190「闇に潜むナイトメアの恐怖」
アルトサイドは映像で見た通り、ほとんど真っ暗で何もない場所だった。
とても寂しくて冷たい感じのするところだ。
改めて『心の世界』によく似ているような気がした。あそこも基本は真っ暗で何もないところだからね。
俺が入ってきた穴は、相変わらず俺を吐き出そうとしていたが。
やがて勢いがなくなり、閉じてしまった。これで前に進むしかなくなった。
周囲を警戒しながら進んでいく。
見た目の印象は暗くて冷たいところだが、実際は温かくもなく寒くもない。まるで温度感覚自体がなくなったようだった。
そして何も目印がないために、俺みたいな完全記憶持ちでなければ、すぐに時間感覚もなくなってしまいそうだなと思う。
ずっと何かの気配がないかと探ってはいるものの、今のところ探知に引っかかるものはない。
歩きながら、ここで出せる実力についても確かめておく。
試しに作り出した気剣に漲る力から推測するに、おそらくはラナソールと同等の実力を出せそうだということがわかった。
完全記憶能力によると、およそ半日は歩いただろうか。
次第に俺は、自分の身体に異変が起きていることに気付いた。
見た目上の変化はない。
だがどうやらまったく眠くならないし、お腹も空かないようなのだ。
時間感覚がなくなるというより、もはや時間そのものが止まっているようにしか思えなかった。
やっぱり『心の世界』によく似ている。
あの世界も時間の流れが現実とは違う。
中に入れたものの時間を止めて、そのまま保存してしまうことも可能だ。
やっぱり普通の意味での世界と呼べるものじゃないな。
俺のような特殊能力によって、生じているものなのかもしれない。
ん……? 何かが近づいてくる。
警戒を強めつつ歩み続けていると、禍々しい物体が近付いてきた。
あれは……闇の化け物だ!
それも映像で見たやつとは違う。
あの四つん這いの気味が悪いつぎはぎの奴じゃなくて、すごくシンプルな造形――巨大な球体だ。
ほぼ同時に向こうも俺の存在に気付いたようで、おぞましい金切り声を上げた。
あの、まるで世界のすべてを恨むような……。
口もないし、どこから声を上げているのかもわからないけど。
あまりに不快で耳を突き刺すような音に、たまらず耳を塞いでしまう。
そのせいで、気剣を作り出すのが数瞬ばかり遅れてしまう。
そのわずかな隙にも、謎の球体はこちら目掛けて宙を飛んでくる。
ラナソール基準でも、かなりのスピードだ。
奴が最接近するまでにこちらも体勢を整え、気剣を左手に構えた。
拳で戦う判断もあったと思うが、多少生成に時間がかかっても俺は剣を使うことにした。
何となくだけど……あの闇に直接触れてはまずい気がする。
禍々しいエネルギーの塊だ。毒にしかならないだろう。
闇の球体は、こちらへ直接ぶつかる狙いで来ている。
速度こそ速いが、動きは単調だ。
俺は動作を見切り、決してそれに触れないよう、すれ違いざまに縦斬りを放った。
振り向いて様子を観察する。
敵は中心から、真っ二つに割れていた。普通なら致命傷になるところだが。
闇の球体は、しかしまったく応えていないようだった。
早くも切断面がくっつき始めている。放っておけば元通りになってしまう。
俺はみすみす再生を待っているほど、悠長ではなかった。
敵が万全になる前に、二度三度気剣で追撃を加える。
球体はさらに細かく分割された。
だがやはり何も応えていない。なおも再生しようとしている!
――じゃあこれならどうだ。
『心の世界』で身体動作プログラムを練り、自己の動作に制約を課す。
代わりに最速を得る剣技を構える。
攻撃が単調になり読まれやすいという欠点があるが、相手は今再生のみに力を割いている状況だ。
構わないだろう。
《スティールウェイオーバースラッシュ》
ラナソールにいるときと遜色ない力と、自動剣撃による高速化の乗算は。
千をも超える、壮絶なめった斬りをもたらした。
闇の球体は細切れになり、もはや原形を一つも留めていない。
とどめに《気断掌》を衝撃波として用い、細切れすら残さず完全に吹き飛ばす。
ここまで徹底的にやれば、さすがに――!?
「なっ!?」
声を上げてしまうほど驚いた。
目の前では、霧状にまで粉々にされた闇が徐々に集積し始めている。
なんと、まだ元の形を成そうとしているのだ。
ダメだ。なんてやつだ。
あの状態から再生しようとしているなんて……!
……そうか。奴は精神体のようなもの。
実体がないから、気や物理による攻撃が効かないのか!
でもおかしい。
前に見た四つん這いの奴は、ドームを殴った際普通に血を流していた。
あいつも同じような身体の構成であるはずなのに。何が違うんだ。
俺の今の攻撃と、あのときでは。
確か四つん這いの奴は、最後に光魔法に撃ち抜かれて――。
そこで理解する。
ああ! そうか! 光か!
この化け物たちの本質は闇。
おそらく光をぶつけることで、初めて実体化するのだろう。
ドームにはたぶん光の魔力が常時張られていた。
だからそれを殴った四つん這いの奴も、ダメージを受けていたんだな。
しまいに光魔法で致命傷を受けたと。
なるほど。こいつらの弱点は光なんだ。
だとしたらまずい。非常にまずいぞ。
今の俺には、有効な攻撃手段がほとんどない。
エーナさんに込めてもらった、たったの一発しか。手持ちがない。
くそ。いつもみたいに光魔法が使えれば。
ユイがいれば……!
くっ。そうとわかった以上、決断すべきだ。
倒せない以上は、逃げるしかない。
再生している今のうちに引き離せば、何とかなるか?
……このところ、逃げてばかりだな。俺。
《マインドバースト》をかけて、全速力で逃げる準備をする。
中途半端なスピードでは撒けずに、延々と追いかけられる羽目になりそうだ。
だがどうも簡単には逃げられそうもなかった。
再生を続けていたと思いきや、あの闇の球体は突如金切り声を上げた。
妙な異音の混じった、耳をつんざき不快感を掻き立てるそれは。
まるで、何かを呼んでいるようで――。
いや、本当に呼んでいる!?
何もいなかったはずのところから、闇の異形が大挙として押し寄せて来た。
不気味なほど静けさに満ちていた闇の世界は。今や不気味な連中の叫び声で溢れていた。
殺される――!
連中の異様さと強烈な殺気に、潜在的な恐怖を呼び起こされた。
元々小さいときから怖いものは苦手だったんだ。
昔だったら泣き喚いて、動けなくなっていたかもしれない。
だが十と一年の異世界経験の積み重ねは、俺にすぐさま最適行動を取らせていた。
手足を全力で動かし、即逃げの手を打っている。
しかし連中の数ときたら、凄まじいものがあった。
これまで静かだったからって油断していたわけじゃないけど、思っていたよりも多過ぎる!
姿も形も多種多様だ。四つん這いの奴一つとっても、どれ一つとして同じ形をしていない。
同種ならほぼ画一的な容姿をとるラナソールの魔獣とは、えらく大違いだ。
ドラゴンみたいな奴、雲みたいな奴、最初から霧みたいな奴――。
やばそうなのはどれだ。どれも危険そうだし、わからない。
どの道俺の攻撃は効かない。とにかく突っ切るしかない!
全力でひた走る。
立ち塞がる奴は直接触れないように気を付けつつ、気剣の一撃で斬り伏せた。
効かないにしても、再生している間は動きが止まる。なのでそこを抜ける。
どこまで行っても化け物だらけだ。中々振り切ることができない。
速度もあるが、何より厄介なのはこいつらの執拗さだった。
地の果てまでも追いかけて殺すとばかり、とかく執念深いのだ。
しかも普通の肉体を持たない連中に、有限の体力があるようには思えない。
対して俺は、いくら持久力を鍛えてあると言っても人間だ。
ずっと走っていれば息切れもするし、徐々に疲れも見えてくる。
逃げるあてもない。どこまで行っても闇の空間が広がるばかり。隠れる場所すらない。
俺は後悔していた。
アルトサイドは、よほどの準備や戦力無しに入っていい場所ではなかったんだ。
可能性は低くても、生き残りを探す方がまだよかったのかもしれない。
いつの間にか、もう丸一日は逃げている。
ただ走るだけならまだ三日はいけるが、戦いながらではそろそろ体力もきつい。
「俺……?」
突然現れたその影は、まるで俺とそっくり同じ姿形をしていた。
気を取られてしまった一瞬が、命取りだった。
俺の姿形をした異形が、俺に触れる。
しまっ!?
瞬間――過去の記憶が呼び起こされた。
よりにもよって、最も辛い記憶のかけら――。
ウィルに呼び起こされたトラウマの一つが。
――――――――――――
俺が、銃を持って。
母さんが。倒れていく。
撃ったのは――。
あ、あ。
俺が、母さんを。
どうして。なんで。
――――――――――――
ほんの少しだけ垣間見て。見ていられなくて。
目を背け続けてきた記憶が。
だって。
嘘だ……。嘘に決まってる……。
母さんは、事故で死んだんだ。
俺が殺したなんて……。
そんなこと。あるはずがないんだ!
俺はあのとき家にいた。いたはずだ……。
いたよね……?
答えてくれるものはなく、闇だけだった。
俺の姿をした異形は執拗に記憶をほじくり返し、何度も何度でも悪夢を見せてくる。
ミライのことも。ヒカリのことも。みんな。みんな。
やめろ! やめてくれ!
そんなこと! 俺は……! してない!
していない。本当にそうなのか?
俺は……とんでもないことを。
許されない罪を。
嫌だ。嫌だよ。
みんな大好きだったんだ。
どうして俺が、そんなことをするんだよ……。するはずがないよ……。
おかしいよ。違うよ……。違ってくれよ……。
なおも闇は、いつまでも俺に悪夢を見せ続ける。
まるで罪を教えてやると言わんばかりに。
自分が原因だったのか。本当にそうだったのか。
わからない。わからないよ。わかりたくない!
繰り返し見せつけられる最悪の記憶に、気が狂いそうだった。
何もかも投げ出して、すべてから逃げ出したくて仕方がない。
ちがう! ちがうんだ!
やめて! いやだ! やめてくれえええーーーー!
「うわああああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーーーーーーっ!」




