過去の最悪な思い出(2)
(私は、いつだって1人ぼっち……)
悲しい気持ちに苛まれた少女は自室に戻り、部屋の片隅に膝を抱えて丸まる。
(生きている意味なんて、あるのかしら……?)
何度目かわからぬ自問自答をした直後、くすんくすんと嗚咽を漏らしんががら泣いていた時のことだった。
聞き馴染みのない声が、頭上から聞こえてきたのは――。
「エクリーユ……?」
「ひ……っ」
それが己を虐げる家族のものだと勘違いした少女は、恐怖に恐れ慄く。
自分を慰めてくれる乳母の姿は、どこにもないのだ。
孤立無援な状況を狙って彼らから寄って集って暴行を受けたら、今度こそ耐えられない。
心がポッキリと折れてしまうと恐れていた。
「どうしたの? 大丈夫……? 具合でも、悪いのかい……?」
身体を小刻みに震わせるこちらの姿を、不憫に思ったのか。
少年は心底心配していると言わんばかりの表情をしながら、エクリーユの許可なく細い身体に両手を伸ばした。
「いやぁ……!」
今まで散々、兄妹たちから虐げられて来たのだ。
甘い顔で近づいてきた人間など、信頼できるはずがない。
少女はその手を弾き飛ばし、四肢を動かして必死に抵抗を試みる。
その尋常ではない様子を見た彼も、これ以上近づいたところで少女を怖がらせるだけだとわかっていたのだろう。
「怖がらせてしまったか……。ごめんね。いくら兄と言えども、名前すら名乗らずに触れるのはよくなかった……」
申し訳なさそうな声音を聞いて、愕然とする。
自分の兄は、4人だけのはずなのに――。
「お、にい……さま……?」
「うん。そうだよ」
不思議そうに小首を傾げた少女は、先日産まれたばかりのリシーロとエクリーユを含め、王家の子どもたちが5男3女だと言う事を思い出す。
その中で少女が顔を合わせたことがあるのは、7人のみ。
(1人、足りない……)
指折り数えてその事実に気づいた第2王女は、ぽかんと唇を開けて問いかける。
「あ、あなた、は……。第4、王子……?」
「うん。そうだよ」
彼は優しくエクリーユの髪色と同じ黒い瞳を和らげる。
その笑みに、敵意は感じられない。
(でも、もしも演技だったら……)
これまで5人の兄姉から、代わる代わる虐げられて来たのだ。
甘い言葉を囁いて信頼を勝ち取り、自分を地獄へ突き落とすために準備をしている可能性は捨てきれない。
少女は自称兄を信じ切ることができず、彼の名が紡がれるのを待った。
「俺は、ムガルバイト。5番目に生まれた、第4王子だよ」
「今まで、どうして……」
「うーん……。いろいろ、事情があってね。これからは、集まりにもちゃんと出るよ」
ムガルバイトはこれまで、王家の子どもたちが一同に介する場に出席した経験がないと聞き、エクリーユは納得する。
(お兄様は私が不義の子と言われてはみ出し物になっていると、ご存知ないのかもしれないわ……)
今は人当たりのよさそうな人物に見える。
しかし、兄姉たちから話を聞けばきっと豹変するはずだ。
「これから、よろしくね」
ムガルバイトはこちらに、満面の笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。
少女はその指先を、ぼんやりと生気の籠もらない瞳で見つめた。
(この手を取って、本当にいいの?)
1人ぼっちの幼子が逡巡したのは、一瞬だ。
頼れる乳母を失った少女にはどうしても、今すぐに自分を支えて包みこんでくれるような、年上の存在が必要だったから――。
(悩んでいる暇なんて、ないでしょう? 差し伸べられた手を拒否したら、一生後悔するわ……!)
こうしてエクリーユはおずおずと小さな指先を動かし、彼の大きな手を取った。
この選択が、いずれ過ちであったと後悔することになるなど、気づけぬまま――。
*
「兄様」
それから2人は、時間の許す限り一緒にいた。
少しでもムガルバイトのそばを離れると、他の兄たちから虐げられてしまうからだ。
(兄様が手を差し伸べてくださってから、私の生活は驚くほど変化した……)
彼のそばにさえいれば、不思議と自分を目の敵にしていた家族からの攻撃がピタリと止んだ。
心ない言葉をすれ違いざまに投げつけられることはあっても、身体の至る所に傷を作らなくてよくなった。
これに喜んだエクリーユは、精神的な余裕が出てきたからか。
口元に笑みを浮かべるようになった。
「なんだか私、変だわ。兄様と一緒にいると胸がぽかぽかと暖かな気持ちに包まれて、ムズムズするの……」
彼と行動をともにしているうちに、ムガルバイトが1番信頼できる家族になったせいだろう。
少女は頬を赤らめ、ドキドキと高鳴る胸元を小さな手で押さえつけた。
そんな愛らしい妹の姿を嬉しそうに見つめた兄は、優しく口元を綻ばせてエクリーユに教え込む。
「それは俺が、好きって証拠だよ」
「私が、兄様を……?」
「うん。俺もエクリーユが好きだから……お揃いだね」
無能と呼ばれるようになってから、少女の世界には白と黒以外の色が失われてしまった。
そのはずなのに――。
彼が美しく自分に微笑みかけるたびに、目に映る景色が七色に光り輝いて見えるようになるなど、思いもしない。
(兄様、大好き……)
これからもずっと一緒にいて欲しい。
そうすれば、自分はもう二度と、誰かに傷つけられなくて済むから――。
「おいおい。最近見ないと思ったら……。他所もんに匿われてたのかよ!」
「ひ……っ」
ムガルバイトと声を上げて笑い合っていると、エクリーユの穏やかな日常を引き裂く悪魔が現れた。
それは事あるごとに不必要な暴力で妹を屈服させようと試みる、3男のフォセティだった。
少女の喉からは自然と恐怖で引き攣った声が飛び出し、ガタガタと全身を震えさせて大好きな兄に縋りつく。
「フォセティ兄さん……」
「そんなに警戒すんなよ。ムガルバイトには手を出すなって、父ちゃんに命じられてるからな。なんもしねぇよ」
「エクリーユに、何をしたんだ……?」
「ははっ。なんも? 兄ちゃんが、遊んでやっただけだ。なぁ? 無能?」
「う……っ」
自らの名前ではなく「無能」と呼ばれることは、エクリーユにとっては「立場を弁えろ」と命じられているのと同義であった。
(やっぱり私は、幸せになんかなってはいけないのね……)
絶望でいっぱいになったせいか。
真紅の瞳からは、静かに涙がこぼれ落ちる。
「ははっ。ほんとにグズだなぁ。こんなのが姫とか、王家の面汚しもいいところだ!」
少女は何度も希望を見出すたびに、奈落の底へ突き落とされてきた。
異能力を発現できていない以上、自身の扱いはつねに最下層。
本来であれば、兄姉と対等に話し合う資格すらない。
「ご、ごめんなさい……っ」
「エクリーユ……。謝らなくていいんだよ」
「なんでも、言うことを聞くから……っ!」
その場にしゃがみ込んだ少女は、急所を守るように膝を抱えて丸まった。
普段であれば暴行を受け入れる合図と受け取って襲いかかるが、今日はいつまで経っても四肢に痛みが走ることはない。
それは間違いなく、ムガルバイトがすぐ近くにいるからだった。
「これは……」
「ああ、そうかよ。次に2人きりで会うのが、楽しみだな?」
絶句する弟を他所に、高笑いを響かせたフォセティは去って行った。
「大丈夫だよ……。怖くないからね……」
「うぅ……っ。う、う……!」
ムガルバイトに優しく頭を撫でられたら、涙を堪えるなどできない。
エクリーユは乳母に慰められていた時のように、わんわんと声を上げて泣き叫ぶ。
「助けて……っ。もう、痛いのも苦しいのも嫌……っ!」
「うん……」
「酷いこと、しないで……っ。お願い、だから……っ」
「俺と、ずっと一緒にいようね」
「兄、さま……っ」
「大好きな妹……。俺だけが、君を守ってあげられる。1番頼りがいのある兄だよ。ちゃんと、覚えて。心に刻み込んで」
「はい……っ」
泣きじゃくるエクリーユにそう囁いた兄は、無理やり妹と約束を取りつけ、少女を抱き上げて自室に連れ帰ったのだった。




