堕ちた銀翼
混じり気のない、果てまでつき抜けてしまいそうな青空が広がっている。雲の白さも舞う鳥の鳴き声も抱かない、爽快な空模様だ。
こんなに美しい絶好の天気は、一年を通してなかなか訪れるものではない。
乱雑に並び立つ、来歴も様々なビル群の中。一際空に近い高層ビルの屋上で華奢な少女が空を仰いでいた。しっかりと設けられた転落防止用の柵を乗り越えた先で、一心に祈るように紺碧の空を見つめている。
そっと少女は何かを怖れるような慎重な動作で両手を虚空に伸ばす。傷一つない手の指先は空を切り、掴むものは何一つない。
その光景一つ見れば、年若い自殺志願者の図にも見えるだろう。しかし少女が眼下に広がる高さを怖れる素振りもなければ、遥か下に広がる人間たちの営みに目を向けることもない。
その視線はひたすらに強い愛惜を讃えて空にのみ、向けられる。
少女は狂おしいまでの渇望を抱いていた。どこまでも続く蒼の世界に飛び込みたい。紺碧の空に浮かぶ、ただ一点の染みになりたい。鳥のように、羽ばたきたい。
だがその願いは叶わない。必要な資格も、想いも、持っている。それでもただ一つが欠如してしまえば、あっけなく空を舞う力は剥ぎ取られて、人間の欲望に塗れた街並みに堕ちて行く。
どれだけ手を伸ばしても思うようにはならない。そう気が付いて、諦めのため息を少女は零す。例え命を懸けても、ただ一つの望みは叶えられない。
両手を下した少女の背後から音もなく近づく気配があった。
「ミコト。どこに行ってるんだい」
声と共に伸びた二つの腕が少女を背後から抱き締めた。
その正体を振り返るまでもなく知っている少女は、淡々と冷たい言葉を返す。
「どこにも。……私はここにいる」
白々しい会話だと少女は心の内で感じている。少女の願いが叶えられないのは、いや、何より少女から一番大切なものを奪ってここに縛り付けているのは――彼なのだ。
そんな少女の想いを正確に理解しているだろう、その人がくすっと耳元で笑った。
何故か、ぞくっと背筋が震えた。
「知っている。ミコトの心はずっと、あの空の向こうだ」
彼が指差したのは眼前に広がる碧空。少女が希求して止まない、果て無く遠い場所。
そこから少女を引きずり落とした存在は、少女の身体に回した腕に力を込めて囁く。
「行かせない。あちらへは」
「……そうだろうね」
ぶわっと大きな風が少女の両脇を翔け抜けた。少女の長い髪が乱れ、舞い広がる。それはとても不思議な色合いをしていた。色素は透き通るほど薄く、内から輝くようである。まだ何にも染められていない――白銀色。
かつての自分の象徴である色合いに目を細めて、少女は背後からの拘束が緩んだのを感じて腕から抜け出した。振り返って、自分を捕える彼を見据える。
「どんな気分?」
嘲笑うように、謡うように軽やかに少女は彼に尋ねた。
「世界の至宝、天使を堕とした人間。――満足か?」
彼は少女の厳しい視線の先で悪気もなさそうに笑っている。
分かっていた。彼がまだ満足などしていないことを。
彼は雑踏に紛れてしまえばあっさり埋もれてしまう普通の少年だ。どこにでもいる顔で特に目立つ容姿もしていない。
それでも。彼の心にある想いは他の誰よりも――強烈だった。人外の、人を超越した存在に影響を及ぼしてしまえるほどに。
ばさっと音が響いた。鳥の羽ばたく音を大きくしたような響きである。
事実、それは翼が空気を叩く音だった。少女の背から生える、白銀の二翼が大きく羽ばたいた音である。
彼は少女を人間の地に堕とした時と同じ、嬉しそうな顔で言った。
「まだだ。次はミコト、君の心を堕としてみせる」
あぁ、やはり。
遠くない昔に羽ばたいたことがある空を視界の端に収めて、少女は悲しげに顔を歪めた。空を飛ぶための翼があっても、どんなに渇望しても。
……少女はけして飛べないだろう。
彼が手を伸ばして優しく少女の髪の一房に触れる。じわり、じわり、とそこから彼に侵蝕されていくのを感じた。
「ミコトは俺のものだ」
少女は漆黒の瞳を涙に潤ませて、泣きそうな顔でうつむいた。
かつては髪と同じ色合いだった双眸。それももう、彼の色に染められた。きっと、この髪もいずれ闇色に染まり、翼はその純潔を喪って消えていく。翼があっても、純粋な白を喪った少女の翼は空を飛んでくれない。
「大好きだよ、ミコト」
その言霊は強力で、少女は逃げ切ることはできない。がんじがらめに絡み取られて、身動き一つ取れないのだ。
いつか、少女の翼は消滅する。彼に染まり堕ちた代償に。
そしてその時が、少女が“天使”から“ミコト”という人間に完璧に代わる時なのだ。
この作品はもう一つの短編、『手中の銀翼』とリンクしています。
よろしければ、そちらもどうぞ。