35、
それで私は美晴を見た。
怒鳴られた。
思い出した。
迷惑。
強く言い放ってしまった。
今さらになって顔を合わせられない心情だ。
「さーてと。私はピアノでも弾いてるわ」
「あぁ」
ヒールのコツコツと言う音が離れていった。
ゴトン。
くい、
「さーて、久しぶりにジャズっぽく行きますか」
静かに始まった。
耳を寄せると引き込まれてしまいそうな、嗄れたピアノの音色にそれを綺麗に奏でているテラコさん。
お洒落なバーとか行ったことないけど、こんな感じなのだろう。
軽快なスイングに歯切れの良いビート感。
こんなところで疲れきった人の心を癒せるのは、こう言った聴覚の揺さぶりが重要なんだと思った。
「なぁ、時雨」
いつの間にか落ち着いていた。
彼の言葉をしっかりと聞き取ると私は、なに、とだけ答えた。
「ひとつだけ聞いていいか?」
「なに?」
彼は直ぐに言ってこなかった。
言葉を咀嚼しているようで、後頭部に受ける視線は変わらないままだった。
「オレに彼女がいるように見えるか?」
なにを言っているのかコイツは。
「見える」
「そうか……ありがとう」
即答に即答だった。
「なぁ、テラコ」
ジャズのビートも、華麗な技量もそこで打ち止めになった。
「なにかしら?」
「今、いくらある?」
「千もないわよ」
「いや、オレの通帳の中身」
「は? 知らないわよそんなの」
「ーーーーそうか。わかった」
「なになに? 気になるじゃない!」
ガタンと立ち上がる音がして私はそっちを見た。
テラコさんはピアノの椅子に座りながらこっちの方を見ていた。
「いや、来年までいくらいるかなってさ」
「いやいや、そういうことじゃなくて。アンタなに隠してんのさ。私らにも、なにも教えてくれないじゃないか」
「気にするなって。任せろ」
美晴はカウンターに背を向けて歩き出す。
「任せろ任せろって、アンタどこから金調達してんのさ! おかしいだろ! 会場の金、楽器、運搬、広報、全部アンタ持ちじゃないか!!」
「いいんだよ。アイツらから借りてるだけだって」
「嘘だね。確かに作曲とかで金を稼いでるかもしれないけど、そんなの端金じゃないか! 知ってるんだよ、ほぼボランティア価格で曲を提供してるって」
「金は貰えてる。ちゃんとした値だ。気にするなって。一緒にやってくれてるだけでいいんだ」
「私らが良くないんだって! 仲間だろ! 私らもアンタにならついて行けると思って、一緒に歩めると!」
「いいんだ。気にするなよ」
「それしか言えないの! 私はアナタが無理してるの……」
「ここでそれを言うんじゃねぇ……!」
テラコさんはたじろいだ。
美晴の睨みつけに恐怖を覚えたのは私も一緒だ。
「いいんだって。オレはギターできれば……」
足早に出ていってしまった。
カランカランと軽い音だけが、彼のことを見送った。
大きな溜め息が聞こえた。
そのあとでまったくと言う声が聞こえた。
「ごめんなさい。みっともないところを見せちゃったわね」
そう言われても、私はどうしたらいいかわからなかった。
「時雨ちゃんも、アイツが何してようが気に止めてあげて。時雨ちゃんの言うことなら聞きそうだからさ」
テラコさんは吹くように笑った。
「私らの言葉は聞く耳持たずなんだけどね」
くるっと顔を戻し、また曲を始めた。
クラシカルな、曲調。
そんなに好きではないと思っていたのは嘘だったかのように、その曲に聞き入った。
哀愁。
今の心情なのだろうか。
ピアノが泣くように音を出している。
外はもう暗くなっていた。
ネオンの光は意外にも淡く光っていて、オレンジの街並みはここの雰囲気を更に美しくしていた。
好きだなぁこの感じ。
落ち着く。
全て揃って、この店なのだろう。
潰れないで欲しかった。
好きになったものが無くならないで欲しいと願うのは必然なことなのだろう。
全て同じだ。
バンドも、お店も、
美晴も、