171、
落ち着いた店内で私はカウンター越しの皐月さんと話していた。
注文もなくただ時間を潰している人しかいないらしい。
土門さんはご飯を食べに外に行ったらしい。
なので半ば二人きりなのである。
私はいつも気にしていたことを今日も聞いてみることにした。
「土門さんとの進展はどうですか?」
皐月さんは使用後のグラスやらカップなどを丁寧に洗っていた。
ただ、私の一言でステンレスの洗い場にグラスを落としたらしく、ドンと大きな音が響いた。
「し、時雨ちゃん、よくぞ飽きずに聞き続けてくれたなぁ……」
皐月さんはぷるぷる震えながらそう言った。
「その言い草、なにかあったんですか?」
落としたグラスを拾い上げ丁寧に洗っていく。
「ーーーー諦めた」
私としては衝撃的だった。
ーーーーあんなにも仲がいいのに?
ーーーーあんなにも好きなのに?
ーーーー諦めた?ーーーー
私の頭をぐるぐると納得できないことが回る。
私はこのまま2人が、ゴールにまで達するものだと思っていた。
「な、なななななんでですか!!?」
かなり大きな声が出た。
「時雨ちゃんしー」
皐月さんに人差し指を立てられて周りの人の目が痛いことに気付いた。
後ろを振り返って謝罪の念を込めてから頭を下げた。
それから話を戻す。
「なんでですか? あんなに仲がいいのに、ましてや、好きなのに?」
私には理解できなかった。
いくら離れ離れになるからと言って、それを恐れて付き合わないなんて、私としてはまったくもって理解できなかった。
それだけじゃない。
なによりも、好きなのに、なんで?
「時雨ちゃんにはわからんのよ。一緒にこうやって働いてきたからわかるんよ」
そう切り出して、皐月さんはちょっとまってと言って、私以外のお客さんの会計を済ませていた。
カランカラン。
軽い音がその人が帰ったことを知らせた。
すぐに戻ってきた皐月さんはまたグラスを洗い始めた。
「わからないです。だから教えてください! 私は2人が理想のカップルだと……」
「いいよ。教える。でもなぁ、カップルじゃないんよ。時雨ちゃん。あいつの頭の中、あたしじゃ埋められないほど、美月さんで大きな穴が空いているんよ」
美月さん。
その名前が初めて、壁として出てきた。
そんなことが、あるなんて思ってもみなかった。
なにもかも、順調に、私の頭の中の、私の人生という小説が、起き上がり、それを承り、物事転じて、そしてこのまま『結』にまで進むものだと思っていた。
そんなものだ。
神様がそう言い笑ったようだった。
「土門の毎朝の行事。朝、4時だったかなぁ、そのくらいに起きてどっか言ってるのをあたしは知っていた。ある日気になってこっそりついていったんよ。どこについたと思う? 美月さんの墓。毎朝毎朝、飽きずにね。
あとな、こんなこともあった。あたしがウエイトレスをしていときや。たった一回だけ、おい、とかじゃなくて名前で呼ばれたことがあった。美月ってね。
まだあるで、あのピアノ、美月さんのために土門が買ったもんなんやって。昔のやつは捨てたらしいんよ。そんなものが、まだあるんやで?
これが何を意味するかわかるか? 時雨ちゃん。
あいつ、あたしのことなんか、眼中にないんよ。ここまでしたのに、こんなにもあいつのためにと思ってやったのに、こんなにあいつとの時間を増やしたんに、こんなにわかりやすくしてやってるのに、こんなに好きなのに、あいつは何ひとつ気付いてくれへん!
あたしは、あたしはもうどうしようもないんや!! 好きやから、好きな人の想いは大切にしたい。好きやから、好きな人の好きな人は大切にしたい。
なのに、なんなんや! この憎悪は! あのピアノでさえ今すぐに壊してしまいたい!
そんなこと思うんが嫌やねん! 土門の悲しむ顔も怒った顔も、大嫌いやから。ヘラヘラしてる、バカやってる土門が好きやねん。
だから、だから、あたしは土門みたいに、好きな人のことを想うことだけで止めようと思う。それがお互いの為やねん」
私が涙をこぼした。
感情が移ったみたいだ。
胸が苦しい。
引き裂かれそうだった。
それなのに、皐月さんは涙一つ流さず、カップを洗っていた。
皐月さんは強いな。
私だったら、この場にいるのが辛い。
この、土門さんと美月さんの残り香が強く残るこの場に。
眼前に広がるこの景色さえ、きっと淀んで見えるのだろう。
私は立ち上がり、お会計を済ませる前に皐月さんに抱きついた。
私の頭の横で声を殺して泣く皐月がいた。
何度目だろう。
こんなに強い人の涙を見るのは……。