隣国の王
「リド、ディエ……。陛、下……?」
「僕の名を、知っていたのか」
「あ、当たり前です……。兄様の、ご友人ですもの……!」
ムガルバイトを心底敬愛していたエクリーユにとって、兄の友人もまた心を許すに相応しい存在だ。
(それに、兄様から……。何度かお話を、聞いたことがあるもの……)
無能と蔑まれ、社交場にすら出入りを許されなかった妹を不憫に思ったのだろう。
兄はさまざまなことをエクリーユに教えたあと、親友の話をしてくれた。
『リドディエは、父さんよりもずっと素晴らしい国王だ。俺は時折、隣国が羨ましい……』
ムガルバイトはそう寂しそうに遠くを見つめ、アティール王国へ入り浸るようになった。
彼が褒めたのであれば、きっと陛下は素晴らしい人格者であるに違いない――。
そう結論を出したエクリーユは、渋々警戒を解く。
「畏まるな。今さら、気を使い合う関係でもないだろう」
「私たちがこうして言葉を交わすのは、初めてですよね……?」
「ああ……。そうだったか……」
すると、彼は昔を懐かしむように目元を緩める。
その姿を目撃したエクリーユは、驚いてしまった。
(陛下は一体、何を言っているの……?)
少女が気づかぬうちに、まるでどこかで会話をしたことがあるかのような反応をしていたからだ。
(紫の瞳が、とても優しく和らいでいるわ……)
遠くからでも星のように光り輝いて目立つ金髪と、近寄りがたい印象を与える紫の瞳を持つ彼が、まさかこんな表情をするような人だとは思いもしない。
エクリーユはなんとも言えない居心地の悪さを感じながら、その光景に見惚れた。
「とにかく、他人行儀な口調は止めてくれ」
「ですが、私は陛下を……」
「リドディエだ」
「存じておりますけれど……」
「君には、僕の名を呼ぶ資格がある」
なぜ彼が名前で呼んで欲しがるのかはさっぱり理解できないが、機嫌を損ねて引っ叩かれるのは嫌だ。
エクリーユは渋々、陛下の願いを受け入れると決めた。
「わかったわ。リドディエ様」
「敬称も不要だ」
「そこまでは、さすがに……」
「では、考えておいてくれ」
「そうね……」
二人の間には、気まずい沈黙が下りる。
(ここがどこなのかを、確認しておかなければ……)
エクリーユは閉じた瞳をゆっくりと開いて冷静さを取り戻すと、おずおずとリドディエへ問いかけた。
「あの……。ここは、一体……」
「我が国の王城。僕の部屋だ」
彼の口から思わぬ言葉が飛び出て、目を丸くする。
国王の私室など、自分のような人間が入り込んでいいような場所ではないとわかっていたからだ。
(お父様の部屋にだって、入室を許されなかったのに……)
青ざめたエクリーユは慌ただしく四肢を動かして、陛下の腕から抜け出そうと試みる。
「暴れるな」
いくら無理やり連れて来られたとしても、こちらの事情など周りの人間には関係ない。
彼の側近に見られでもしたらどんな罵詈雑言を受けるかなどわかったものではなかったからだ。
「なぜ逃げる」
「もう、嫌なのよ……っ。誰かに悪意を、向けられるのは……!」
「僕は国王だ。誰にも文句は言わせない」
「でも……っ」
反論しかけた少女の言葉が不自然に止まったのは、細い身体を抱きしめる腕の力が強まったからだ。
青くなったり赤くなったり忙しない様子を見せるエクリーユを批難するかのように、細められた紫色の瞳が向けられる。
「行く宛はあるのか」
「そ、それ、は……」
「今すぐにここを飛び出したところで、〇〇王国に到着するのは2週間後だ。自国に辿り着くまで、生き延びられる保障は?」
「あ、あんな国に、私の居場所はないわ……。最初から、戻るつもりなんて……」
「なら、我が国で暮らすしかないな」
彼はそれしか方法がないと言わんばかりの口調で、エクリーユに提案した。
しかし、それを黙って受け入れられるほど少女は国王を信頼してなどいない。
だからこそ、納得いかないと言わんばかりに御託を並べ立てる。
「わ、私は……。陛下に引き留められるような、価値のある人間では……」
「君は一国の姫だ」
「ずっと、無能と呼ばれていて……」
「異能を顕現させた以上、誰もそんなふうには呼ばん」
「家族に牙を剥いた、重罪人なのよ……?」
「僕とあの男が、奴らが純粋なる被害者ではないと証明する」
レべラゼム王国にはいられない理由をどれほど並べ立てても、リドディエはけして少女から手を離さなかった。
何を言ってもここから逃げ出すことは叶わないのだと悟った少女は、彼に告げる。
「どうして、こんなにも……。私に寄り添ってくれるの……?」
「君を死なせたくなかった」
国王は紫の瞳を切なげに細めると、はっきりとした口調で告げる。
(おかしな話だわ……)
エクリーユは不思議な気持ちでいっぱいだった。
自分には、彼から「死んでほしくない」と望まれるほどの深い仲になった覚えはなかったからだ。
「リドディエ様からそんなふうに望まれるほどの交流なんて、なかったのに……」
「エクリーユの話は、あの男からよく聞かされていた。百合の花のように美しく咲き誇る、可憐な妹がいると……」
「それは、妹のことでしょう? あの子は、白百合と呼ばれているもの……」
「いや。あの男は……」
自分でも気づかぬうちに唇から飛び出ていた声を耳にした王は、実際に面と向かって顔を合わせていなくとも、他者へ入れ込むことはできると言わんばかりの反応を見せる。
しかし――エクリーユがリシーロの話をした直後、難しい顔で黙り込んでしまった。
少女は真紅の瞳を悲しそうに伏せると、か細い声を響かせる。
「止めましょう。今となっては、どうでもいい話だわ……」
「エクリーユ……」
「お兄様に嫌われた私に、生き続ける理由なんてないの」
「たくさん傷ついた分だけ、これから人生を楽しめばいい」
自ら命を絶とうとする少女を、リドディエは静かに諭し続ける。
だが……。
エクリーユの意思は固かった。
このまま生き続ける道は選べないと、悲しそうに目を伏せる。
「家族を傷つけた私に、そんな資格は……」
その反応を見た彼は、紫の瞳に確かな決意を宿し、低い声で発する。
「僕は、納得できない」
「リドディエ様の同意なんて、必要ないわ。私は、もう決めたの。だから……」
エクリーユはこれ以上の対話は無駄だと言わんばかりに、舌を噛み切って自害を試みた。
その油断も隙もない行動に目を丸くした国王は、すぐさま少女の口に己の指先を差し込みそれを阻止する。
「ふ、ぐ……っ」
「止めろ」
口内には、血の味が広がっていく。
エクリーユは不快感に耐えきれず、真紅の瞳を細めて呻き声を上げた。
「う……っ」
「自分で自分を、傷つけようとしないでくれ」
どこか泣き出しそうな声を耳にした少女は、大きく瞳を見開いて驚く。
彼が己の小さな唇から指先を引き抜いた瞬間――そこに鮮血が付着していると気づいたからだ。
「そ、そんな……っ!」
自分が歯を立てたせいで、陛下の指先を傷つけてしまった。
これから自分はどんな罰を受ける羽目になるのかと全身を小刻みに震わせたエクリーユは、真紅の瞳から静かに涙を流す。
「私、傷つけるつもりなんて……!」
「ああ。わかっている」
「ごめんなさい……!」
自分を想ってくれる人を傷つけた。
それは己が苦しみ藻掻くほどに、つらいものであった。
「ゆ、許して……っ。なんでも、します……! だから……っ!」
少女は兄姉たちに虐げられてきた際と同じように、許しを請うた。




