2「襲い来るしもべたち」
私に噛み付こうと、次々と飛び掛かってくる異形の怪物たち。
口は大きく裂け、男女の別なく服は破れている。筋肉が異様に盛り上がり、全身が艶めかしいピンク色に変色している。
ただどうやらすべてが均質な姿ではない。
ほとんど人の形を留めている者もいる一方で、明らかに異なる生物の特徴を発現させたものもいる。
具体的には、背中に翼のようなものが生えていたり、エラやひれが生じていたりといった具合だ。
また猿のような毛むくじゃらだったり、角や赤黒い尻尾のあるものもいた。
さらにはまったく人の形を保ち切れず、血の泡を立てる肉団子と化したり、液状に溶けてしまったものまでいる。
ピンク色のスライムのようになった元人間は、まるで餌を求めるかのように近辺を這いずり回っていた。
気を失いたくなるような、ひどい光景だった。
いたるところ、血と肉の腐ったような臭いが充満している。
ひとまず、攻撃を避けないと。
振りかかってくる爪を跳び上がって避け、観客席の上に片足でバランスを取って立つ。
そして、男に変身した。
この世界ではほとんど魔法が使えない。許容性がとても低いのだ。
一応女のままでも戦えないことはないけれど、単純な戦闘能力で言えばこっちの方が優れている。
変わり果てた者たちから、人の心はもう感じない。こいつらは既に理性を失った化け物だった。
やはり違う。あくまで原形そのままに相手の精神を操るヴィッターヴァイツの【支配】とは、まるで性質が異なっている。
あれは解除することができたけど……目の前の彼らを助ける方法がわからない。元に戻す方法がわからない。
放っておけば、彼らはスタジアムを飛び出して街中に解き放たれるだろう。
そうなれば、被害はさらに拡大してしまう。
仕方ない。やるしかない。
苦渋の決断だった。
左手に気剣を作り出し、襲い来る化け物を一思いに斬り捨てる。
化け物は頭から二枚に下ろされて、血飛沫を上げる。ぴくぴくと痙攣した後、もう動かなくなった。
敵は密集して次々と押し寄せてくる。
振り向きざまに一体を横なぎで斬り払う。それは上下に分かたれて宙を舞う。
死に姿を確認し、ますます嫌な気分になる。
胸の膨らみがまだわかる程度には残っていた。元女性だろうか。もはや輪郭でしか判断が付かない。
すると向こうから、針のようなものが大量に飛んできた。
驚く。そういうことをする奴もいるのか!
座席の影にしゃがんでかわす。針が次々と近くに突き刺さる音がして――。
音が止むのを待つ暇もない。
俺に噛み付こうと上から覆い被ってきた口裂け男の下顎へ剣を突き刺して、立ち上がる。
キリがない。動きを止めればやられる。
膨張した肉団子としか表現できないものが側から転がってくる。
こちらから駆け寄り、膨らんだ腹の真ん中に気剣を突き立てた。
途端にガス状の物質が、破れたところから噴き出す。吸い込まないように急いで跳び退く。
ガスに巻き込まれた化け物たちが、どろどろに溶けていった。
ぞっとする。
囲まれて潰されないように上手く立ち回りつつ、同時に一体たりともスタジアムの外へ出してはならない。
中々に難題ではあったが、入口付近で粘ってひたすら斬り伏せ続けることで均衡を保っていた。
グロテスクな容姿をしているが、一体一体はこれまで戦ってきた敵に比べて特に強いわけではない。問題なく対処はできる。
ただ、もうまともな理性はないとわかっていても。
一人殺すたび、心に針が刺すような気分だった。見た目のグロテスクさもくるものがある。
ひどい悪臭に吐きそうになるのを必死に堪えながら、心を押し殺して斬り続けた。
『みんな、この日を楽しみにしていた。普通の人間だったんだ』
『そうだよ。なのに、こんな……』
『俺は……許さないぞ』
『ユウ……』
アイ。何者かは知らないが。お前は許さない。
みんなを。アルシアを。よくもこんな目に……!
化け物が特に密集しているところがあった。数百体は群がっている。
あの数を気剣で逐一処理するのは、少々きついものがある。
俺はいったん気剣を引っ込めると、左手を突き出して気を溜めた。
そして放つ。
《気断衝波》
今回ばかりは、吹っ飛ばすだけで済ますつもりはない。
殺す覚悟で放った不可視の衝撃波は、異形の生物たちの肉を抉り、弾き飛ばした。
アイに由来するおぞましい生命反応が、まとめて消え失せる。
人とはまるで違う。こんな禍々しい質の気を普通の人間に持たせるなんて。
『アイ。あいつは根っからの化け物だ』
『うん……。見てた? あいつ、吸収した人間たちの分まで力を増していた』
『ああ。感じていたよ。放っておけば、いずれとんでもない力になる』
そして必ず世界の脅威となるだろう。確信があった。
これまで出会ったことのないタイプだ。フェバルにもあんなに異様な雰囲気の奴はいなかった。
ウィルも恐ろしいけど、あいつにもまだ人間らしさはある。
というより、実はかなり人間臭い奴かもしれない。あいつは。
アイは。あれからは、一切の人間らしさを感じなかった。
化け物だ。純粋な化け物。
底知れぬ異質なものを秘めている。
……そして、強かだ。
今、あいつの反応は消え失せている。上手く気を隠して逃げやがった。
くそ。後悔が押し寄せてくる。
しくじった。
初めて対峙した瞬間。あれが最大のチャンスだった。
あそこで倒しておくべきだった!
異様な雰囲気に圧倒されてしまった。アルシアの変貌に動揺もした。
まさか急に身体が液状化して伸びてくるとは思っていなかったから、奇襲にも対応し切れなかった。
その後も良いようにペースを握られて。
なんて様だ。情けない。
『ユウ。仕方ないよ。いきなりこんなことになるなんて、わからなかった』
『……そうだな。ちくしょう』
だが、ネタさえわかっていれば。今ならまだ俺たちの方が強い。
精神支配にさえ注意すれば、決して倒せない相手ではないはずだ。
手に負えなくなる前に。
『俺たちが止めなくちゃ』
『そうだね。アルシアだってこんなこと、望んでない』
後悔と決意を孕みながらも、しっかりと身体は動いている。
一体。また一体と、迫り来る怪物を斬り倒して。
今のところ、まだ外に出て行ってしまった奴はいないようだ。入口際で辛うじて食い止められている。
しかし一体一体が並の人間よりも相当に頑丈でしぶといため、斬るのにも力が要る。
少しずつ疲れが蓄積してきていた。
そのときだった。
武装した男たちが、わらわらと入口から雪崩れ込んできたのは。
誰かの通報を受けたのだろうか。どうやら武装警察が事態を重く見て突入してきたらしい。
あのライトブルーの制服は――ブリンズの連中か。話が通じそうでよかった。
アイがこの場に居れば、謎の力でたちまち異形化させられていたかもしれない。このタイミングでまだよかったと思う。
ひとまず事態が収まりそうな気配に、少しだけほっとする。
彼らは入って来るなり、血と腐臭と化け物でひしめくスタジアムの惨状を前にして、息を詰まらせているのが明らかに見て取れた。
こんなものを見れば、誰だってそうなる。
ただ一人入口付近で無事に戦っている俺の姿に、彼らはすぐに気づいた。
「少年を発見した!」
「おい。生存者がいたぞ!」
「確保だ! 確保しろ!」
え。ちょっと待ってくれ。話が違う。
みんな、俺のことを知らないのか?
まずい。このまま連れて行かれたら、隊員からも犠牲が出るぞ。
俺が守りながら戦って、やっと何とかなる計算なんだ。
上手い言い訳が思い付かない。とりあえず無視して戦い続けようか。
そんなことを考えていると、奥から馴れ馴れしい男の声が届いた。
「待て! ユウ! ユウじゃないか!」
彼が駆け寄ってくる。よく知った顔だ。
ふう。助かったよ。
「ちょっと来るのが遅いんじゃないか。ベック」
ベックとは、以前ちょっとした事件で助力した際に親しくなっていた。
一応は俺の正体も知っている仲だ。
「その子供、ベックさんの知り合いだったんですか?」
「そうさ。見た目はガキだが、立派な大人だよ。それに強い力を持ってる」
「ってことは。もしかしてこの人、TSPですか?」
「まあそうだな」
ベックが曖昧に笑って頷く。
この世界では、ごく稀に通常よりもずっと強い特殊な力を持った人間が突然発生的に生まれてくる。
この世界限定のフェバルみたいなものか。
歴史的にその比率はほぼ一定であり、数十万人に一人程度と言われている。
奇しくもこの世界の人口も地球と同じくらいであり、世界全体では数万人のオーダーになるだろう。
彼らはTSP(Transcendental Person。超越的人間)と呼ばれた。
……実は、こんなところも地球とそっくりだった。この呼び名さえも。
かつて地球でも一時期、超能力者がごく稀に突発的に出現することがあった。
とりわけ、彼らの一部が徒党を組んで成立した悪名高きトランセンデントガーデン(TSG)が引き起こした一連のテロ事件は有名である。
母さんがこの事件解決のために忙しなく駆けずり回っていたことは、幼心ながらに何となく覚えている。
不思議なことに。あるときを境に、地球上から一切のTSPはぱったりと姿を消してしまったのであるが。
この世界では、TSPは消えることなく当たり前のように昔から存続している。
それも異端者として、しばしば迫害の対象とされた地球とは違う。
良質に登録管理され、一般人とは区分される形であるが種々の権利も保障されている。広く社会や特殊組織で活躍する者もいるのだ。
少々脱線したが、対外的には俺もそんなTSPの一人ということになっている。
ベックは……実はそうではないことを知っているけれど。
「おっと世間話をしてる場合じゃない。ユウ。あの化け物どもはなんだ」
「元は人間だった者たちさ」
「なんだって!? あれが、人間……?」
ベックだけではない。隊員たちも息を呑んで驚いている。
信じられないだろう。
「詳しい説明は後にしよう。あいつらを外に出すとまずい」
「気を付けるべき点は」
「かなり硬い。拳銃じゃ効かないな。ライフル弾かグレネード弾辺りで撃ちまくってくれ」
「だが、生存者の救出が先じゃ……」
「遠慮する必要はない。もうここにまともな人はいない」
俺は暗澹たる思いで首を横に振った。
ベックはそれで事の重大さを理解したらしい。
「一万人だぞ。とんでもない」
「とんでもないことになったんだよ」
吐き捨てるように告げる。これ以上話をする時間も惜しかった。
気剣を作り直して――ベック以外の隊員たちが目を丸くしていたが、とりあえず無視して。
客席の階段を下っていく。
走りながら、声を張り上げた。
「俺のことは遠慮しなくていい! どんどん撃ってくれ! 俺はやばそうな奴を優先して片付ける!」
「それでは、あの人を巻き込んでしまうんじゃ」と不安になる声が化け物の呻き声に混じって、微かに聞こえてくる。
ベックが「良いんだ」と怒鳴っているのも聞こえた。たぶん大丈夫だろう。
俺は針を飛ばすタイプの異形――厄介な遠距離攻撃を持つ連中に狙いを定めて、次々と斬りかかっていった。
間もなく後ろから、雨あられと銃火器の弾ける音が鳴り響く。
何もしないと味方に撃ち抜かれてしまうが、問題ない。
《ディートレス》
リルナから学び取った技を使った。
体表を綺麗な青色透明のバリアが覆う。
銃弾のようなただの物理攻撃は完全に無効化してくれる強力な技だ。
ただこれを展開している間はまともに動けないという弱点がある。なので隙を見て解除しては、次の敵を討ち倒していく。
そのようにしてしばらくの間、掃討戦は続いた。
俺が最前線で立ち回ったこともあって、幸いにも隊員に犠牲者は出なかった。
ようやく動く化け物がいなくなったとき。四散したおびただしい量の屍だけが残っていた。
事件の悲惨さをありありと物語る、燦々たる光景だった。
みんな、さっきまで心地良く歌を聞いていたんだ。なのに。
変わり果てた姿に、心中はやり切れない気持ちでいっぱいだった。
***
事情聴取のため、パトカーに乗って連行させられる。
ベックは気を使って、隣で励ますように話しかけてくれた。
けれど俺は……とても何かを話す気分にはなれなかった。
ベックもそんな俺を察して、肩を優しく叩いた後は何も言わないでいてくれた。
アルシア。君は……。
なぜ、君が……。
項垂れて、車窓越しにビュ-トシティの街並みを眺める。
まだ事件は浸透していないのだろう。そこらを歩く人々の表情に変化はない。
日常に忙しく無関心な人々の顔だ。
すぐ横を別の車が並走して、抜き去っていく。
車。信号機。標識。ビル。まるで英語にそっくりな言語。
何もかもが、不思議と懐かしい。
この世界の名前は――リデルアース。
それは偶然か、必然か。
アルの奴に寄こされた世界だ。やはり避けられない運命だったのだろう。
アースの名を冠するこの世界は。街並みも文明も、何もかもが地球にそっくりだ。
そして、今日――。
『……なあ。ユイ』
『うん』
『どうすれば……いったいどうすれば。アルシアをあいつから……アイから助けられるかな』
『助けたいね。何としても。でも……もしかしたら、もう……』
『『…………』』
何者かに乗っ取られた親友。空の彼方に消えていった親友。
腐った臭いが、まだ舌にこびりついていた。




