愛を教えて
「いいえ……」
「よかった」
何かに突き動かされるように自然とく口から紡ぎ出された言葉を聞いたリドディエは、心底安心したと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべた。
その後、優しい声音で問いかけてくる。
「昨夜は、よく眠れたか」
「ええ……。おかげ様で……」
エクリーユは戸惑いながらも、気まずそうに視線を反らしつつ声を発し
た。
彼はそんなこちらの反応が気に入らないようだ。
心配そうに、顔色を覗き込んできた。
「その割には、顔色が悪い。無理をしているのなら……」
「ち、違うの。これは……! 黒猫さんを追いかけるのに、疲れてしまって……!」
「ああ……。執務室から寝室までは、距離があるからな。無理もない」
彼はこちらの主張を耳にしたあと、納得した様子で小さく頷いた。
冷たい印象を与える紫の瞳が、優しく和らいでいるのが印象深い。
エクリーユはその視線に耐えきれず、気まずそうに目を伏せた。
「すまん。一段落したら、会いに行くつもりだったのだが……」
「ごめんなさい……。やっぱり、会いに来るべきではなかったわ……」
「なぜだ」
「だって、お仕事の邪魔を……」
2人はほぼ同時に謝罪をする。
しかし、エクリーユの言葉を耳にした彼はそれを素直に受け入れてはくれなかった。
「僕は、嬉しい」
「リドディエ、様……?」
「君がこうして、話しかけてくれるなど……。夢のようだ」
少女がリドディエに嫌われることを恐れて遠慮いるのに、気づいたのだろう。
彼は心底嬉しいとばかりに喜びを露わにしたあと、優しく口元を綻ばせた。
「殺風景な部屋だが、ゆっくりして行ってくれ」
「陛下のお心遣い、感謝いたしますわ」
「ああ……」
恭しいカーテシーとともに感謝を伝えれば、リドディエは長い黒髪が揺れる姿を観察したあと、ぽつりと呟く。
「君はとても、礼儀正しい姫だな……」
「そう、かしら……? 私は、ガサツで野蛮なほうだと思うわ」
「なぜ?」
「だって……。王族に相応しい教育を受けられたのは、5歳の時までですもの……」
エクリーユはポツリと呟いた国王の声を拾い、どこか恥ずかしそうに理由を告げた。
「その割には、しっかりしている」
「テラマが時折、教えてくれたおかげよ。あとは……。母親の姿を、見様見真似で……」
母と呼んで敬愛することすら、今となっては忌々しい。
唇を噛み締めたエクリーユの表情には、一気に影が差す。
そんな婚約者の姿を目にした彼は、眉間にシワを寄せながら少女に告げる。
「嫌なことを、思い出させたな」
「リドディエ、様……?」
「昔話など、するべきではなかった」
「ん……。髪の毛、くすぐったいわ……」
「触れられて、嬉しそうな顔をしているように見える」
「あ、あの……。それ、は……」
「違うか?」
彼は何かへ導かれるように黒髪へ優しく触れたあと、不敵な笑みを浮かべて問い返す。
エクリーユは言葉を詰まらせ、恥ずかしそうにぽつりと呟いた。
「陛下の行動は、心臓に悪いわ……」
「その言葉、そっくりそのまま返そう」
少女は真紅も瞳を潤ませ、リドディエを見上げる。
彼は嬉々として黒髪を一房手に取ると、毛先をパクンと口の中に入れてしまった。
「エクリーユの表情は、とても可憐で……食べてしまいたくなるほど甘美な果実のようだ……」
「ひゃ……っ。だ、駄目よ……っ。そんな……っ。汚い、から……っ!」
「君を構成するすべてに、穢らわしいところなどありはしない」
はむはむと味わうように舌で転がす姿を見るだけで、恥ずかしくて仕方がない。
エクリーユの頬は真っ赤に染まり、経験したことのない感情が心の奥底から湧き上がってくるのを止められなかった。
(この気持ちは、一体……?)
家族の誰とも似ていない黒髪を愛おしそうに唇に含む彼が、何を考えているのか知りたい。
そんな気持ちに苛まれた第2王女は、精一杯背伸びをして己の毛先を弄ぶ彼の手首を掴んだ。
「どうした」
「な、なんだか……。変、なの……。身体が、熱い……。ぽかぽか、して……」
「それは僕の愛を受け取り、喜んでいる証拠だ」
「これが、愛……?」
「ああ」
エクリーユが純粋無垢なのをいいことに、リドディエは間違った知識をさり気なく植えつける。
「君は今まで、とても悲しい経験をした。そのつらい記憶を、僕の愛で癒やして欲しい」
「陛下……」
「そう願っているから、君の身体に触れた。エクリーユが、嫌ならもうしないが……」
彼は切なげに紫の瞳を細めると、ゆっくりと身体を離した。
(心臓が、バクバクと高鳴って……。身体に力が、入らないわ……っ)
支えを失った第2王女は、その場に力なく座り込んだ。
(こんな気持ちになったのは、初めてで……っ)
どうすればいいのかなど、さっぱりわからない。
エクリーユは助けを求めるように、潤んだ瞳をリドディエに向けた。
「エクリーユ。僕に、どうしてほしい?」
「わ、私は……」
「ああ……」
「嫌、だわ……」
「わかった」
どうやら彼は、少女の願望を違う意味に受け取ったらしい。
背を向けると、歩き出してしまう。
「待って……!」
エクリーユはみっともなく床の上を這いづると、陛下の腰元に縋りつく。
「ち、違うの。陛下を、拒絶したわけじゃ……」
「そうなのか?」
「お願い……」
彼が不思議そうに、問いかけている。
それに答えなければと思うのに、喉が引き攣った。
それは過去の光景を思い出し、泣きそうになったせいだ。
『やめて、お兄様! 助けて!』
『縋りついてくんじゃねぇよ! この無能が!』
『きゃあ……っ!』
それでも――ここでちゃんと言わなきゃ、後悔する。
そう思ったから、エクリーユはか細い声を響かせた。
「捨てないで……っ」
「エクリーユ……」
「いい子に、するから……っ」
「ああ。そばにいる」
「え……?」
彼は困惑する第2王女に向き直ると、細い身体を優しく抱き上げた。
少女が突如感じる浮遊感に戸惑っていると、リドディエは申し訳なさそうに謝罪をした。
「不安にさせたな。試すようなことをして、悪かった」
「リドディエ、様……?」
「僕もまだ、君との距離感を測りかねている」
「それは……。無理も、ないわ……。出会った、ばかりですもの……」
「ああ。だから、時間をかけて互いのことを知っていこう」
どこか悲しそうに目を伏せた第2王女の姿を目にした彼は、少女の小さな手を大きな指先で包み込む。
繋いだ手から伝わる熱にドキドキと胸を高鳴らせれば、リドディエの低い声が紡がれた。
「嫌なことは、はっきりと拒否してくれ。二度としない」
「は、はい……」
「だが、断らないものは……。喜んでいると判断して続ける」
彼はそう宣言すると、エクリーユと繋いでいた手を離して小さな身体を抱きしめる。
「今は、どうだ。こうして抱きしめたり、抱きあげたりするのは……嫌か?」
「いいえ……」
「それを聞いて、安心した」
陛下は紫の瞳を優しく和らげると、エクリーユを抱き上げたまま移動を始めた。
(どこに行くのかしら……?)
少女は不審がっていたが、目的地にはすぐさま到着する。
彼は書類が山積みになった執務机の前に置かれた椅子へ座るため、歩みを進めていたらしい。
「なぁん」
長机の端には、「待ちくたびれたよ」と呆れたように鳴き声を響かせる黒猫の姿がある。
小動物のことをすっかり忘れていたエクリーユは、嬉しそうに口元を綻ばせて獣を呼んだ。




