"フェバルの向こう側へ”
「なぜ」
アイにはわからない。到底理解できない。
「なぜそこまで悩み苦しんで、自分のためにならないことをするの」
人助けの旅でどんなに苦労しようと。お前たちにとっては何の得にもならない。
自分というものがあるのなら。なぜわざわざ自ら傷付け苦しむ旅を続ける?
終わりなき【運命】との戦いに、永遠につらく哀しいことを積み重ねて。
そんなもの、馬鹿馬鹿しくはないのか。
もっと自分に素直になればいい。欲望に正直になればいい。
みんなアイに委ねて。気持ち良くなって。すべて忘れてしまえばいいのに。
巫女どもは皆、そうしていったのに。わたしに融けていったのに。
お前たちはなぜそうしない。
アイには理解できない。わからない。
「アイ。あなたはまだ人の想いの価値を知らない。すべてを喰らうこと以外の生き方を知らない」
「だから何? そんなもの知る必要はない」
アイはアイになることで、満たされているのだから。
「嫌でも人の想いにたくさん触れたなら。理解できなくても、少しは感じるものはあったんじゃないの?」
「そんなもの。下らない」
ユイは思う。
目の前にいるのは。純粋な怪物オリジナルアイではなく、コピーアイだ。
元がどんなにおぞましくとも、私たちの心の中から生まれた存在。
だからどんなに理解できなかったとしても、もう心には触れている。
オリジナルには欠片もわからなかったことが。あなたにならいつか、ほんの少しだけわかるのかもしれない。
私たちを喰らうための捨て身の作戦は功を奏したけれど。代わりに私たちは一歩だけ互いに近付いた。
その一歩は、あなた自身が思うほど。決して小さくはない。
ユイの真剣な眼差しに、アイはわずかに気圧されるのを感じた。
「これから喰われるのを待つだけのあなたが。無意味なことばかり言っている」
「いいや。ユウは絶対に気付いてくれる。私のメッセージに。私の想いに!」
「買い被り過ぎよ」
「ねえ。何をそんなに恐れているの?」
「ふふ。このわたしが恐れていると?」
鼻で嗤うアイに、ユイは事実を突き付ける。
「だってそうでしょ。散々に痛めつけて。遠ざけて。必死に力をかき集めて」
――時間切れで、逃げようとしている。
「違う」
「あなたは。本当はどこかでユウを恐れている」
「違う!」
「到底理解できないほど。理屈で説明が付かないほど、執念深く諦めの悪いあの子を」
「黙れ。そんなわけあるはずがないでしょう。あんな弱くてかわいそうな、ちっぽけな泣き虫が」
「そうやって、散々必死に見下そうとしてくれてるけどね」
『姉』は化け物に向かって、精一杯の啖呵を切る。
「うちの弟舐めんな!」
「…………」
確かにユウは寂しがりだ。ものすごく手のかかる甘えん坊だ。
ひとりぼっちだと脆くて、弱いけれど。
「ひとりじゃないってわかったときのユウは。誰かをまだ助けられるって知ったときのユウは、ほんとに強いんだから!」
必ず私のことも助けに来てくれる。だから何があっても。
絶対に負けないんだ! ユウをひとりぼっちにはしないんだ!
ユイはどんなに苦しめられても、決して折れない心を燃やしていた。
アイはますます不機嫌になり、しかしどうやってもこの女を容易には屈服できそうにない。
確かに。お前たちだけだ。こんなにも思い通りにいかないのは。
「そう……。その下らない強がりがいつまで続くものか。見ものね」
ユイとアイはバチバチに睨み合い、ひとつのアイの内側で二つの心の戦いは続いている。
***
ユイはまだ生きている。
声の届かないほど奥底へ押し込められても。今も懸命に戦ってくれている。
確かに状況はかつてなく絶望的だ。それに急がなければ間に合わないだろう。
だけど。まだ希望は残されている。
「リルナ。俺は……やるよ」
先ほどまで絶望が覆っていたとは思えないほどの滾りに、リルナは思わず目を見張る。
どんな逆境に置かれても、最後まで死力を尽くすのを止めない。
それが星海 ユウという人物だった。
「俺はきっと、負けないために。あいつに負けないために。俺を信じる人たちのために」
これからすべてを奪われようとするとき、それでもまだ残っているものは何か。
奇しくもユウは。フェバルとしての力をほとんどすべて奪われた果てに。
純粋な『異常生命体』としての資質に、極めて近付きつつあった。
人の心を繋ぐ者。人の想いを掬い上げて、残酷な世界に立ち向かう者。
既にアルの妨害も断ち切れている。遮るものは何もない。
今ならば。確かに『届く』気がした。
「もうこれ以上、誰も……っ……今度こそ。そのために」
背中を押された。託された。
つらい犠牲はもう、ジルフさんで最後にしなければならないと。
幾多の救われなかった者たちを想い、噛み締めるようにユウは呟く。
まだ誰でもない誰かは。まだ何者でもない旅人は。
今こそ己の【運命】に立ち向かい、乗り越えなければならないのだと。
そうしなければ。届かない。
フェバルでは至らないのならば。その先へ。
「辿り着かなきゃいけないんだ――フェバルの向こう側へ!」
リルナは目の前のパートナーの凄まじい決意を目の当たりにして、胸打ち震えた。
この人ならきっと。いや、必ずやってくれる。
この絶望の盤面をひっくり返してくれると。
どんな困難を前にしても、いつでも諦めようとしなかった人間は。
その心身がやっと、切なる気持ちに追いつこうとしている。
わたしはこの人の隣に立てることを、これほど嬉しく思ったことはない。
「リルナ。記憶を見せてくれ。俺は今こそ、逃げ続けてきたものを知らなければならない」
「ああ。ああ! ともに行こう。わたしもずっと付いている」
「頼む」
まずは過去を知り、自分が本当は何者であるかを知るために。
欠けた心を埋めて、真実の自分を取り戻すために。




