4「明日も君はいない」
『ただいまー』
『おーう。おかえりー』
仕事終わり。くたくたになって帰ってきた私を、アルシアのリラックスした声が出迎えた。
『わ。なにこれ?』
私は目を丸くする。
だって。さほど広いとは言えない部屋の三分の一以上を、立派なダブルベッドがどーんと占拠しているのだから。
朝には影も形もなかったものだ。
その上でだらしなくくつろいでいた沙汰人は身を起こし、トントンとベッドを叩きつつ朗らかに笑った。
『いいだろ? 気に入ったのを即決で買ってきたんだ』
『あーあ。また勝手なことして』
せめてサイズ感は考えて欲しかった。
明らかに浮いてるし、窮屈になってしまうじゃない。
『買う前に一言相談して欲しかったかな。さすがに大き過ぎるよ。圧迫感がすごい』
『だって気に入っちゃったんだもん。あはは。入れてみたら、思ってたより大きかったな』
豪快に笑われてしまうと、毒気も抜けてしまう。
『仕方ないなあアルシアは。これ、かなりしたんじゃないの?』
『ふふふ。ちょっと本気出して歌ったらこんなもんよ』
指でお金のマークを作ってにやりとする歌姫は、天使の歌声と世間に評されているとは思えないほど俗っぽさ全開である。
そうだった。絶賛売り出し中の芸能人だった。この人。
彼女がちょいちょいと手招きするので、私は「ちょっと待ってて」と素早く寝間着に着替えて、ベッドに身を投げ出した。
五体が柔らかく受け止められて、沈み込む塩梅が素晴らしい。疲れた体を易々と睡眠に誘ってくる。
ついうっとり頬を緩めてしまった私を上から覗き込んで、アルシアは得意気にウインクした。
『な。最高だろ?』
『うん。そこは認める』
アルシアの物を見る目は本物だ。認めざるを得ない。
でもなあ……。
『あー、まだ不満そうな顔してるな? わたしとしては当然のことをしたまでなんだけどな』
『どういうこと?』
『元はと言えばさあ。「私はいいから」とか言って、ユウが床で寝出すからいけないんだぞ』
『だって』
仕方ないでしょ。
そもそも一人暮らしをしていたところに、君がいきなり押しかけてきたんだから。二人暮らしなんて考えてなかったんだから。
それにアルシアのこと、床で寝かせるわけにはいかないし。
と、皆まで言わず、ただ頬を膨らませていると。
アルシアは微笑んで、私を弄ぶように指先で頬をつついてきた。
『妙なところで強情だよね。ユウは』
『我が道を行く塊みたいな人に言われたくないなあ。私、急に君が来てほんとにびっくりしたんだからね』
『いやあ。直感ってやつ? ユウを一目見かけた瞬間、ビビッと来ちゃったんだよね』
仰向けになっていた私の上に覆い被さるような体勢で、彼女はじっとこちらの瞳を覗き込んでくる。
『この人はきっと、わたしを助けてくれる人だって――運命の人だって』
穏やかな緑の瞳が、私の顔を綺麗に映し出している。
ほんの一瞬、まるで肉食獣が獲物を狙い定めているような。
視線が纏わりつくような、そんな妙な錯覚を覚えたけれど。
でも次の瞬間には、アルシアは破顔して。私はぎゅうぎゅうに抱き締められていた。
『あ~。ほんと可愛いなあ! ユウは!』
『わ、わ、ちょっと!』
どぎまぎしてしまう。
驚いて引き剥がそうとするも、親愛の感情をいっぱいに感じてしまっては、私の抵抗は弱々しくて。
スキンシップ魔であるアルシアに対しては、まったくの無力だった。
『無駄な抵抗はよせ~。大人しくわたしの懐に収まるのだ~』
『もう。やめてってば~。アルシア~』
しばらくもみ合って笑い合い、ふざけ合っているうちに。
私はすっかり彼女に絡め取られていた。
この人は、いつも何かと理由を付けては親愛のままに抱きついてきて。ほとんど逃れられた試しがない。
もっとも、私の方も突き放す気がなくて。
こうしてくっついていると安心してしまう辺り、どうしようもなく根っこが甘えん坊なのだなと毎度自覚させられる。
また同時に、自分が子供のまま時の止まってしまった存在であることを強く感じさせられたりもするのだった。
永遠に16歳のままの身体である私に対して、彼女はしっかりと大人の色気を備えていた。
いくらか勝っているのは胸のサイズくらいのものだ。
一応は年下のはずなのに、赤の他人のはずなのに。まるで血の繋がった姉みたいだなと思ってしまう。
私の半分であるユイに、さらにお姉ちゃんがいたらこんな感じだろうか。
肌と肌とが触れ合ったまま互いの鼓動を感じていると。安らぎとともに、ますますそんな気分は強くなった。
そればかりか、互いの境界が曖昧になって。
まるで私たちは元から一つだったかのような、奇妙な一体感まで生まれてくる。
そのまま進んで身を委ねたくなってしまうような、不思議な魅力と安心感が彼女にはあった。
組み敷かれたまま心地良さに身を委ねていると、耳元でアルシアの鈴のような声が囁いた。
『実はさ。わたしには、ユウの方がもっと困ってるように見えたよ』
『そんなこと、わかっちゃうんだ。すごいね』
『お前は一々わかりやすいからな。何かつらいことでもあったのか?』
『うん。ちょっとね。大変な……すごく大変なことがあって』
『ふうん?』
『私……わからないの。今もまだ、あれでよかったのかなって。ほんとにああするしかなかったのかなって。そう、ずっと思ってる』
『そっか……。わたしには詳しいことはわかんないけどさ。きっと、疲れちゃってたんだな』
『そうかな。うん……そうかもしれない』
『だってさ。びっくりしたぞ。わたしが道端で歌ってたのをちょっと聴いただけで』
一拍溜めて。彼女は私を憐れむような切ない瞳を向ける。
『ユウ。お前、誰よりも――泣いてたからな。心が、泣いてた』
『…………』
『わたし、歌うことしかできないけどな』
私にもたれかかる重みが優しく強まる。
頬と頬をすり合わされ、親愛と温かさとともに。放っておかないとありありと伝えてくる。
『こうやって側にいてやるよ。一番の特等席で聴かせてあげる』
『アルシア……』
『お前がいつか本当に元気になるまで。ずっとずっと、しつこいくらいな』
『うん……』
アルシア。君はいつも自分勝手で、強引で。とにかく私を振り回してくれるけれど。
でも私は。そんな君にどれだけ救われているのか、わからないよ。
彼女の言葉とぬくもりに安心すると、眠気が抗えないほどに強くなってきた。
うつらうつらとする私を抱き留めて、優しい子守歌が聞こえてくる。
本当に。ずるいくらい。
詐欺みたいに美しく、心が洗われていくような歌声で。
『おやすみ。アルシア』
『ああ。おやすみ。ユウ』
また明日。
――――。
彼女へ縋り付こうと伸ばした手は、虚しく空を切って。
私ははっとして、目を覚ました。
朝日が容赦なく瞼を刺し、覚醒を促してくる。
寝汗がひどかった。
やっとのことで身を起こした私は、茫然と周りを眺めた。
あれは何かの間違いではないかと。ひょっこり帰ってきてくれたりはしないだろうかと。
ありもしないことを願って。
そして、だだ広い真っ白なシーツの海の上で一人だけ。
私だけがぽつんと取り残されてしまったことを、再確認しただけだった。
「アルシア……」
頬を一筋の涙が伝った。
――だから言ったじゃない。
こんな立派なベッド。私だけには、大き過ぎるよ。
涙を拭って立ち上がる。戦う覚悟をしなければならない。
食べる気のない胃に、無理やり栄養ゼリーを流し込む。
ケーキの材料を入れた袋は、もったいないけれどゴミ箱に捨てた。
シャワーを浴び、服を着替え。部屋に散らばった生活用品などはすべて『心の世界』に詰め込む。
大きな家具以外は空っぽになった部屋を見回し。
何度も深呼吸して、気持ちを落ち着けようとする。
しばらくはこの部屋に帰ることはないだろう。二度とないかもしれない。
私はもはや日常に身を置くことを許されないだろうと直感していた。
アイは私を狙っている。
私がここにいる限り、周りの人たちはきっと巻き込まれてしまう。多くの犠牲が出る。
ただの人間には、あの甘美な誘惑から逃れる術はないのだから。
「いってきます」
再び戦いに身を置く決意を胸に、私はアパートを発った。
そして、メールによる招集がかかるのとほぼ同時に、TSFの門を叩いた。




