271「生き死によりも大切なもの」
視界の果てのさらに向こうまで激闘の痕が広がる荒野で、ヴィッターヴァイツは立ち尽くしていた。
相手の意識が完全に途絶えると、ガシャンと音を立てて聖剣の柄が落ちた。
彼を貫いていた刃は消え失せ、それはもはや何らの光も湛えてはいなかった。
彼の拳が貫いていたものが、引き抜かれる。
死力を尽くして彼に挑んだ人間――ユウは力なく大地に放り出された。
全身に傷を負い、右腕は吹き飛び、両肩と腹部には風穴が開いている。
生命を維持することは到底不可能な傷だった。
向こうを見やれば。
ハルもまた身体中いたるところずたずたに引き裂かれ、さらに半身は彼の光線によって消し飛んでいた。
どうだ。無謀にも人がフェバルに挑んだ結果がこれだ。
奇跡的にも互角に近く渡り合ってみせたが、やはり万に一つも勝てるはずがないのだ。
当然の結末だった。
ヴィッターヴァイツはそうやって、笑い飛ばしてやろうとしたが。
だが代わりに出てきたものは――涙だった。
「ユウ。貴様……一体何をしてくれやがった!」
彼は自分をそうさせた男を睨んだ。
――笑っていやがる。
今まさに死に行くというのに、なんと安らかな顔をしているものか!
なぜだ。
ヴィッターヴァイツは、ユウの剣に貫かれたはずの腹部をさする。
そこにあってしかるべき致命傷がない。あの攻撃で「肉体は」何も傷付いていない。
皆目わからなかった。
なぜオレの命を絶たなかった。
なぜ相打ちにできたはずなのにそうしなかった。なぜ!
人がフェバルに情けをかけるなど!
無性に苛立って仕方がない。
八つ当たりにユウを消し飛ばしてしまおうと思った。
だが手をかざすも、それ以上は一向に身体が動こうとしなかった。
まるでこいつに戦う意志を折られてしまったかのように。実際そうなのだろう。
あのとき、ユウはヴィッターヴァイツの肉体を斬ったのではなかった。
だが代わりにもっと奥深い、大切なものを斬ってしまったに違いないのだ。
でなければ、なぜこんなことになっているのか。
涙が止まらない。
今まで目を背けてきた色々なことが。これまでしでかしてきた幾多の罪が。
絶望に麻痺していたはずの心にありありと思い起こされて、散々に彼を打ちのめすのだ。
もはや一切動く気になれなかった。
重力に身を任せるがまま、彼は地に五体を投げ出した。
幾多の傷に加え、片腕は半ばまで斬られ、心臓と肺は銃に貫かれているのだ。
フェバルの生まれ持ったスペックに加え、修行を重ねた強靭な肉体なればこそ死なずに済んでいたが。
彼自身、とっくに限界など超えていたのである。
***
ヴィッターヴァイツが倒れ込むとまもなく、二人の人間が戦いの舞台へやってきた。
アニエスとJ.C.である。
決着のタイミングを見計らい、駆けつけに来たのだった。
二人は大慌てでユウとハルを探した。
早くしなければ手遅れになってしまう。いやもう手遅れかもしれないとも考えていた。
ヴィッターヴァイツが二人を完全消滅させていないことを祈っていた。
まもなく目当ての二人を見つけると、まだ完全には死に切っていない肉体が残っていることに一安心する。
アニエスの時空魔法とJ.C.の【生命帰還】の組み合わせによって、たちまち復活治療してしまった。
アニエスは気を失っているユウとハルを連れ、落ちていた聖剣の柄を回収してから、転移魔法で去っていった。
一人残ったJ.C.は、仰向けに倒れるヴィッターヴァイツの下へ向かった。
逃げも隠れもできず、打ちのめされた今なら。腹を割って話ができるだろうと考えていた。
「姉貴か……」
ヴィッターヴァイツは、己が大の字に倒れる姿を見られるのが情けなくて、顔を背ける。
さすがに泣いているところを見られるわけにいかない。
二人が来たことに気付いてからは無理に涙を止めていた。それが精一杯の抵抗だった。
そんな彼の心情がよく理解できた彼女は、ただ静かに彼を見つめていた。
そして穏やかに声をかける。
こうして顔を突き合わせるまでは説教の一つでもしようかと思っていたが、打ちひしがれている彼に対してそんな気分にはなれなかった。
「随分こっぴどくやられたものね」
「…………」
「強かったでしょう。あの二人」
「……ああ」
ぽつりと漏れた一言から、師弟の会話は始まった。
J.C.の言うのは単純な強さの話ではないと、ヴィッターヴァイツもさすがに理解していた。
何しろ二人揃いも揃って。何度叩きのめしても、何度力の差を見せ付けても。
本当に息絶えるそのときまで、死ぬ物狂いでかかってきたのだ。
それも捨て鉢の類ではない。どこまでも勝算を追い求めながら、いざというときの覚悟を決めた人間の戦いだった。
死すら覚悟できたのは、姉貴の能力を考慮に入れてのことだったのかもしれない。
だがこのレベルの戦いで、敗者が肉体を残すことの方が難しい。
彼自身、姉貴の能力は知っているのだから。奴らが敗北したならば、わざわざ死体を残してやるつもりなどなかった。
フェバルであるユウは完全には殺せないが、ハルとやらを今度こそ完全に亡き者とし、無謀にも己に挑んだ代償を奴に与えてやるつもりだった。
まずそうすることも二人はわかっていたはずだ。
奴ら、死を賭してこのヴィッターヴァイツに――。
フェバル相手に人のまま、最後まで互角に戦い抜いたのだ。
強かった。恐ろしい敵だった。
戦いの最中は決して認めるわけにはいかなかったが、今は素直にそう思う。
いつになく殊勝な態度のヴィッターヴァイツに。
これならまともに話ができそうだと安心したJ.C.は、ふっと微笑んだ。
その微笑みは彼に向けたものというよりも、バカな戦い方をしたあの二人に呆れたものだったが。
「ねえヴィット。あの二人ね。本当はもっと上手く、優位に戦えたのよ」
「何だと……?」
聞き捨てならない言葉だった。
互いに死力を尽くした結果だと信じていたから、ショックだった。
仮に手を抜いてあんな結末になってしまったのならば、許せない。許せるはずがない。
勝つにしても負けるにしても。この戦いは全力をもってやるのだと、暗黙の了解をしていたのではないか。
だがそれは誤解だった。
「ユウは……あの子はその気になれば、『心の世界』に私たちの技を溜め込んでおけたの。それも数回分くらいはね」
J.C.の台詞に、ヴィッターヴァイツははっとする。
レンクスの攻撃、ジルフの剣技、エーナの魔法、それに姉貴の回復能力。
いずれも彼をして侮れぬ力だ。
特に姉貴の力を使われた場合、こちらだけ大怪我した状態で、相手にだけ一方的に全回復されてしまう。
そうなれば、果たして最後に立っているのはどちらであっただろうか。
いくら気持ちの上では負けぬと自負があっても、回復がなくてこの結果であることを鑑みるに。
現実、厳しいのは明らかだった。
「どうしてそうしなかったと思う?」
ヴィッターヴァイツにはもう、その理由がわかっていた。
だがそれらは――。
それらはすべて、フェバルの力なのだ。
「それはルール違反だから。もしフェバルの力を使って勝てたとしても、それでは意味がないんだ。本当の意味で勝ったことにはならないんだって。ハルちゃんも納得してね。ユウはわざわざフェバルの力を全部投げ捨てて、あなたに挑んだのよ」
「馬鹿な」
「……バカよね。本当に強情よね。二人とも。あんなになるまで……」
J.C.の目から、ぽろりと涙が零れた。
あっさり助かったように思えるが、アニエスと自分の二人がいなければ確実に死んでいたのだ。
見つけたとき、言葉を失ってしまうほど壮絶な状態だった。
いや、一度は死んだと言っても過言ではない。息の根は完全に止まっていた。
ハルにいたっては二度目だ。
それをやったのは、他ならないヴィッターヴァイツである。
彼は罪悪感から、そんな彼女を見ていることができなかった。
――罪悪感だと。
いつの間にそんなものを思い出していたのだ、と疑問に感じながら。
ややあって、落ち着いた彼女が続きを話し始める。
二人がいかにして彼に挑んだのかを。
彼を撃ち抜いた魔力銃ハートレイルとやらも、使用を躊躇っていたらしい。
フェバル由来の武器だからとか。
結局あいつの母の形見であり、あくまで人間の使う武器だからということで、使うことに決めたらしいが。
そうした経緯を聞き及び、ヴィッターヴァイツはただ呆れるしかなかった。
だってそうだろう。
圧倒的弱者なのだ。あらゆる手段を使って当然ではないか。
仮にフェバルの技を借り受けて使ったとしても、反則と咎めるほど己の器は小さくないつもりだった。
それを馬鹿正直に。本当に人の力だけを寄せ集めて挑んだというのか!
あくまで人のままフェバルに勝ってやると。どこまでも真っ直ぐに意志を貫いて!
思わず笑い飛ばしたくなってしまうほど、痛快なことだった。
してやられたのは、まさに自分自身だというのに。
「ヴィット。あなた、人間に負けたのよ」
「……ああ。そう、だな」
最後にどちらが立っていたなどという、小さな次元の話ではない。
「そうだ」
もう一度、噛み締めるように呟いた。
生き死によりも大切なもののために、二人は戦っていたのだ。
結果命を散らすことになろうとも。
二人は人間の尊厳と価値のため敢然と立ち向かい、そして示したのだ。
対してオレは……。
フェバルとしての自負をへし折られ、心を砕かれ。
こうして打ちひしがれている。
――完敗だ。ぐうの音の出ないほどの完敗だ。
ヴィッターヴァイツは、力なく天を仰いだ。
負けたというのに、不思議と清々しい気分だった。
最後の最後まで人のまま向き合ってくれたことを、心から喜ぶ自分に気付いてしまった。
――そうだったな。
【支配】に呪われてから、久しく忘れていた。
オレは――人でありたかったのだ。
もしかしたら、フェバルが人間に負けることを一番望んでいたのは、自分かもしれなかった。




