぶつかり合いへ。
もうほとんど取っ組み合いの殴り合いのようになっていった。
とうとう激しく息を切らしながら、アイは完全に狼狽えていた。
なぜ。どうしてずっと互角に打ち合えているの。どうして一歩も引かない。
ここは地球圏外。許容性の縛りは遥かに緩くなっている。
力も存在としての格も何もかも。わたしが優に上回っているはずなのに!
すべてを見透かすような海色の瞳が、いつ何時も真っ直ぐこちらを捉えて離さない。
今の彼はラナソールの民と同じ、欠片も生命反応を持たなかった。
ゆえにアイは常に全神経を集中し、彼を視界に捉えようとし続けなければならなかった。
でなければ。ありとあらゆる角度から瞬間移動を交え、一つの気配もなく迫りかかるユウに。
どんなに退けても、叩きのめしても。しつこく食らいついてくるユウに。
どこにいたとしても深く「繋がり」、逃れようもなく彼女を追い詰めようとするユウに。
いつかはやられてしまう。
アイは生まれて初めて、心の底から恐怖した。
たとえわたしがあなたを喰らっても、決して手に入れることができないもの。
心の力。想いとやらの力。
何も理解できない。わからない。わからない!
またユウが拳を構えて鬼のごとく迫ってくる。芯に届く『痛い』攻撃を仕掛けてくる。
一つも揺らがない『覚悟』の極まった彼の瞳が。真っ直ぐ自分だけを見つめる顔が目前に迫ったとき。
アイは怯み、身が竦んだのを自覚した。してしまった。
《セインブラスター》!
必死に遠ざけようとして。彼女は後先なしに『白の波動』を撃ち放つ。
それは奇しくもリデルアースにて、彼女に恐怖したユウが取った行動のまさに鏡映しだった。
消えろ。いなくなれ。もう消えてしまえ!
アイがユイを奪って得た最大最強の攻撃。あわやくたばるかと思われたが。
呑み込まれる刹那――ユウは執念で『青の剣』を再生させ、破滅の光線を真っ二つに斬り裂いた。
再び砕けた深青の剣に構わず、左拳を振り払い。猛き心の叫びとともにまた猛然とアイへ挑みかかる。
――ああ。まだなの。まだ立ち上がってくるというの。
あらゆる感知を全開にして、アイは息も絶え絶えに構える。
どれほど打ちのめしても執拗に追い縋ってくる「化け物」に、哀れ己が身がわなわなと震えていることにも気付かずに。
――来い。
アイは胸の内で吼えた。
わたしはアイ。みんなアイにすることだけがすべて。
こんなところで負けられない。負けるものか。
来い! たとえどんな攻撃をして来ようと、正面から打ち砕いてやる!
……アイには、まだ人の心がわからない。
だから。ただ一つ。それだけは。
その「攻撃」だけは、どうしても察知することができなかった。
『あ……』
間の抜けた声を上げたアイに、ユウの影が重なる。
すっかり怯え切った彼女に、彼がしてやることなど一つ。
『ユウ。お前、何を』
自ら愛欲のままに抱きすくめたことはあっても。犯すため強引に締め付けることはあっても。
誰かに抱き締められたことだけは――ただの一度もなかった。
『アイ。もういい。もう終わりにしよう』
――やめろ。そんな目で見るな。
彼女が小さなユウと初めて出会ったあの日から、ずっと許せなかったもの。
何よりも憎んでいたもの。
わたしをそんな、かわいそうなものを見る目で見るな――!
彼は精一杯の慈愛と、何よりも厳しい断罪の心をもって。
『君の奪ってきたもの。せめて少しでも返してもらうよ』
ユウはさらに深く深くアイと「繋がり」、真にひとつとなっていく。
そして同時に、彼女に囚われた哀れな魂たちを次々と解放していった。
失われてしまった肉体は、もう取り返すことはできない。過ぎ去ったものは返らない。
けれど。君の奪ってきたものが、どれほどかけがえのなく尊いものであったのか。
どれほど大切なものだったのか。
君は一度、思い知らなくてはならない。
お前に殺された者たちの心。そのすべてを――受け取れ!
『いや。やめて』
「想い」がいっぱいに膨れ上がって。止め処なく溢れて。
アイは得体の知れない熱さに怯え、藻掻き苦しんで。なのにユウは決して放してくれない。
彼女に融け合って犯されたままになっていた人々の真実の想いが、解き放たれていく。
誰もが、どれほど明日を生きたかったのかを。
『やめて……!』
アイは何もかもわからないまま、数多の「想い」の暴力にひたすら殴られ続ける。
わからない。なのに、ずっと胸が『痛く』て。『苦しく』て。
気付けば泣いていた。
『違う。違うの……』
あの恍惚に満ちた食事の瞬間。どれほどのものが捨象されてきたのか。
あえて無視してきたものに、いかに救われぬ者たちの切なる想いがあったのか。
だめ。こんなもの。こんなこと。ほんの少しでも認めてしまったら。
わたしがわたしでなくなってしまう。アイがアイでなくなってしまう。
いやだ。違う。やめろ。
『わたしに入ってくるなああああああああああああーーーーーーーーーーーーっ!』
***
決着の舞台は、現実世界の月面から『心の世界』へと移り。
「あ、あ……」
アイの姿がぼろぼろと崩れてゆく。壊れてゆく。
『女神』はもはや、その完璧な『白』と美しさを保つことができなかった。
「う、うぅ……!」
まずは【器】――ユイが彼女から分離して解き放たれる。
ユイだけは唯一、本当の意味でまだ死んではいなかった。
力なく崩れ落ちかかる『姉』を、ユウは優しく抱き留める。
「ごめん。遅くなった」
「ううん……。ずっと、信じてたよ」
ユウとユイは、涙ながらに再会の抱擁を交わし。
そして二人は。じっと哀れなものを見る目で、アイの行く末を見届けていた。
メリッサ。イプリール。アマンダ。
囚われた巫女たちの、もう捻じ曲げられることのない本当の想いが。
吸収された順番とは逆に、一つ一つ解放されていく。
アイはその度に『女神の五体』を失い、空虚で透明な真実の姿を晒した。
「やぁ……だめ、だめ……!」
彼女は弱々しく必死に足掻き、離れるものをかき集めようとするけれど。
無理やり奪い得たものは、一つとして戻っては来ない。
傍から傍から次々と魂が解き放たれて、『心の世界』に浮かび上がっていく。
アイは時計を逆回しにするかのようにみるみる力を失い、形を崩し。
元々の矮小な存在となっていく。
二人は、解放された魂たちの向かう先を見届ける。
気付けば、そこには。
『心の世界』の内側に完璧な姿で再現された――リデルアースがそこにあった。
姉弟は決めていた。
せめて助けを求めていた魂の安らぐ場所を作ってやろうと。
オリジナルのアイに喰われた者たちは……彼女の肉体と一緒に滅びてしまった。
だから巫女たちはもう、どこにもいない。
彼女たちはただ真実の想いを残して『去り行く』だけ。
けれど。コピーアイになってから呑み込まれた者たちの魂は、まだ確かにここにある。
【神の器】の究極の保存性がしっかりと効いていたのだ。
もちろん肉体はとうに失われてしまった。
だからもう現実のように、未来へ広がる可能性は持たないけれど。
誰も子をなせず、緩やかに滅びていくしかないけれど。
せめて泡沫の平和な夢の中で、最後の時間を過ごして欲しい。
それがリデルアースを守れなかった彼(彼女)の、せめてもの償いだった。
――あれ、は。
憎たらしいほどに青いもう一つの地球を。自ら壊してしまったものの大きさを。
崩れゆくアイもまた、まざまざと見せ付けられることになった。
そして、ひとまずの精算が終わる。
とうとう最後の一人――最初に奪った巫女のアルシアも失って。
本当に誰でもなくなった彼女は、ついに人の形を保つこともできなくなった。
ぐずぐずのゼリーのようになり、それすらもすぐに崩壊して。
生まれたままのアイは――狭いカプセルの外では決して生きられないから。
すべての肉体を失って、人喰いの力も失って。か弱い魂だけの存在となる。
そこまでしてようやく、長い長い『痛み』と『苦しみ』から解放された。
「ふふふ……。ここまで徹底的にするなんて、とんだ贈り物もあったものね。ひどいじゃない」
「これでやっと、本当の君と話せるね」
「会いたかったよ。アイ」
魂に直接触れられるTSのお節介な手と手が、彼女に優しく触れる。
「やめて。鬱陶しい」
拗ねた反応が、二人の手を弾く。
「……あなたたちって、ずっとそう」
勝手に憐れんで。かわいそうだって。
むかつくと言ったらないわ。ほんといい迷惑よ。
あの偉そうなのも。救えないお姉様も。わたしなんて何も見ていなかった。
あなただけが。真っ直ぐな目でわたしを見つめていた。
弱かったくせに。泣き虫なくせに。何もしてやれないくせに。
自由な「つもり」の外から。ずっと。
まったくバカな話よ。あなたたち、何にも気付いていないんだもの。
わたしたちはさっきまで同じ、【運命】の籠に捕らわれた鳥だったのにね。
そんな体たらくだから。すべて否定してやりたかったのに。
中途半端に憐れむならば、何もかも奪い取ってやりたかったのに。
わたしならもっと上手くやれると思った。
あなたたちとひとつになれば、どこまでも行けると。
いっそ、憎まれてしまいたかったのに。
結局は、決して向き合うことを止めようとはしなかった。
「思い通りにならないあなたたちなんて、大嫌い。大嫌いよ」
「そっか」「大嫌いか」
真摯に彼女の本心を受け取る二人に、アイはなお憎々しく言った。
それにね。決して馴れ合うつもりなんてないのよ。
「あなたはわたし。わたしはあなた。今はただあなたたちが主導権を握っているだけ」
アイはあくまで『最悪の敵』であり続けることを、己の意志で選んだ。
どこまでも挑戦的に、ユウとユイに向かって鋭い「睨み」を放つ。
奪い取ったものすべて失っても。決して消えることのない、真実の愛憎とともに。
「これから先、ほんの少しでも心に隙を晒してごらんなさい」
そのときは――今度こそ。
わたしがあなたたちを奪ってあげる。
「「望むところだ(よ)」」
既に運命は一つとなり、決して分かたれることはない。
自分との戦いは終わらない。どこまでも続いていく。
「ふふ。楽しみね。まあ今は、精々見届けることにするわ……」
ついに力尽きた彼女の気配が闇に溶けて、消えていく。
だがもちろん本当に消えてなくなったわけではない。
アイはまた『心の世界』という大きな揺りかごの中から。
二人と一緒に、これからたくさんの世界を見つめるのだ。
「嫌と言うほど、いっぱい見せてやるさ」
「私たちの旅を」
そして。いつかあなたにも、人の心が届きますように――。




