3「女神と五体の巫女」
俺たちを乗せたパトカーは、ベックの職場である武装警察『ブリンズ』本部に到着した。
取り調べ室まで、彼に付き従って歩いていく。
その途中もずっとアルシアが脳裏にちらついて離れない。
気分が優れない俺の様子を見かねたのか、彼は心配そうに声をかけてきた。
「おいユウ。本当に大丈夫か? 例の歌姫さんとは一緒に暮らしてたんだろう? 辛いなら今日は寝ちまって、明日か明後日くらいでも」
プロの警察、それも現場のトップが明日でも良いなんて軽々しく言って良いことじゃないけれど。
彼は気さくで人間味に溢れるヤツなのだ。
「……いや、話すよ。心配してくれてありがとう。敵は危ない奴だから、情報は共有しておかないとな」
「そうか……。こっちとしてはありがたいんだが、あまり無理するなよ。お前ら姉妹かってくらい仲良かったもんな」
「…………」
彼女の朗らかな笑顔は。癒しの歌声は。
人を呑み込む獰猛な笑みと嬌声と、禍々しい魔王曲に塗り潰された。
今日の朝まで寝食を共にしていた親友と、あまりにかけ離れた化け物の姿。
思い起こされるたび、執拗に俺を打ちのめす。
どうして君なんだ。よりによって、誰より歌で幸せを運びたいと願っていた君が。
なぜあんな恐ろしいことをさせられなければならない。
アルに送り込まれた世界だ。何もないはずがないと思っていた。
でも彼女に何の関係があった。彼女はただ歌いたかっただけなんだ。
俺(私)と仲良くなることで、選ばれてしまったのだとしたら。
『これが繋がりを断つ【運命】なのだとしたら……』
『ユウ……』
あんまりじゃないか……。
***
「つまり、彼女は歌っている最中にいきなりおかしくなっちまったってのか?」
「そしてアイと名乗った。誰かがアルシアを操っている――いや、乗っ取ってしまったと言った方が正確かもしれない」
ヴィッターヴァイツの【支配】が操り糸のようなものなら、アイの能力は塗り絵のようなものだ。
アルシア自身の覚醒。精神と肉体そのものの――おそらくは不可逆な変質によって現れ出た存在。
操り糸ならば、断ち切れば影響は失われる。実際にそうして助けられた人もいた。
けれど燃えてしまったものは元に戻らないように。そのものの構成の変化を元に戻すことなどできるだろうか?
異形と化した人間にもはや殺す以外の処置がなかったのと、その親玉が宿る化け物と。
何が違うと言えるのだろう。
まるで希望が見えないことに暗澹たる思いを抱きながらも、今は話を続ける。
「で、あの気持ち悪い化け物どもはなんだ。元は観客だったって言ってたな。とても信じられんが」
「歌だよ。たぶん、彼女の声がトリガーになった。それが精神波動のようなものとなって、異形化をもたらしたんだ」
ふと気付く。
アイにとっては、アルシアを乗っ取ることは殊更に都合が良かったのかもしれない。
聴く者皆を魅了する彼女の歌声は。その天才性は。
そのまま聴く者皆を深淵へと引きずり込む、魔性の力へと転ずるのだから。
……なんて最低で胸糞の悪い発想なんだ。
「てことは、声が聞こえるくらい近付いたら一発でアウトか。厄介過ぎる性質だなおい」
「よくよく気を付けて欲しい。アイの影響を受けると強烈な脳内麻薬が分泌されるのか、幸福感すら感じてしまうんだ」
恐ろしいことに。
人々は進んで怪物への変化や、自らアイの餌となることを受け入れようとしていた。
一度取り付かれてしまうと、逃れるのが極めて難しい。
「なぜそんなことまでわかる?」
「危うく俺も取り込まれるところだったからね」
「おいおい。マジかよ。よく助かったな」
ユイがいなければ危なかった。
生命力を持たない女の身体で、かつユイが内側から精神を守ってくれている限りにおいては。
奴であっても容易に俺には手出しができないようだ。
『アイと対峙するときは、私になっていた方が都合が良いかもね』
『そうだな。また襲われるかもしれないから、よろしく頼むよ』
『うん。任せて』
「とにかくそれで……一万人いた観客はみんな化け物ってわけだな。ひどい話だ」
ベックはやり切れない様子で舌打ちした。
間違いなく、近年起きた能力者テロ事件ではダントツで最悪のものだろう。
しかもこれは、まだ始まりに過ぎないのだ……。
「こいつはブリンズで手に負える案件じゃなさそうだ。うちは警護に専念して、TSFに任せた方が良いかもな」
「それがいいと思う。一般人が相手をするには危険過ぎるから」
TSF(Transcendental Force。超越軍)。
この世界では、TSPはTSO(超越者組織)によって登録・管理され、基本的人権を保障されている。
実態上、人でないものとして差別や迫害の対象となっていた(それがTSGの蜂起を招いた大きな要因の一つと言われている)地球とは大きく異なる点だ。
基本的人権の保障のみならず、能力や適性に応じて、彼らは世界中で大っぴらに活躍している。
TSPの多くは通常の人間より遥かに強力であるため、軍や警護会社に所属してその力を役立てる者も多い。
実際、能力者と彼らを補佐する人員によって構成された特殊軍隊がTSFである。
今回の事件のように、特殊能力が関わっていると見られる事件の解決に当たるのが大きな仕事の一つだ。
ちなみに俺自身は、TSFの特任戦闘員という身分が与えられている。
何度か事件に首を突っ込んでいたら、ベックに見つかって首輪を付けられてしまったという経緯だ。
「またお前にも頼ることになりそうだな」
「元よりそうするつもりさ。アルシアがこんなこと、望んでるはずがないからな」
「そうだな……」
ベックは改めて気遣うように、俺の肩をぽんぽんと叩いた。
止めなければならない。
これ以上、彼女の意に反した罪を犯させることのないように。
「アイとかいうのは、TSPって呼んで良いものかね」
「わからない。分類上はそうなるのかな」
「突然覚醒して、みんな化け物に変えちまうんだもんな。ついぞ聞いたことがないが。うーむ」
神妙な顔して首をひねっているので、尋ねてみた。
「どうした。ベック」
「いや。おどろおどろしい性質はまるで逆なんだが……突然覚醒するって一点に限れば、まるで三人の巫女のようだなと思ってな」
「言われてみれば……」
地球で言うところの神に匹敵するもの。
リデルアースにおける概念上の最高存在たる女神。
その女神の神髄の一部を宿すとされる『巫女』の称号を持つ、三人の女性たちがいる。
世界に数万人ほどいると推定されるTSPの中でも、至高と謳われる存在。
封函手の巫女
加護足の巫女
至天胸の巫女
それぞれ女神の手、足、そして胸体の顕現であると言われている。
残りの部分は「欠けている」。
五体が揃うものと考えるならば、頭部と下腹部に相当する者もいるはずだが、知られていない。
三人の巫女はリデルアースの歴史上、同時代には常にただ一人ずつだけが唐突に覚醒し、その圧倒的な力を宿してきた。
覚醒者が寿命や病気、戦乱などで死ぬと、また無作為に世界の誰かが選ばれて新たな覚醒者が生まれる。
そうして女神の力は、代々受け継がれてきた。
なぜそんな現象が起こるのかは、未だに解明されていない。
とにかく、極めて不可思議な特性と強大さゆえに、太古より三人の巫女は歴史に名を残してきた。
現代でも一個人で戦略兵器級の扱いを受けるような、規格外の存在である。
実はそんな巫女たちとも、とっくに顔なじみだったりするのだけど。
「ま、正体はわからないが。とにかく倒すべき化け物だってことだけは確かだ。お前から聞いた注意点はしっかり周知しておくぜ」
「ああ。助かるよ」
「近々TSFから招集があると思うから、よろしく頼むぞ」
「ありがとう。ベック」
事情聴取は終わった。
彼に別れを告げて、部屋を出ようとすると。
背中からぎこちなく、優しい声がかかった。
「あとな。帰り道、気を付けるんだぞ。俺たちもいるんだから、な」
「うん……」
***
無神経な人混みに流されるまま、俺は帰り道を重い足取りで歩いていた。
隣にいるはずだった。やかましいくらいに、身振り手振りいっぱいに今日の出来事を楽しく伝えてくれるはずだった。
彼女に作って手渡すつもりだったお祝いのケーキ。
その材料を入れた紙袋は、その辺の道端に放り出したくなるほど重たく感じた。
茫然と歩いているうち、いつの間にか自宅のアパートの部屋に着いていた。
ただそこから一歩も動く気になれなくて、しばらく立ち止まっていた。
だがいつまでもそうしてはいられない。
どうにかドアを開けると、そこはやっぱりがらんとしていた。
玄関に入って、女の子になった。
いつも彼女と部屋で過ごすとき、習慣的にそうしていた癖がほとんど無意識に出ていた。
紙袋を放り投げ、乱雑に服も脱ぎ捨てて。
薄い肌着一枚のみになった私は、疲れた五体をダブルベッドに放り出して。力なく仰向けになった。
ぼんやりと横を見やる。
いくつも消えない染みや傷の付いた床。彼女の自由気ままで奔放な、悪く言えばあけすけで乱暴な生活態度の証だった。
実年齢は私の方が少し上だったけれど。まるで本当の姉のように感じたのは、彼女の気質と温かさゆえだったのだろう。
厚かましく押しかけてきた彼女は。そのままの勢いと親しみやすさで、私の生活のあらゆる部分を徹底的に犯してくれた。
個人の都合やパーソナルスペースなんてものは、まったく存在を許されなかった。
三度の食事も風呂も、都合の取れる時はほとんどいつも一緒だった。
そして夜には、私を容赦なく抱き枕にして。心底気持ち良さそうに爆睡してくれるのだ。
ぎゅうぎゅうに包まれて。寝付くにも一苦労な私のことなんて、気にもかけずに。
無意識に伸ばした手が、空を切る。
「あ……」
そんな人だったから。
いつも手の触れるところにいるのが、当たり前だったから。
所在なく、腕は枕を抱き締めていた。
顔を埋めると、ほんのりと甘い香りがする。
いつも使っているシャンプーの残り香に、彼女の匂いが混じったもの。
数日のうちには消えてしまうだろう。
今朝までは、確かにここに彼女が暮らしていたことを示す名残だった。
ラナソールで……あんなとんでもないことがあった直後だった。
たった一人で、恐ろしい奴に送り込まれた世界だった。
いつも何があるのかと恐れていた。内心不安でいっぱいだった。
アルシアは、太陽だった。
彼女と過ごすうち、私の中の凍り付いた部分が徐々に溶かされていった。
彼女の温かさとぬくもりが、私も大好きだった。
目を瞑ると、これまでの思い出が蘇ってくる。
これからはもう。一緒にご飯を食べることも、お風呂に入ることも、寝ることもない。
記憶の中にしか、生きた彼女はいない。
彼女の姿形をしたものは、もはや彼女ではない。
既に倒すべき人類の敵なのだ。
「あんまりだ……」
涙が溢れてきた。
アルシアという存在は、最も望まぬ形で捻じ曲げられた。
その痛みと苦しみを想うと、嗚咽を堪えることができなかった。
枕に顔を押し付け。できるだけ声を押し殺して、一人静かに泣いた。
どうか。今日だけは。
泣くことしかできない私を許して欲しい。
明日からは、きっと。
私は――彼女を殺すために、戦わなくてはならないのだから。
***
アイは夜闇に紛れて、生命の気配と悪意の伝播とを極力押し殺しながら、山中を移動していた。
すべてはユウに居場所を悟られないためである。
大して身に纏うものなしに山中など歩いていれば。草葉や尖った石の数々が、アルシアのものだった女のぬめ肌を容赦なく傷付けた。
ところが裂傷は、生じたそばから修復されていく。
桃色みを帯びた流動可の肉体は、しかし元の形を正確に覚えていて、その通りになるよう自己再生しているのだ。
「ああ――弱い。弱い」
未だ傷付きやすく、脆い身体を弄ぶように爪を立てて。
アイはつまらなそうに呟いた。
やがて彼女は、小さな湖のほとりに辿り着く。
人の手のまったく入っていない自然の水は透き通っており、側にはリンゴの木が自生していた。
腕を伸ばして、真っ赤な果実の一つをもぎ取る。
野生ゆえ貧相な見た目のそれに齧り付いてみる。
今まではただ見ているばかりで、口にすることがなかった。
初めて食べてみたリンゴの味わいは、新鮮な驚きをもってアイに迎えられた。
目を見開き、齧った痕の部分をまじまじと見つめる。
「ふうん。お前、こんな味だったの」
でもまあ、人の肉の方がよほど美味しいなどと。そんな恐ろしいことを呑気に考えていた。
もうすっかりリンゴに興味を無くしたアイは、一口齧っただけのそれを乱暴に放り捨てた。
彼女にとって食事とは、必要のためにする行為ではない。
自らの食欲を満たし、力の糧とする自己実現である。
たくさんの人々を一度に呑み込んだあの素晴らしい食事をうっとりと思い返しながら、アイはぽつりと呟いた。
「ユウ」
その名を呼ぶと、それだけで心が歓びと憎しみに打ち震える。
アルシアが生来あの子に持っていた親愛と、アイ自身の持つ愛憎混じった想いとが、固く分かちがたく結び付いて。
彼(彼女)への底知れぬ執着として、実現していた。
「ふふ」
あの子と正面切って向かい合うには、まだまだ力が足りない。
今のわたしは、フェバルほどの力を持たない。
あの男。
わたしをかくも弱きものとして、創り出してくれたものか。
「…………」
わたしは、殻に閉じ込められている。
わたしを束縛するもの。分厚い殻。
なぜ。決まっている。
わたしの――アイの可能性を恐れているから。
このカラダには、無限の成長性が秘められている。
時は満ち、わたしは動き始めた。
これから如何にしてくれよう。
「とてもとても、楽しみなことね」
くすりと笑みを浮かべたアイは、それが湖面に映し出されていることに気付いた。
「…………」
何かがわたしを見つめている。誰かがわたしを見つめている。
そう認識した途端、水面に映る彼女の顔から笑みが消え、それは怪訝な目で首を傾げていた。
「わたしの顔……?」
はて。これは実際、誰の顔なのか。
アルシアのものではあった。
ユウに向けて笑顔とか何とかを振りまいていたことを、アイは「知っている」。
でもアルシアは……わたしになった。アイになった。
ならば、今これからは。
「アイの顔」
わたしの顔。ということなのか。
これが。こんなものが、本当にわたしの顔なのか?
そのように呼んでいいものか。
「――うん。これは、アイの顔。これが、アイの顔」
まったく構わない。アイはそう結論付けた。
顔の持たないものが「奪い得たもの」ならば、これこそがわたしの顔に違いない。
何者でもなかったものは、これから何かになっていく。
誰かとひとつになることで、それはわたしになる。
みんながアイになれば、アイはみんなでもある。
アイになるとは、きっとそういうことなのだ。
「まずは、顔」
結論に満足したアイは、アルシアのものだった「わたしの」顔を我が物と得て。
ぺたぺたと無遠慮に触り、柔肌の感触を存分に愉しんだ。
「これが最初の一つ」
そしてアイは、このカラダが何者であるかを正確に理解してもいた。
アルシアがついに知ることのなかった、自らの正体を。
響心声の巫女
アルシア・ハーマイン。
実は彼女こそが四人目の巫女――女神の顔であった。
その声は、その歌は。人々の心を揺さぶり、恐れや不安といった負の感情を綺麗に洗い流し、心酔させてしまう。
心の芯に届く癒しの力。物理的威力を持たないが、しかし最もよく人の心へ響き渡る力。
目に見える力でないゆえに。脈々と時を超えて引き継がれながら、それが女神の顕れであるとは、ついぞ世界から認識されることのなかったもの。
そして、アルシア自身も知る由はなかったが。
「女神の顔」は、アイの最初の依り代としての役割をも与えられていた。
ユウを「見つける」ことこそ、彼女の最も大切な役目であった。
彼女は無自覚のまま見事に仕事を果たし、しかもあの子の拠り所として、心の奥深くにまで入り込んでいた。
それだけに絶望もまた深く、味わい深い。
「素晴らしい」
彼女の貢献を歓び、アイは自らの身体を抱きすくめていた。
そして世界は、この声の本当の価値を知らないままである。
響心声――癒しの声は、アイのもとでこそ輝くのだということを。
向けられる対象が「人ならざるモノ」であっても、響心声はまったく同様の効力を発揮する。
彼女に対する負の感情も洗い流し、心酔させてしまう。
彼女が響心声を発するとき、ヒトは彼女への共鳴同化を極めて容易に引き起こす。
すなわち、アイの持つオリジナルの力――【侵食】。
その強化こそが、響心声の本質である。
「それから。わたしの手と。足と。胸」
まさに歌うために創られた喉で、鈴のような声を弾ませて。期待に胸を躍らせて。
アイは自らの手と足と胸へと、順に指を滑らせた。
未だ我が身にないもの。
これから迎え入れるべき力。
わたしの血肉となるもの。
顔だけでは。いきなりユウとひとつになろうとしても、届かない。
残念ではあったが、予想のできることではあった。
物事には順序というものがある――焦らないことだ。
「待っていてね。そのうち迎えに行くから」
すべてのカラダは、このアイのために生まれ出でたもの。
溶け合って融合し、アイとなるべきもの。
「ふふふ。女神とはわたし。わたしはアイ」
わたしこそ、リデルアースのすべてであり。ひとつなるもの。
未だ目覚めたばかりにて、完全なるわたしにはほど遠く。
でも、欠けたわたしを繋いでいくならば。
やがては――【神の器】へと至るだろう。
「ああ。楽しみ」
お前の行き着く先。そこにわたしがいる。
ユウ。わたしの中にお前がいる。
アイは恍惚の表情を浮かべ、愛おしげにお腹をさすった。
すべてはわたしの望むままに。
遅かれ早かれ、行き着くところは皆同じ。
「みんな、アイになるために生きている。だから――みんなみんな、食べてあげるね」




