190、
お客さんが自分に与えられたタイムリミットを思い出すくらいに食のスピードが上がった。
そしてものの10分以内にほとんどの人が店を出ていた。
社会人とはこれが普通なのだろうか。
将来の不安が今更出てきた。
しっかりと冷えた紅茶を飲むと不安が幾分か和らぐ。
深呼吸するとその美味しそうな匂いが音と共に出てきた。
「時雨ちゃん、お待たせ! あちらのお客さんからだよ」
皐月さんは、少しかっこいい顔をしながらピアノの方に親指をだけを向けた。
何と言うか、イメージバーテンダーだ。
薄にやけなのが狙っています感溢れていて憧れも笑いも起きなかった。
皐月さんの指の先に目を向けるとアイスコーヒーを飲んでいる奈保美さんがゆっくりと近づいてきていた。
私の左隣りに座ると汗ばんでいるグラスをカウンターに置いた。
「どうだった?」
笑顔の奈保美さんは、やりきったという雰囲気を醸し出していた。
「凄かったです!」
「あら、よかったわ。久しぶりだけどね」
「昔やってたんですか?」
「やってたというより、習い事でやらされてたって言うのが正しいかしら」
カラン。
氷が崩れてグラスを鳴らした。
「まぁ、そのおかげで彼らが有名になれたのなら、苦にする過去ではないけどね」
「ーーーー……サチレのことですか?」
「そうそう。彼らに音楽を与えたの、私だからね」
それはなんとなくわかっていた。
金木犀の香りが扇風機の風によって流れてきた。
「美月ちゃんにピアノを教えたのは私。美月ちゃんがみんなに音楽を説いた。だから細かく言うと私がみんなに音楽を与えた」
「ってことは、美月さんって」
「普通の女の子だったら、間違いなく今頃有名になってた子よ。世の中理不尽よねぇ。能ある鷹は爪を折られるのだから」
とても、すごい人。
会ったことがないことだけが心残りだった。
「美月ちゃんは、自分の病を知ってた。だからーーーー捨てられた理由も知ってた。自分も、弟も」
汚名。
大人とは汚いものだ。
汚いものを隠すためになら、どんな手でも行使する。
それが、自分の血を分けた分身でも。
「あくまでも憶測だし、私が知り得ていいことではないわ。だから詳しくは言わない。ご想像にお任せいたします」
「美月さんは、本当は裕福な家に生まれたってことですか? それで幼い頃から……」
「だーかーらー。私は知らないし知っていても言えない。私は私の知っていることを言うだけ。半分は独り言、半分は納得、半分は『真実』」
なにを言いたいのだろう。
ここに呼んだ意味。
私にとってなにがあるのだろう。
「孤児院の運営って大変なのよねぇ。国からお金は貰っているけど、そんなの微々たるもの。みんなに相応のお給金を渡すには少なすぎる。しんちゃんが働いてくれても少なかったわ。子供たちのご飯代でほとんど消えたからね。じゃぁ、どこから、残りのお金が出てると思う? 私は自分の口座に勝手に入ってくるお金をありがたく使わせて貰ってるわ。そう、勝手に入ってくるお金をね」
それは誰かが意図的に孤児院にお金を入れていると言うこと。
なんのために、誰が……。
「まぁ、いつもお金がない子だとは思っているわぁ。おかしいじゃない? 彼は一応有名作曲家。印税なんてがっぽがっぽのはず。なのに、自分の食べる食べ物がなくなるほど頑張っているのはなぜだと思う? ホントに不思議よね。そんな多額をどこに入れているのでしょう?」
それはなにが言いたいのか。
それはなにを示していたのか。
それはなにを私に下したのか。
一瞬で悟るほど私は上手く出来ていなかった。
「さってと。独り言も疲れたし、帰ろうかな」
「美晴がなんで、孤児院に執着してるんですか!? よく遊びに行くし、そんなお金を入れてる。まるで、なにかの罪滅ぼしのような!」
「あれ? 独り言に答えるのはよくないなぁ。私は知っていても話せないことが多いの。守秘義務としてね。それぐらいわかるでしょ? 時雨ちゃんは頭がいいんだから」
奈保美さんは、コーヒーを飲み切るといつものように立ち上がり店を出て行った。
「皐月さん! 皐月さんはなにか知っているんですか!?」
「あ、あたし!? ごめん。全くわからんのや。幼馴染みとかでもないから」
頭を掻きながらそう答える彼女の目は嘘をついている気がしなかった。
私は溜め息を吐く。
私には話せない過去がある。
ーーーーそれは、闇に葬りさった記憶なのだろうか。
美晴の罪。
今更になって気になること。
胸に止められるのだろうか。
次会った時、話しを聞こう。
美晴と孤児院と美月さんの関係を。




