I
人の身ではあり得ない力の発露を目の当たりにして、アイはようやく悟った。
【神の器】を真に使いこなせるものは、人を優に超えたわたしだけ。
この胸を締め付けるような『痛み』。
いつまでも頭に響いて、鬱陶しく鳴り止まない誰かのノイズ。
今やずっと近くに感じる、あなたそのものが。
『あなた……まさか』
『そうだ。思う通りだよ』
『ふ、ふふ』
きゃはははははははははははははははははははははは。
音を響かせる大気のない月面に、彼女の声なき嗤いがどこまでも続く。
いつまで終わらないかと思われた矢先、真紅の瞳を昏く据えて。
彼女は愛憎に満ちた鬼の形相で彼を睨んでいた。
『ユウ。あなた、ついに頭がおかしくなったの。よりによってわたしと繋がり、逆に奪おうだなんて。正気なの?』
『正気さ。大真面目だよ』
『……馬鹿な人。あれほど人であろうとし続けていたのに、何もかも投げ捨てて。とうとう人ではなくなってしまった』
もう二度とは戻れない。わたしと同じ化け物と成り果てた。
何が人だ。下らない。
結局お前は認めたのよ。人の身の弱さを。儚さを。
だから決して人ではあり得ない、修羅の道を歩み始めたのだと。
嘲るアイに、ユウは微塵も揺らぐことなく頷いた。
『どう言おうと構わないさ。最後までとことんお前に付き合ってやるよ』
アイが初めて明確にたじろいだように、ユウには見えた。
人を攻め、追い詰めるのは得意でも。自分が追い詰められる側になるとは夢にも思わなかっただろう。
『そんなにわたしとひとつになりたいの』
『だからいいと言ってるだろう。ひとつにでも何でもなってやるさ』
その代わり、俺もお前を逃がしはしない。
お前の横暴勝手など、もう何一つ許さない。
『…………』
アイはしばし声を失い、次に言うべき言葉を探していた。明らかに狼狽えていた。
しかしやがて見つけたらしい。
奪い取ったユイの――『女神の五体』をひけらかしてほくそ笑む。
『確かに言うだけのことはあるわ。あなたはきっとかつてなく強い。それでもね』
『何が言いたい』
『この姿は全要素吸収によって得たもの。対するお前は、人の想いとやらだけをかき集めたに過ぎない』
それが何を意味するか、わかっているの?
アイはあくまで己の優位は揺らがないと、激しく主張する。
わたしこそが究極の一にして、すべてなるもの。
格が違う。存在としての強さが違う。
今も【神の器】のほとんどを掌握しているのはわたしだ。
ほんの一部だけでは、完全なる『女神』には勝てない。そんなことは自明の理でしょう。
なのになぜ。無駄な戦いを仕掛けようとする。意味もなく抵抗する。
黙ってわたしを受け入れれば、楽になれるのに。
『だったら。どうしてそんなに怯えているんだ』
『わたしが怯えているだって?』
違う。違う。違う!
そんなはずがあるものか――!
アイは怒り、頑として告げる。
『ユウ。哀れな子。あなたは深く傷付いて、とうとうおかしくなってしまった。そして今度こそすべてを奪われようとしている』
それでも戦って。勝っても地獄、負ければ終わり。
その先に何が残るというの。
あとはわたしに任せて、もうおやすみなさい。
これからのことは、全部わたしがやってあげる。受け入れてあげる。
わたしが先へ行く。その礎となれ!
『哀れなのはどっちだ』
『…………』
ぴしゃりと告げられ、憮然とするアイに。
もう一度。ユウははっきり面と向かって告げる。
『アイ。お前はまだ大切なものを知らない。お前の行く道の向こうに、本当のお前などどこにもいない』
だから。
『行かせない。この先へお前をひとりで行かせはしない』
お前はもう、純粋な化け物だったオリジナルのアイではないのだから。
たとえ一つも理解できなくても、もうたくさんの心に触れている。
俺たちと源を同じくする本質的に同一の存在――コピーアイなのだから。
『わからないって言うなら、何度でも教えてやる。知りたくないのなら、いくらでも刻み付けてやる』
まだ、かすかに彼女の声がする。今も必死に戦い、助けを求めている。
俺よりずっと近くで向き合い続けてきたからこそ、『姉』は深く君を知った。
ユイもそう願っている。同じ気持ちだよ。
お前が真に人を理解できるその日を。その不幸と犯した罪を知るその日を。
そのために。今ここで、人喰いとしてのお前を打ち砕く。
お前を含めて誰も幸せにしないその力を、完膚なきまでに打ち砕く。
今じゃなくていい。いつかわかり合えるかもしれない、遠い未来のために。
その可能性を与えることが、信じることが。俺が君にしてやれるたった一つの贈り物だ。
だから戦う。
『俺が、俺たちが――すべてを賭して!』
『そう……。ならかかっておいで。全力で叩き潰してあげる!』
わたしはアイ。
まだ誰でもない何か。何者でもない何か。
今こそあなたのすべてを奪い、わたしは本当のアイになる。
この戦いはもう、どちらかが完全に潰れるまでは終わらない。
互いのすべてを賭けて。
勝つのは――。
『『俺(わたし)だ!』』
月面にて、『青』と『白』の光が激突する。
地球の地上からでもはっきりと見えるほどの濃い線を描き、絡み合うように幾度も交錯する。
ユウとアイ。互いの存亡と宇宙の命運を賭けて、本当の最終決戦が幕を開けた。




