242「それでも君が願うから」
奴が。ヴィッターヴァイツが幾分畏れを交えながら、戦闘者の歓びに肩を震わせた。
「くっ……そうだ。それでいい。その力だ……。良い面構えじゃないか。さあ、オレを愉しませ――」
奴がまったく反応できない速度で、アッパーを打ち込む。
たたらを踏む奴が次の行動に移る前に、もう一度腹を拳で撃ち抜いた。
背中がくの字に曲がるほどの衝撃が奴に走る。
膝をつき、吐血するヴィッターヴァイツの胸倉を掴み上げて。
俺は言った。
「満足か?」
「ぐ……!」
返事を聞くよりも早く、高く留まった鼻柱を殴り付け。壁に向かって力任せに投げ付ける。
立ち上がる奴を睨み付けて、もう一度言う。
「これで満足か?」
「き……貴様あああっ!」
奴はすっかり余裕をなくし、ぶち切れていた。
《剛体術》のオーラを纏い、殴り掛かってくる。
「…………」
そのまま言葉を返そう。動きが止まって見えるのはお前の方だ。
完全に見切って紙一枚でかわすと、攻撃の勢いを逆用して、後頭部に浴びせ蹴りを見舞う。
床へ痛烈に叩き付けた。
ダイラー星系列による防御を威力で上回ったのか、床が抜けて俺たちは階下に落下する。
落下中にも追撃の手は止めない。
背中の急所へ蹴りを叩き込む。
顔面から下の床に激突した奴がバウンドした瞬間に、横面をぶん殴る。
奴が吹っ飛ぶより速く先回りした俺は、顔をわし掴みにして、壁に思い切り叩き付けた。
手を放し、ずり落ちて仰向けに倒れた奴の上に座り込み。
首を絞める。
「やられる側になった気持ちはどうだ。どれほど痛いのか。苦しいのか。味わってみろよ」
気の済むまで首を絞めた俺は――殴った。
馬乗りになったまま。執拗に腹を――同じ個所を殴り続けた。
こいつがハルを貫いたその場所を。少しでも同じ痛みを味わわせるために。
何度も。何度も。繰り返し。
際限なく。拳を振り下ろす。
やがて身体の異変に気が付く。
どうやら俺はたとえオーラが変質しても、肉体は普通の人間のものに過ぎなかったらしい。
副作用が現れる。
殴り続ける俺の左腕が自分の攻撃の威力に耐え切れず、自壊していく。
ついに使い物にならなくなったので、右腕に切り替えて殴り続けた。
だが何の痛みも感じない。冷たい。
心が冷えていく。
「何が力だ。これがお前の言う真実か? こんなものが。こんなものが正しいものであってたまるか」
苦痛に顔を歪めながら必死に防御を続ける奴のオーラが徐々に薄くなり、抵抗する力も弱々しくなっていく。
このまま殺してしまおう。いや――ただ一度殺すのでは生温い。
お前のような奴は、生きる価値がない。
またお前の心が壊れるまで。何度でも。殺す。
忘れたなら、もう一度お前の魂に恐怖を刻み込んでやる。
地獄の底へ送ってやる。
「それが……ハルを殺した、お前への――!」
『ユウくん』
違うよ。キミは――。
ハルの名を呼んだとき。
彼女の声が聞こえた気がした。心の声が。
気のせい――じゃない。
ああ。わかった。繋がっている俺には、よくわかった。
命の灯が消えゆく中、最後の力を振り絞って届けてくれた。
彼女のメッセージだと。
君は……こんなときまで、俺のことを……。
「う、う、うう……!」
振り下ろす拳に、迷いが生じる。
視界が滲む。
熱い雫が零れ落ちて、拳を濡らした。
「ハル。あ、ああ。ハル……!」
馬鹿だ。俺は、馬鹿だ……!
一番大切なことを忘れてしまうところだった。
一番大切なものを捨ててしまうところだった。
君は……君は、ずっと願っていたじゃないか。
俺がこんな戦い方をしてはいけない。こんなのは俺の力の使い方じゃないって。
みんな言っていたのに。俺もわかっていたはずなのに!
俺は――憎い。
死ぬほど憎い。こいつが憎い。
それでも……ダメだ。
これじゃいけない。こんなやり方ではいけない。
君が望むのは、君が好きなのは。こんな俺じゃない……。
だから、俺は……俺は……!
涙を流しながら、ヴィッターヴァイツに掴みかかり、揺さぶる。
――そのとき、気付いた。
俺が相手しているものの本質に。恐るべき負の感情に。
絶望。
こいつは、あらゆることに絶望している。
なぜ。混乱する。
突然降ってきた感情が理解できない。
激しい怒りは、勝手に口から言葉を紡ぎ出す。
「ヴィッターヴァイツ! お前……! この野郎! この、野郎……! よくも! よくも!」
「ユウ。貴様……。何を子供のように泣いている?」
俺の変質に、この男はかえって戸惑い。深く失望しているように見えた。
「うるさい! 俺はっ! 怒っているんだ!」
「オレが憎いのだろう? オレを殺したいのだろう? そのふざけた顔はなんだ!? あまりオレを愚弄するなッ! 真面目に戦え!」
「黙れ! 黙れ! 大真面目だ! これが俺の全力だ! お前を許すものか! 返せよ! ハルを返せっ!」
突き上げた奴の拳が、俺を弾き飛ばした。
立場が逆転し。
血反吐を吐いた俺は、ダメージでがたつく身体を辛うじて立ち上がらせる。
「その目……。さっきの力はどうした。何なのだ貴様……。ふざけやがって! オレが憎いのではなかったのか?」
「そうだ。俺は……憎いよ。お前が憎い。殺したいほど憎いさ!」
「そうだろう! ならば力を尽くせ! オレと戦えッ!」
傷だらけの奴は怒っていた。
このままではプライドの名折れ。勝ち逃げは許さんと目を血走らせていた。
でも俺は。もう使わない。使うわけにはいかない。
「嫌だ! それでもハルが願うから……! 俺は……俺は! お前と同じにはならない!」
「救えない馬鹿め。あくまでも人であろうと。いつまでもその下らないごっこ遊びを続けるつもりか!?」
「……なあ。ヴィッターヴァイツ。何をそんなに狼狽えているんだ」
「なに……?」
殊の外動揺した奴に、俺は先ほど受け取った違和感をぶつける。
「俺が人であろうとすることの、何がそんなに気に入らない?」
「戯言を。オレが狼狽えているだと? そんな筈がなかろう」
「いいや。お前は絶望しているんだ。フェバルの運命に。お前を絶望させたものは何だ。言ってみろ!」
「……知ったようなことを。貴様にオレの何がわかる! 少しばかり人の心が読めるくらいで良い気になるなよ。小僧!」
暴力の嵐が俺を襲った。
俺はなすすべもなく打ちのめされ、膝を屈した。
生きているのが不思議なほどのひどい状態だ。
そんな俺に奴は吠える。
「常人ならばとっくに死んでいるはずのダメージを受けている。【支配】も効かん。それは貴様がフェバルだからだ! 貴様が同じ化け物だからだ! 違うか!?」
「ああ。認めるよ。確かに俺はフェバルだ。フェバルの力がなければ、お前の前に立つこともできなかっただろうさ。でもな」
ヴィッターヴァイツの目を真っ直ぐ睨んで。
俺は精一杯の啖呵を切った。
「その前に俺は人間だ! 俺は人と交わるフェバルだ! 人の絆を力に変えるフェバル、星海 ユウだ!」
「貴様……」
「たとえこの場で身を滅ぼされようと。お前には屈しない。お前の言う通りにはならない。いつか人のままで、お前に勝ってみせる!」
よくわかった。
そうでなければ意味がない。ただこの男を上回る力で勝っても意味がない。
俺があの黒い力を使ってお前に勝つこと。それはお前の価値観の肯定になってしまう。
この男に真の意味で勝つには、人の力を――絆の力を示さなければダメなんだ。
理不尽な暴力に、立ち向かう人の意志を。
力に変えて。叩きつけなければならないんだ。
ハルの信じる力で。君の信じる力で。俺はお前たちに届いてみせる!
「よくもそんな世迷い言を言えたものだな。そんなことができると、本気で考えているのか?」
「できるさ。やるんだ」
ヴィッターヴァイツは目を見開き、心底失望したようだった。
「……やはり貴様はどうしようもない甘ったれだ。フェバルになり切れぬ半端者よ」
「甘さと中途半端さには自信があるんでね」
「一人では足りないというならば。貴様が心折れるまで。絶望するまで。何度でも現実を教えてやろう!」
「これ以上はさせるかよ」
「人間の貴様に止めることなど不可能だ。もういい。興が冷めた。死ねいっ!」
ヴィッターヴァイツの拳が迫る。
今度こそ容赦なく、その一撃は確実に俺を死に至らしめるだろう。
悔しいが、この場は負けだ。
でもせめてこの想いだけは、しっかりと胸に抱えて――。
「やめなさい! ヴィット!」
「姉貴……ッ!?」
ヴィッターヴァイツの肩が跳ねる。
奴を止めたのは、一人の女性だった。




