54「最後の仕掛け」
[5月1日 8時30分 異相世界 東京]
トレイターは、【世界歩行者】である。
ただ一人位相のずれた世界――異相世界を見出し、そこへ渡り歩くことで、いつでも孤独で静寂なる世界に隠れ潜むことができた。
彼にも知る由はなかったが、異相世界は【運命】にほんのわずか綻びが生じたことで発生した、可能性の揺らぎの顕れであった。
パラレルワールドというほど立派でもない、ごく不完全な可能性の泡沫に過ぎないものである。
だからその世界は完全に死んでいた。誰も存在せず、まるで時も止まったように静かなままなのだ。
【運命】がその完全性を一欠片でも損なった唯一の理由は、『始まりのフェバル』アルのオリジナルの不在に尽きる。
本来の彼が持つ【神の手】こそ、【運命】によって形作られ、方向付けられた世界のバグフィックスのような役割を果たしていた。
誰がいつ生まれ、いつ死に、誰と出会い、おおよそどんな人生を歩むのか。
世界はいつ形作られ、いつ滅びるのか。
そして、『異常』はいずれ必ず排除されること。
【運命】はこうした大きな流れにおいて、必ず定められた通り実現に至る絶対の効力を持つ。
一方で強大過ぎるゆえに、小回りの利かないところがあった。
そこに文字通り手を入れ、きめ細やかにすべてを『予定通り』進める力が【神の手】であり。
アルは元来そのようにして、定められた宇宙の永劫の繰り返し――その最も完璧に近い調和を保ってきた。
しかし今、宇宙の管理者はどこにもいない。世界に生じたずれを直ちに修正する者がいなかった。
それでもなお【運命】は絶対であり、大枠において『予定』が外れることはないが。
宇宙全体に比べれば些細なことに限っては。例えば、異相世界のような『異常』が今も残されたままになっている。
『黒の旅人』の執念がもたらした一定の猶予は、思わぬところで副次的効果へ波及していたのだった。
さて。異相世界とは。
地理的には現実と重なっているにも関わらず、誰にも認識できず、決して触れることのできない特性を持つ。
結論を言ってしまえば、彼は最初からずっと東京を拠点としており、QWERTYとも目と鼻の先にいたことになる。
ただ少し、現実とは「ずれていた」だけなのだ。それだけで、誰も捕捉することができなかった。
いや、たった一人だけ。
このずれた世界を認識し、触れることのできた者がいたか。
星海 ユウ。
知られざる世界の英雄、星海 ユナの一人息子であり……まあ何とも不思議な子だ。
インフィニティアからの報告と相談を受け、それでもまだ止まることはできないのだと突っぱねた後。
とうとう誰も味方のいなくなってしまった彼は、独り物思いに耽っていた。
すべての核兵器を止めたキーマンが、わずか6歳のあの子だったことを知り、彼は目を細めていた。
坊や。やはり君が、唯一の真なる到達者なのだろうか。
あの『光』とは確かに別の光が視えたけれど。具体的に何なのかまで、都合よくは教えてくれない。
それほどまでには、彼は【運命】に祝福されてはいない。いや、呪いと言った方が正確か。
ただ彼には、どうしても唯一の真なる到達者を見極める必要があった。
なぜならば。彼の手によって巧妙にデザインされた、作られた世界の危機などではなく。
次に来たるもの。やがて辿り着く場所。
我々には遠く、次の世代には確実な未来に訪れるもの。
おそらく規模はこの星に留まらない。真に破滅的な戦いが待っている。
それに立ち向かうための手立てを、整えなくてはならないのだ。
言うなれば、未来のための戦い。【運命】を前にして、ただ屈することだけはどうしてもできなかった。
その頃にはもう、自分たちは確実に生きてはいまいが……。
そこで彼は、一つの大胆な仮説を立てた。
そして散々苦悩した末、世界を敵に回してでも実行に移すことを決意したのだ。
『光』を見て決心した『炎の男』もまた、彼の計画の共犯である。
もし世界に決まった大きな流れがあるとして。そいつを無理やりに揺さぶろうとすれば、どうなるだろうか。
何か不自然な出来事を引き起こさなければ、世界が滅ぶほどの恐るべき事件を引き起こしたとき。
いかに超人的であっても、星海 ユナのような普通の人間にはもはや解決できない、そういうレベルの事態にあって。
唯一の真なる到達者は、必ず台頭するだろうという確信があった。
おそらくはそれが取り得る限り、最大限の見極め方なのだ。
なぜならば。極めて逆説的な話ではあるが。
もしその人物が【運命】と戦うことを定め付けられているのならば。それほどの大きな可能性を秘めているのなら。
彼もしくは彼女は、やがて来るその時を迎えるまでには決して死ぬことはない。
そのために最も自然な帰結として、彼もしくは彼女こそがその力の片鱗を示すことになるだろうと。
そして結論として、三人の可能性が浮上した。
ユウ。ミライ。そしてヒカリ。
インフィニティアから伝え聞いた、最も才に溢れる子供たち。奇しくも歳もすべて同じだと言う。
その中で、最も自発的な形で解決に至った子が……まさか坊やだったとはな。
ただ結局、どこまでいっても推測の話。確証は持てない。
だが……そうであるといいなと思った。
知らない「おじさん」にまで寄り添い、一緒に「泣いてくれる」。そんな優しい子ならば。
この絶望に満ちた宇宙も、温かな別の光で照らしてくれるのかもしれない。
けれども。だとすると、現状はあまりにも厳しい。
触れ合ったとき、彼には視えてしまった。
彼の未来は、あまりにも強烈な『光』に塗り潰されていて。
本来の彼が放つであろう可能性の光も、深い胸の奥底に押し留められて消えようとしていた。
色んな人物を視てきた彼をして、最も強く決定付けられた、最も壮絶な運命を持つと言わざるを得ない。
およそ人の範疇に留まることを知らない。まるで終わりが見えない。果てがない。
一体何があれば、あれほどの業を……。
あのか弱く心優しい子には、あまりにも過酷過ぎる。深い同情と憐憫とを禁じ得ないものだった。
あれでは無理だ。まだ早い。まだ戦うための準備が到底できていないのだ。
このままでは、確実に芽を摘まれてしまう。
あの子が十分成長し、己を知り、世界を知って。なお立ち向かえるだけの強さを育む。
そのための時間を、猶予を。稼がなくてはならない。
彼が自らの小さな光を守り通し、己自身の人生を歩むためには。まだ大切な何かが欠けている――そんな気がしてならないのだ。
たぶん、何か。とても重要なファクターを見落としているのだ。
だからこそ、せっかく見出したものではあるが。
まだ小さな彼に今すぐ希望を託そうなどと。
責任ある大人として、結論を急ぐことはできなかった。
――時計は、5月1日8時35分を指している。
彼はやるせなく、確認の意を込めて、手持ちのPCを付けた。
やがてヘッドラインは、太平洋に消えたとある航空機のニュースを表示する。
核事件の特大報道に紛れて、それはやや小さな扱いで報じられていた。
『彼』、いや彼女もまた『予定通り』に死んでしまったか……。
「可哀想なトゥルーコーダ。君もまた【運命】に殉じてしまったようだね」
彼は悲しみに満ちて、己の限界を吐露する。
「でもね。僕にもどうすることもできなかったんだ。本当さ」
懺悔し、男は嘆き項垂れていた。
「君が意固地にならず、ほんの少しでも誰かの意見を聞いてくれればな」
だけど結局は、そうはならなかった。
誰かが焚き付けてしまったからだ。まるで意のままに操るように。
やはり。恐るべき何者かがいる。
【運命】を知る別の誰かが、そうなるようにと。世界の裏側から手を引いているらしい。
とするならば。今この決意さえも、結局は誰かの掌の上なのかもしれない。
何度でも気を抜けばふと絶望しそうになるが、まだ挫けてはならないと歯を食いしばる。
星海 ユナは、あんなにも立派に戦ってくれたじゃないか。
僕たちは敵同士でも、深いところで分かり合えたのかもしれない。そう思う。
……恐れていては、何一つ前へ進むことはできない。信じよう。
たとえもし結果として、そうなるしかないのだとしても。きっと誰かがやらなければならなくて。
それはたぶん、僕にしかできないのだから。
これからしようとすることは。決して幼馴染の協力は得られまい。
だからこれは……僕だけの裏切りだ。
「インフィニティア。君なら……結局は止める側に回るだろうと、わかっていたよ」
何も視える必要すらない。
君は人を殺すには、優し過ぎるからな。
仲間にも心配の声かけばかりして、結局自分では誰一人として殺めることも傷付けることもできなかった。
僕もずるい人間さ。つまるところ誰一人として、直接戦う相手にすらしていない。
そして、どうしようもなく薄汚れた人間だ。
薄々わかっていて、利用して。みんな見殺しにしてしまったんだから……。
星海 ユナは、期待に応えてくれた。
世界の未来を繋ぐため、人知れず我々と戦い。影の英雄となってくれた。
僕が世界の敵となり、双方が期待通り役割を演じることで。
第一の目的――世界から核兵器のほとんどを消し去ることはクリアされた。
第二の目的――TSPを可能な限り保護特区ガーデンへ隔離することも進行中だ。
僕が思い描いていた結末までは、あと一歩のところまで来ている。
なのに。だと言うのに。
この胸を満たして止まない悲しみは、痛みは。何なのだろうか。
――悲しいときはうんと泣いた方がいい、だったか。
「なあユウ。全部終わったら、僕は泣けるだろうか」
キーボードを叩くと、モニターに世界地図が表示される。
そこに示された無数の赤い点が、まだこの世界に残存する核兵器の位置を示している。
彼が前もって現実世界より、手ずから異相世界に移したものだ。
ずれた世界に配置した分までは、まだ小さな彼らではさすがに手の出しようもなかったようだな。
残った数はほんの数パーセントにも満たないが、最後の仕掛けにはこれで事足りる。
トレイターは別のソフトを起動し、事実上最後の宣言に移る。
トゥルーコーダが容易く全世界へやっていたようには、とてもできない。
東京とニューヨークの二か所だけを、ささやかにジャックして宣言した。
『非能力者人民諸君。トレイターだ。
まずは予定より早い核攻撃を詫びよう。いささか不幸な手違いがあったが、我々はまだ十分核を保有している。
諸君ら非能力者の手の届かぬ領域へ隠しただけのこと。良いデモンストレーションにはなっただろう?』
隠したのは事実だが、どこまで信じられたものか。TSGの統制が乱れていることも露見してしまっただろう。
事実上、この組織がもう瓦解してしまっていることだけは。
苦しい言い訳だろうが何だろうが、事情など隠して押し通さなければならない。
『いいか。要求を忘れるな。決して手を緩めるな。九日後だ。
来たる審判の日に、我々は最後の結論を下す』
ついにたった独りになってしまったトレイターは。
なおも世界へ挑み、見えざる運命と対峙し。そのためには自分の良心すら裏切って。
世界の敵を――首領を演じ続ける。




