124「世界の穴に潜むもの 2」
ハルはそわそわしながら、俺が触れるのを今か今かと待っている。
やりにくいけど、いつまでもこうしているにもいかないし……。
覚悟を決めて、彼女の頭に触れた。
受け取るこっちが恥ずかしくていられなくなりそうなほどの好意とか。俺が簡単には受け入れられないことは知っていて、それに対する寂しい気持ちとか。
諸々の甘酸っぱい感情がまず飛び込んできて、こちらの心をダイレクトに揺さぶってくる。
ハルの心は予想通り、人と比べると相当入り込みやすいくらいなのに。別の意味で苦しかった。
……ごめんな。本当に。
やがて本題の――彼女が俺に伝えたい夢の記憶に辿り着く。
心の力は、彼女の見た光景をありありと俺の心にも映し出した。
薄暗く乾いた空間が果てしなく続いている。
俺がラナソールからトレヴァークへ来るとき、よく見る光景そのものだ。
しかし何もなかった景色の端に、白い光が現れた。
いや、光ではない。物体だ。建物だ。
レオンの操る視覚探知魔法は、彼自身の制御から離れてしまっていた。
世界の穴から生じた荒れ狂う流れに沿って、視界が流され続けている。
幸運にも、光を放つ建物へ近づく方向にモニターは進んでいく。
白い輝きを放つそれは、徐々に全体の姿を露わにしていった。
どうやら巨大なドームのようだった。優に町一つ分は入るほどに大きい。
随分不思議な見た目をしていた。一切の突起のないつるりとした形状で、入口らしいものも見当たらない。
たまごの殻の一部だけを切り取ったようなものだ。
これが何なのかは、さっぱりわからないけど。大発見だ。
まさか二つの世界の狭間、何もないと思っていた場所に、こんな巨大な建造物があったなんて。
残念ながら、ある程度接近したところで、流れはまたドームから遠ざかる方へと進んでいく。
これで終わりかと思ったが。そうではなかった。
そのとき。薄闇の中から突然、何かが飛び出してきた。
黒い炎のような――形や大きさは、人に似ている。
しかし表面は常に揺らいでいて、その形状を確定させることはない。
実体なのか、そうでないのかもわからない。
一言で言うなら――化け物。
闇の炎の化け物。そうとしか形容しようがなかった。
それはしばらく宙に揺蕩っていたが……そのうち、モニターの存在に気付いた。
するとどうだろう。炎の勢いが強くなり、それはたちまち形状を変えた。
中から質量を伴った、薄黒い手足のようなものが生えてくる。
人の生の手足のようにも見えて……もしかして、本当にそうではないか。
生え揃った四つの手足は、形も大きさも見事にバラバラだった。
右足は男性らしい筋肉の張りで、遠目でもわかる濃いすね毛が覆っている。対して左足は女性のように細く滑らかだ。
そして右腕はしわがれた老人の、左腕は子供のそれだった。
不気味だった。こんな気味の悪い生物が――そもそも生物かもわからないけど、こんなものがいていいのだろうか。
さらに続いて炎の上部、生えた部位を手足とみなすなら顔の位置に、二つの赤い点が現れる。
目のような役割を果たしているのか、それはモニターを捉えた。
肉感と闇の炎の入り混じった化け物は、もはや宙に浮いてはいなかった。
不揃いの手足を四つん這いにして、明らかにモニターをターゲットに据えている。
それはバタバタと手足を駆動させ、こちらへ向かって恐ろしい速さで這い寄り始めた。
ただ映像を見ているだけというのに、びびった。寒気がした。
『このときはとっても怖かったんだよ』と、ハルの心の声が聞こえてくる。
完全に同意だ。これは怖い。
流されるモニターを追って迫り来る。向こうの方が速い。
生えてきた手足への配慮など微塵もない酷使は、とても這いずりとは思えないほどの気持ち悪い速度を実現していた。
ついに捕まった。魔法のモニターなので枠はないが、魔力で構築された構成の源を、食いつくように覗き込んでくる。
まったく感情の見えない目と相対したとき。俺は目を背けたい気分になった。
ウィルに初めて見つめられたときとよく似ている。人が持つ生来的な恐怖が呼び起こされたようだ。
それは赤い二つの点でもってモニターを凝視して、しばらく動かなかった。
俺にはまるで品定めをしているように思えた。
もし対象がモニターではなく、人であったなら。死ぬまで襲われていたかもしれない。
そう思わせるほど、モニターを至近で覆うこいつの圧迫感、何より不気味さは群を抜いていた。
『ギ……ギ……』
ただのノイズとも、声とも取れないような音が聞こえてくる。
やがて人ではないと判断したのか。興味を失ったように、それは赤い視覚器官を背けた。
今度は白いドームへ向かって、四つん這いで駆け出していく。
ドーム型の縁へ辿り着いたとき。それは四つの手足を使い、壁に張り付いた。
もしかして入ろうとしているのだろうか。
しかし、建物がそれを受け入れることはなかった。
すると闇の炎の化け物は、モニターに対するものとは明らかに一線を画す態度を見せた。
耳をつんざく金切り声のような、まともな言葉にならない咆哮を上げたのだ。
怒っているようにも見えた。嘆いているようにも見えた。
そしてドームの外壁を執拗に叩き始める。
二度三度どころの話ではない。繰り返し繰り返し、壊さんと執念を燃やすばかりに。
無理を重ね続ける手足は限界を迎え、赤黒い血が滴っている。
ドームには一向にダメージが入っているようには見えなかった。
血でさえも垂れる後から、白の光はそれを蒸発させて、消し去ってしまう。
化け物の手足が壊れるのがどれほど先かという展開かと思われたが。
終わりは、突然だった。
ドームの内側から、光が飛び出した。
それは化け物の胴体を貫いて、闇の向こうへと跳んでいく。
あれは……よく見た光だ。
ラナソールの、そしてユイが使うものと同じ――光魔法の黄色い光だ!
闇の炎の中心に、風穴が開いた。
『クカカ、カカ……カ……!』
化け物は悲鳴のような声を上げて、白いドームから転がり落ちていった。
そのまま薄暗闇に溶けて、消えていく。
続きを見ることはなかった。
なぜなら――。
次の瞬間、薄暗い世界は終わり。視界が開けていた。
そこはもう元の世界のようだった。
穴の向こう側、つまりトレヴァークに着いたわけだ。
そして魔法は……どういうわけか消えていなかった。
コントロールこそ失ったままだが、しばらくはそこにあり続け、周囲の景色を映していた。
遥か向こうには、巨大なクレーター――爆心地が覗いている。
そこで、彼女の記憶は終わった。
目を開けると、もう鼻の頭同士が触れそうなところにハルの顔があった。
念じることに集中するあまり、近付いていることに気付かなかったらしい。
イメージするのが大変だったのか、怖い映像でもあったからなのか。
彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
ほとんど同時に、ハルも目を開けた。
彼女としても、思ったより近くに顔があったみたいで。
あっと口を開け、また顔を赤らめて、おずおずと少しだけ身を引いた。
「…………」
「…………どう、だった?」
「……うん。すごかった」
「だよね! ボクこれ見たとき、興奮してしまってね!」
あまりだったから看護師さんに怒られちゃったんだと、照れ笑いするハル。
でもそうなるのも仕方がないことだ。
むしろ謎は増えてしまった気がするけれど、それでもこの記憶が含む情報は多い。
「中々示唆に富む記憶だったな」
「そう思うよね。ボクも色々と考えさせられたよ。ちょっとした仮説も立ててみたのだけど……」
そこで彼女は、わざとらしい咳払いをして。
「ユウくん。キミの見解を聞こう」
いつもの調子と言葉で、意見を促してきた。
ハルは空想や考え事が好きな人間だ。
病床ではそればかりが楽しみだったということもあるけれど、そこを抜きにしても元々好きなんだろう。
とりわけ俺と二人で世界に関する考察を進めていくのが、彼女にとってはよほど大切で楽しい時間のようだった。




