46、
一瞬なにが起こったのかわからなかった。
地面に倒れている。
ほっぺが痛い。
ただそれだけで私は殴られたと認識したのだ。
「言うこと聞かないからぁ」
こつ、こつ。
顔を上げる。
どうやら手を離していたらしく、レジの袋は、中身を吐き出して無残にも小さくなっている。
「なにこれ?」
「だめ!!」
にやりと笑った。
スポンジは踏みつけられ、イチゴのパックはクシャクシャと悲鳴を上げた。
「ケーキでも作ろうとしたのかしら?」
笑いながら生クリームのパックを拾いあげる。
「生意気……生意気よ!」
怖い。
ここから逃げたいのに体が思うように動かない。
まして、足がすくんで立ち上がることさえできない。
蹴られた。
お腹を。
あまりの激痛に吐き出す。
「あははは! 惨めね!」
頭が冷たいと思ったら、地面に白い液体が落ちていく。
「うわぁ、キモイ。どうしたの頭から生クリームかぶって」
こわい。
「ねぇ、今男の人3人くらい待たせてるんだけど来ない? 一緒に遊びましょうよ。断らないわよね」
こわい。
こわい。
「答えなさいよ! ……行くわよね?」
こわい。
「行くって、言え!」
また同じ所を蹴られる。
もういや。
助けて。
「早く言え」
なんども、なんども、なんど……も。
「しぐれ!!」
男の人の声。
知っていた。
昨日聞いた。
「おい! ないしてんだ!」
「ヨシ……くん。だって、この女が!」
「大丈夫か?」
顔を上げると美晴が怖い顔をしていた。
バックをゴソゴソやっていると思ったら、出されたのは大きなタオルだった。
「ヨシくんの彼女は私なのよ! なのになんでそのブタ女のことを……!」
「うるさい…………だまれ……」
「うっ!」
シャガンデ頭にタオルを乗せられて、ゴシゴシされたあと、ちょっと待ってろよ、と言われて彼はすっと立ち上がった。
「最初から違うって言ってんだろ?」
「いいの? そんなこと言って?」
「あ? なにがだ?」
「パパに言いつけちゃうよ?」
「あ? 言えば」
「いいのね? バンド続けられなくなるわよ?」
「……だから?」
「……っ!」
「もうやめよう。お金も貰わない。それでいい」
「なに言ってんの? ライブハウスだって、トラックだって、パンフレットだって、パパのお金でやってるのよ! 今度のだって」
「これ」
美晴がカバンから出したのはお札の束だった。
「今までの金額とは言わないけど、今年分。後は借金でいいから。オレ宛な」
「受け取らない!」
「なら、直接会いに行くだけだ。これから行こうとしたら、こんな不快なもん見せられてな」
「やだ!」
「いやだ。お前みたいな奴はこっちから願い下げだ」
バックを投げ捨てた。
「時雨、立てるか?」
私は嗚咽を我慢しながら、首を横に振った。
「ったく。車近くだから、送ってくよ。自宅の方がいいだろ?」
「待ってよ! 嘘よね……」
彼におんぶをしてもらう。
「嘘? オレ、嘘付けない方なんだけど」
すたすた。
「あ、それと。……オレ、バカな奴嫌いなんだ」
大きく上下に揺れる。
歩きだしたのだろう。
「いやぁぁぁーー!!」
後方で叫び声が聞こえた。
後になって思ったのは、なぜ彼女はあんな性格なのにすんなりと別れを受け入れたのだろうか、ということだ。
そのあと彼女は私から避けるし、むしろ見当たらないし。
ただ、泣きじゃくっている今の私は、そんなこともわからず、大きな大きな彼の背中で、ギュッと肩を掴み、ワックスなのか制汗剤なのかわからない臭いに顔をうずめて、家に着くまで寝ていた。