201「J.C.と目覚めた少女」
ここは……。
目が開いたとき、視界に入ったのは。
私を心配するように覗き込む、一人の女性の顔。
それから、どこまでも広がる闇だった。
ここがまったく新しい世界ではなく、アルトサイドであることを示唆していた。
どうしてここに……? 私は……。
――そうだ。
私はあのとき、ウィルにやられて……。
恐る恐る胸に手を当ててみたけれど、空いているはずの穴は塞がっていた。
それに不思議と頭はすっきりしている。身体に力が入らないということもない。
「大丈夫?」
声をかけてきた女性に、すぐ答えることはできなかった。
直ちにあのときのことが、フラッシュバックしてきたからだ。
ユウが泣いてた。
実際は泣いてなくても、心が泣いてた。
私の大好きな優しいユウが、遠ざかっていって。
怖いユウが。あの黒い力が……。
必死に止めようとしたけれど、声も届かなくて。
薄れゆく意識の中、レンクスが必死で呼びかけてくれていたことは覚えている。
でもそれに答えることもできなくて。
ユウを止められなかった。レンクスの声に答えることも。
助かった安堵よりも、二人のことを想うと心が痛かった。
そして、私がこの薄暗闇の世界にいるという事実。
ユウやみんなが側にいないという事実。
あれから世界は……。
ああ……!
どれほどのことが起きたのか、薄々理解してしまったの。
『ユウ! ユウ!』
必死に呼びかける。
『お願い! 返事をして! ユウ!』
何度も何度も。
でも返事は来ない。心の声は届かない。
どうして。どうして届かないの!?
伝えたかった。
私はちゃんとここにいるよって。生きてるよって。
大丈夫だよって言って、抱き締めてあげたかった。
いくら呼びかけても返事がないことで、心の繋がりが切れてしまっているのだと悟る。
ユウは私が死んでしまったと思っているに違いない。
もしかしたら、もう二度と会えないのではないかとすら思っているかもしれない。
私はユウと違って、能力によって生み出された存在。オリジナルのフェバルじゃないから……。
だとしたら! どれほど辛いことなのか!
ユウがどれほど私を大切に思っているかは、ずっとあの子の心に触れてきた私が一番よくわかってる。
身を引き裂かれてしまったような思いだろう。私がそうであるように。
どれほどの悲しみが、絶望が。ユウを襲っているのか。
もしあの黒い力に呑まれてしまったのだとしたら……!
そのことに思い至ったとき、零れてきたのは涙だった。
漏れてしまったのは、嗚咽の声だった。
名前も知らない女性は、黙って胸を貸してくれていた。
その行為に感謝する余裕もなくて。
私は、最後まで隣にいられなかった自分の無力を――。
そして独り残されたユウを想って、泣き続けた。
どれほど泣いていただろう。いつまでもそうしているわけにはいかなくて。
ううん。泣いている場合じゃない。本当はわかってる。
私はユウと違って、ユウが生きてることを知っている。
何があったのかはわからないけれど、今私は生きているのだから。
またきっとユウに会えるのだから。
いや、何としても会わなくちゃいけない。隣に戻らなくちゃいけない。
もしユウが深い闇に堕ちようとしているのだとしたら、救い出してあげなくちゃ。
もしユウが寂しさに凍えているなら、温めてあげなくちゃ!
決意が固まると、涙は止んでいた。
それを待っていたかのように、私の涙を受け止めていた女性は口を開いた。
「落ち着いたかしら。よほど辛いことがあったようね」
「すみません。たぶんあなたが助けてくれたんですよね?」
「ええまあね。あなた、ほとんど死んでたのよ?」
「本当にありがとうございます」
あのときの私の状態は、自分が一番よくわかっていた。
絶対に助からないはずだった。レンクスでさえ私を救うことを諦めていた。
それを救ってくれたこの人は……間違いなくただ者じゃない。
私たちと同じ、フェバルか何か。
私のお礼を受け取った彼女は嬉しそうに頷き、それから申し訳なさそうに尋ねてきた。
「ところで、いきなりで悪いのだけれど。あなたの名前を知りたいの」
「あ、はい」
「よく知っている人と妙に似ていてね。懐かしくて。それでつい助けちゃったのよ」
「そうなんですか。私、ユイです。星海 ユイ。この世界だとかなり変わった名前なんですけど」
「星海……まさかね」
目を伏せて思い詰めたような素振りを見せた女性は、ぽつりとその名を口にした。
「星海 ユナ、という女性を知っているかしら」
今が大変なことも、一瞬忘れてしまうくらい驚いた。
「え。お母さんを知ってるんですか!?」
「おか……!? まあ!」
お母さんと私の関係性に気付いたこの人は、私の顔をまじまじと見つめて。
柔らかな微笑みを浮かべた。
「そう。道理でよく似ていると思ったわ。初めて会ったときのユナにそっくりだもの」
「お母さんの知り合いだったんですね」
「親友というか、恩人というか? まあとにかく色々と振り回してくれた人だったわね」
だったという言葉。
懐かしむように目を細める姿を見て、この人はお母さんがもういないことを知っているのだと悟った。
それから彼女は、私にいたずらっぽい笑みを見せつつ言った。
「あなたのお母さんは、決してあなたみたいにえんえん泣いたりはしなかったけれどね」
「う……。私はお母さんみたいに強くはないですから……」
知らない他人に身を任せて泣き喚いてしまうほど、追い詰められていた自分が。
急に恥ずかしくなってくる。
「でも変ねえ。甘えん坊で手を焼く子だとは言ってたけれど……。男の子だって聞いたんだけど」
「えっと……。そこはまあ色々ありまして」
お母さんをこんなに懐かしい目で語る人に、悪意は感じられなかった。
何より私の命の恩人でもあることだし、私はこの人を信用して色々と話してしまうことにした。
ずっと腕の内に抱かれているのは問題なので、立ち上がり歩きながら会話を続ける。
「なるほど。ユウと二人に分かれて……今はあなたが姉というわけね」
「はい。すごく手がかかりますけど、甘えん坊で可愛い弟ですよ」
「そっかあ。しかしあの化け物女から、こんな子たちが生まれ育つなんてね。わからないものね」
肩を引き寄せられて、頭をわしゃわしゃと撫でられてしまった。
ユウやレンクスのような男の人にされるのとはまた違う、けど優しくて温かい感じ。
私の人となりを知ってからは、まるで親戚のお姉さんのように親しげに接してくれる。
「それにしてもあの子め。知ってて黙ってたわけね」
「あの子?」
「ふふ。今のあなたにはまだ関係のない話よ」
首を傾げる私に、意味ありげな微笑みで誤魔化されてしまった。
追及しようとしてもはぐらかされそうだったので、諦めるしかないだろう。
「あ。そう言えば、まだお名前伺ってませんでした」
「名前も知らない人に色々話してしまってよかったのかしら」
「私たちは人の心がある程度肌で感じられるんです。悪意や害意はないので信じることにしました」
万能じゃないからこればかりに頼るのも問題だけど、基本的に人は信じていたいスタンスだ。
ユウもきっと信じるでしょう。
心を抜きにしても、お母さんのことをこんなに温かい目で話す人は信じたい。
「へえ。それはすごい能力ね。極めればとんでもないことになるかもね」
「あはは。今は何となく感じるだけなんですけどね」
リルナさんみたいによほどシンクロ率が高くならないと、相手の考えていることまでは読めない。
今のところは気力感知・魔力感知の補助や、敵になりそうな人物とならなさそうな人物の判定くらいにしか使えない。
それでもだいぶ重宝はしてるのだけど。
「私はJ.C.よ」
「ジェイシーさんですか?」
でもジェイシーさんって言う割には、イントネーションがもろにアルファベットっぽいような……。
そんな私の引っかかりに気付いたのだろう。
ジェイシーさんは考える私の肩を叩いて注意を引き、指先で光文字を描いた。
「こう書くのよ」
そこにははっきりと、英語のイニシャルで「J.C.」と書かれていた。
「これって……アルファベット、ですよね? 地球の」
私の驚きに対し、ジェイシー改めJ.C.さんは得心がいったように頷いた。
「やっぱりそうなのね。実は昔、名前がないって言ったら。あなたのお母さんに付けてもらった名前なのよ」
「まさかのお母さん名付け親!?」
「ええ。『よし。じゃあ今からあんたはJ.C.だ』って一声で決定」
「そんなのでよかったんですか!?」
びっくりしきりの私に対し、困ったような曖昧な表情で首肯するJ.C.さん。
「私もそのときは名前をもらえたこと自体が嬉しかったから、あまり気にしなかったのだけどね。だんだん由来が気になってきちゃって。あいつに聞いても笑ってはぐらかされるし、ただ地球の文字だって聞いてたから。あなただったら意味わかるかしら?」
「うーん」
J.C.。女子中学……まさか違うよね。いかにも妙齢のお姉さん風味だし。
J.C.……J.C.……何の略かな。そもそも略なのかな。
あ……ごめん。私わかっちゃったかも。
気が付くと、どんどん申し訳ない気持ちになってくる。
もう。なんてことしてくれたの! お母さん!
私の表情から、何かに気付いたと察したのだろう。
答えを待って見つめるJ.C.さんの視線に耐え切れず、私は恐る恐る口を開いた。
「その……すみません」
「なに。何かわかったの!?」
J.C.さんは思った以上の勢いで身を乗り出してきた。
本当に申し訳ないと思いながら、私なりの推測――というか、ほぼ間違いのない答えを口にする。
「それ、特に深い意味はないです。たぶん」
「えっ」
ここまで柔らかな表情を浮かべていたJ.C.さんの顔が、そのまま固まりついた。
「たぶんコードネームっぽいからとかで、ノリで付けちゃったんだと思います」
「ノリで」
「はい。ノリで」
私の中に宿るお母さんマインドが、その答えを示していた。
自分の組織にQWERTYなんて適当な名前付けちゃう人だもんね。お母さん。
むしろユウにちゃんとユウって素敵な意味のある名前を付けてくれた方が、よっぽど珍しいと思う。
積年の謎に対し、あわれしょうもない真実を突きつけられてしまったJ.C.さんは。
ふるふると肩を震わせていた。
まったく意味のない名前で何万年どころじゃない年月を生きてきたのかと思うと、なんて声をかけたらいいのかわからない。
ただどうしようもない母に代わって、謝罪するしかなかった。
「えっと……。本当にどうしようもない母ですみません」
「……いいの。わかってたのよ。あの人のことだから、どうせそんなこともあるだろうってね」
J.C.さんは、すーっと大きく息を吸い込んで。何度か深呼吸して。
そして叫んだ。
「あの女あああああああ! 人の名前を何だと思ってるのよおおおおおーーーー!」
薄暗闇の世界に、やり場のない絶叫が響き渡ったのだった。




