1「星海 ユナ、テロに遭遇する」
[12月1日 18時28分 東京 新宿]
星海 ユナは、ごった返す人込みの中で逸れないよう、6歳のユウの手をしっかり引いて歩いていた。これから電車に乗って帰宅しようというところである。
「今日は楽しかったか?」
「とってもたのしかった! ありがとうおかあさん!」
ヒーロー映画に買い物に体験型アトラクションと、午前中から今の今まではしゃぎっぱなしだったのだ。ユウは満面幸せの笑みだった。
と、この場にいない父親のことを思い出して、彼は少ししょんぼりする。
「でも、おとうさんおしごとでざんねんだったね」
「しょうがない。普通サラリーマンってのは平日お仕事なんだよ」
「ぎゃくにおかあさんはへーじつがおやすみなんだよね」
「これも仕事柄ってやつね」
ユナはにやりと笑った後、申し訳ない気持ちで言った。
「ごめんねユウ。お休みが少なくてさ。本当はもっと遊びに連れて行ってあげたいんだけど」
「いいの。おかあさんいっぱいがんばってるもんね」
テレビも本もあるし、タクお兄ちゃんやクリアお姉ちゃんたちもいるから平気なんだ、と健気に息巻く小さなユウ。
そんな我が子が愛しくて、ユナは少し足を止め、優しく彼の頭を撫でた。
「よしよし。いいこだ。また今度遊びに行こうね」
「うん! つぎはゆうえんちがいいな」
「へえ、遊園地がいいの。でも大丈夫? おばけやしきやジェットコースターでまた泣いちゃうんじゃないの~?」
以前、面白半分で連れていったとき、怖がって泣き喚いたことを思い出し笑いながらからかうユナ。ちなみにアイスクリーム買ってあげたらケロっと笑顔に戻ったのもお約束である。
「う~。へーきだもん! こんどはなかないからね!」
「そうかい。ちゃんと見ててあげるから頑張りな」
「うん。がんばる」
握りこぶしを作って意気込んでいる姿が微笑ましく、ユナは目を細めた。
新宿ランブリングロードを通り抜けて右に曲がると、甲州街道の脇下にある小広場へ行き着く。
かつてはたくさんの喫煙者がたむろしていたこの場所も、横に喫煙所ができてからは幾分子供連れで歩きやすくなっていた。
真ん中辺りでは、演者が小銭と夢を求めてパフォーマンスをしていた。これもいつもの光景である。
普段なら無視するところ、ユウが喜んで手を振ってしまったので、ユナはやれやれと肩をすくめて千円札を一枚放り入れた。
さて気を取り直せば、短いエスカレーターが左右に二つ。ずらりと人が並んで列を作っている。それに乗ると改札はすぐそこである。
楽しい休みも終わりか、と若干の名残惜しさを覚えつつ、ユナはユウに微笑みかけた。
「一緒に遊べなかった分、帰ったらお父さんには美味しいものいっぱい食べてもらおうね」
「そうだね」
「デパ地下で総菜色々買って来たからな。ま、たまには楽するのもいいでしょ」
「わーいやったー!」
いかな完璧超人に思える彼女にも、一つだけ致命的な欠点があった。彼女はとことん料理ができないのである。
とても人間には食えたものでないほど凄まじく不味いので、ユウも(そして間違いなくシュウも)大喜びであった。
なお、母親を反面教師として、後にユウは料理だけは上手くなろうと腕を磨くのだが、それはまた別の話。
「あら、そんな大喜びするほど? お母さんの愛情手料理はおあずけってことなんだけどねえ」
「あっ。そ、そっかぁ。ざ、ざんねんだなあ、あはは……」
引きつった笑みに何かを感じないでもなかったが、まさか自分の料理の腕のせいとは思わなかったので(彼女は何でも自信があるタイプなのだ)、ユナは少し首を傾げるだけで追求はしなかった。
そんなことを言い合っているうちに、もうエスカレーターの終端に到達した。「転ばないようにね」と優しく呼びかけながら、ユナはユウの手を引いて上がる。
数メートル先には改札が横一列に並んでおり、整然とした流れで人が歩み進んでいる。
「ん?」
そのときだ。
ユナの超野性的な勘が、何かを察知する。
わからない。わからないが……。
ふと嫌な感じがして、足を止める。ユウの手を握る彼女の手は、いつの間にか強張っていた。
背中がひりつくような感覚。
ユナは思う。一切の根拠はないが、こういうときは素直に直感に従うことで何度も命拾いしてきたものだ。
普通、こんな平和な日本で感じるようなものではないのだが、と違和感を覚えつつ。
「おかあさん?」
突然立ち止まった母にきょとんとしているユウを見もせず、しかし手はしっかりと握ったまま、違和感の正体を探ろうとして――。
何かが――風!?
「危ない!」
彼女の判断はすこぶる早かった。惣菜がたっぷり入った袋など簡単に放り捨てる。
ユウをしかと胸に抱き留め、入り口の直線状から逸れる方向へ思い切り横っ飛びした。
空中でくるりと一回転。立幅飛びとしては、かくや世界記録すら凌ぐのではというほど素晴らしい高さと勢いであったが、それが人の注目を浴びることはなかった。
直後、轟音とともに、改札が内側から吹き飛んだからである。
二人の立っていたまさにその地点には、今や強烈な爆風が叩き付けられていた。異変に気付けなかった二人を除く人々は、なすすべもなく巻き込まれて、吹き飛ばされる。
時が凍り付いたような動揺が走り――直後に訪れたのはパニックだった。
あちこちで悲鳴が上がり、我先にと、わけもわからず、駅から離れる方向に人々は逃げ惑う。
ユナは、小さなユウが人の波に潰されないよう守り抱えながら、どうにかこうにか歩道の端へ抜け出した。
「くそったれ。何がどうなってんだ!」
もうもうと爆炎を上げる改札口の方向を睨み付けながら、ユナは吠える。
いつ何が起きても動けるよう、全身の気を張り詰めて。
対照的に、ユウは息も絶え絶えになって、苦しげに胸を抑えていた。
「はぁ……はぁ……!」
「ユウ!? どうしたの? 大丈夫!?」
我が子の異変に気付いたユナは、戦士から母親の顔に引き戻される。
怪我をさせてしまったのかと訝しんだが、どうもそうではない。擦り傷一つ負ってはいなかったが、まるで発作でも起きたように息を荒げている。
ユウは泣いていた。
「ぇぐ、うぇっぷ……!」
苦しさに耐え切れず、胃のものをすべて吐き出して。それでもまったく収まらない。いつものようにわんわん喚くことさえできず、ただうずくまってぽろぽろと涙を流している。
「ユウ、ユウ!? どこが痛いの? お母さんに言ってみて!」
「な……るの……」
「え?」
「いっぱい、ないてるの。いたいって、くるしいって。たすけてって。こえが、きこえて、きえていくの……」
「ユウ……」
ユナは、子の身の心配と同じくらい、いたたまれない気持ちになった。
思えば、この子には不思議なところがあった。
どこかで泣いてると言っては、捨てられた犬や猫を拾ってきたり、怪我している子を見つけたり、自殺しそうな人を呼び止めたり。
優し過ぎるからなのか、本当に特別な力があるからなのかはわからない。
ユウには――この子には、痛みというものがわかるらしい。
だとしたら。今このとき、どれほどの人間が――彼らが傷付き、死に行く痛みを一身に感じているとしたら、いったいどれほどの――。
そこへ思い至り、ユナもまた泣きそうになっていた。肩をさすってやる以上にどうすることもできない自分が悔しく、もどかしい。
なのにだ。なんということだろうか。
自分がいっぱい苦しんでいるはずなのに。ユウは母の袖をぎゅっと掴んで、こう言ったのだ。
「おかあ、さん……」
「なに。ユウ」
「おね、がい。おれのことは……っ……いいから……たすけて、あげて。おねがい」
ユナは心打たれ、動揺したが、しかし口の端を固く結んで堪えた。
「……ごめんね。お母さんにだって、できることとできないことがあるんだよ。火に向かって飛び込んでいくのは、消防士さんの仕事だ」
「でも……っ……おかあさん、なら……」
それ以上答える代わりに、ユナはユウを強く抱きしめた。
彼女の中で苦しい思考が巡る。
確かに自分の優れた身体能力なら、燃え盛る火の中飛び込んで、一人二人くらいなら救い出せるかもしれない。
だがそうした英雄的行為は、大局には何ら影響を与えない。助けられない人の方が、あまりにも多い。
その蛮勇と引き換えになるものは何だ。言うまでもない。我が子の身の安全だ。
混乱極まるこの場に、犯人も近くに潜んでいるかもしれないのに、苦しむこの子を捨て置いてなど行けない。
そんなことは、断じて母親のすることではないのだ……!
「ごめんな。ユウ。私は……ユウが一番大事なんだ。だから行けない。ごめんね」
「……おかあさんも、ないてる……。いたいの……?」
ユナは泣く子の手前、決して己は涙を流してはいなかった。だが深い葛藤と、心の痛みをユウはまた感じ取ったのだろう。
ユウは苦しい表情のまま、それでも小さな手を必死に伸ばして、母親の頬に触れていた。よく自分がそうあやしてもらっていたように、大好きな母を慰めたくて。
愛する子の懸命の思いやりを確かに受け取ったユナは、ただ抱擁を強めることでそれに応えた。
間もなく、そのときはきた。
『非能力者人民諸君。私はトレイターという。我々はTSPによるTSPのための集団、トランセンデントガーデン(TSG)である』
「なに!?」
ユナがはっとして顔を上げると、新宿駅の大型ビジョンには、「TSG」の三文字がでかでかと映し出されている。
そして一連の演説がなされた。
テロ組織の首領、トレイターによる犯行声明――人間社会への宣戦布告。
すべてを聞き終えたとき、彼女の中にふつふつと湧き上がる激情があった。
「なるほどねえ。御託は立派。だがやり方が気に入らない」
「おかあさん……?」
一児の母がしてはいけない獰猛な笑みを浮かべた彼女を前に、ユウは「またはじまっちゃった?」と思いながら、(抱き締められてて物理的に引けないので、せめて)気持ちの上で一歩引きつつ、固唾を飲んで彼女を見つめている。
そんなユウの頭をぽんと叩いて、
「TSG――上等じゃないか」
既に真っ暗になったモニターに向かって、ユナは吼えた。
「うちの可愛いユウを散々泣かせやがって。この落とし前、百倍増しで付けてやる!」
ここに、地上最強の主婦が立ち上がった。




