捨てられた子猫
少女はこのまま抱きついていたら小動物を潰してしまうと焦り、慌てて乳母から距離を取る。
突然身体を離した姫の姿に彼女も驚いていたが、胸元に黒猫がいると気づいてようやく合点がいったようだ。
テラマは猫目をじっと見つめ、口元を綻ばせた。
「お勤め、ご苦労さまです」
「にゃあ」
乳母に労りの言葉をかけられた黒猫は、「苦しゅうない」と言うように目元を和らげる。
その様子をぼんやりと観察していたエクリーユは、思い切って彼女に問いかけた。
「この黒猫さんを、知っているの?」
「ええ。もちろんですよ。こちらの方は、陛下の使い魔であらせられます」
「んなぁ~」
乳母の紹介を受けた黒猫は、「えへん」と威張るように胸を張る。
そんな愛らしい獣の姿を目にした少女は、真紅の瞳を和らげて小動物の首筋をころころと指先で転がした。
その様子を微笑ましそうに見つめたテラマは、補足説明を行う。
「王城内で姫様に仇なすような不届き者がいるとは到底思えませんが、いつ何が起きてもおかしくはない状態ですので……。恐らく、陛下の命を受けたのでしょう」
「リドディエ様の変わりに、私を守ろうとしてくれたのね?」
「にゃあん」
「ありがとう……」
第2王女は素直に獣へお礼を告げると、小動物を抱きしめる力を強めた。
(この子と指を触れ合わせた直後、異能が目覚めたんですもの……。もしかしたら、それも……?)
ある疑問を解消するため、エクリーユは黒猫を持ち上げて向かい合わせの体制に変化させると、真紅の瞳をじっと見つめて問いかける。
「私が無能ではなくなったのも……。あなたと、陛下のおかげかしら……?」
「んなぁ~」
ゴロゴロと喉を鳴らした動物は瞳を細め、嬉しそうに鳴き声を響かせる。
『その通り!』
そう言っているように聞こえたからだろう。
エクリーユは、この場にはいない彼の姿を思い浮かべて思案する。
(あの方が、私を傷つけるためにここへ連れてきたわけではない……。それはどうやら、本当のようね……)
最初から疑う余地がないほどに優しい瞳で自分を見つめている。
それをしっかりと認識はしていたつもりではあったが、だからといって出会ってすぐさま心を開けるほど少女も馬鹿ではない。
(見極めないと……。時間を、かけて……。本当に、信頼できる人なのか……)
第2王女の表情が曇ったからだろう。
テラマは恭しく頭を垂れると、改めて姫に忠誠を誓う。
「私は本日より、姫様の側使えを任されました。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「あなたが一緒なら、心強いわ……」
「はい! 誠心誠意、姫様をお支えいたします……!」
こうして乳母がそばにいることを許可した直後から、献身的な彼女の世話が始まった。
湯浴みから始まり、髪を整え、食事の準備まで。
自国で暮らしていた頃とは雲泥の差がある高待遇に、第2王女は目を丸くした。
「私はこんなふうな扱いを受けられるほど、高貴な人間では、ないのだけれど……」
「何を仰っておりますか! 姫様はれっきとした、アティール王国の第2王女ですよ?」
「でも……」
「王家の姫たるもの、隣国の王族へ嫁ぐのは当然のことです。今までのことは忘れ、どうぞ心置きなく陛下のご寵愛をお受け取りください」
「あ、い……?」
エクリーユは聞き慣れない単語に、目を丸くした。
誰かに愛を注いでもらう経験など、少女には数えるほどしかなかったからだ。
テラマは少女の反応は織り込み済みだと言わんばかりに、優しく口元を綻ばせて頷いた。
「ええ。陛下は姫様を、とても気にしていらっしゃいますよ」
「私たち、この間まで……言葉を交わしたことすらなかったのに……」
「面と向かって会話をしなくとも、他者を愛することはできます。姫様には、難しいでしょうか」
「……そう、ね……。他者の気持ちは、よくわからないわ……」
自分に愛を注いでくれたムガルバイトがリシーロを選ばなければ、愛とはなんて不思議なものなのだろうかと思えたかもしれないが……。
彼が己を捨てて妹を優先した時点で、少女は何を信じればいいのかすらも見失っていた。
「でしたら、陛下と過ごす時間をお増やしになったらいいかと思います」
テラマは名案を思いついたとばかりに優しく微笑むと、戸惑うエクリーユの背中を押す。
少女は目を白黒とさせながら、困惑の色を隠せぬままポツリと疑問を投げかけた。
「で、でも……。お仕事が、忙しいでしょう……?」
「いいえ。姫様がお会いになりたいと望むのでしたら、いつでも案内するようにと仰せつかっております」
「私が行ったら、迷惑なんじゃ……」
「きっと、喜ばれますよ」
「なぁん」
乳母の言葉に同意をするかのように胸元で鳴き声を上げた黒猫が、ぴょんっと床の上に飛び降りる。
その後、トタトタと開け放たれた扉から廊下に出て行ってしまった。
まるで、「こっちにおいで」と自分を誘導しているかのように――。
「ま、待って! 黒猫さん……っ!」
エクリーユは着慣れないドレスの裾を踏んづけて何度かつんのめりそうになりながらも、よたよたと覚束ない足取りで四肢を動かし、軽やかに大地を駆ける獣を追いかけた。
*
(心を許した人間以外に見られるのが、いつだって怖かった)
第2王女という肩書きは、本来己の身を守る鎧であったはずなのに――無能の烙印を押された自分は身ぐるみを剥がされ、使用人以下の扱いを受けていたからだ。
『ねぇ、見て……。第2王女よ……』
『なんてみすぼらしい格好をしているのかしら』
『仕方ないわ。不義の子ですもの』
――でも……。
どれほど周りから白い目で見られようとも、今日は気にならなかった。
エクリーユは黒猫を追いかけるのに必死だったからだ。
「ど、どこに行くの……?」
「なぁん」
「も、限界よ……っ。や、休ま、せて……っ」
異能を顕現させるための体力づくりを始めたおかげでだいぶスタミナはついたが、強大な炎を長時間操り続けた翌日だ。
数時間眠った程度で回復するはずもなく、ちょっと早歩きになった程度ではすぐに限界が来てしまう。
エクリーユはその場にへたり込みそうになりながらも、廊下を右に曲がってある部屋に飛び込んでいった獣の背中を追いかけ――。
「ぁ……っ」
中へ一歩足を踏み入れた瞬間、ドレスの裾を踏んづけてつんのめる。
(倒れる……っ)
小さな身体が一瞬だけ宙に浮かび、前方に傾いていく。
少女は痛みに耐えるため、ぎゅっと真紅の瞳を閉じた。
「危ないな……」
第2王女はいつの間にか、室内にいたと思われる男性に抱き留められていた。
それが誰かなのかを声で気づき、少女は彼の姿を視界に映しながら呆然と呟く。
「へ、い、か……?」
「ドレスはよく似合っているが、丈が長すぎる。もう少し、短いものを用意させよう」
「あ、ありがとう……?」
「どういたしまして」
彼は紫の瞳を優しく和らげると、エクリーユの額に優しく口づけた。
(リドディエ様が……。私の、額に……?)
ムガルバイトにだってしてもらった覚えのない体験をした第2王女は、目を白黒させて驚く。
その様子を不愉快そうにじっと見下した陛下は、低い声でぽつりと吐露する。
「僕が触れるのは、嫌か」
その声音が、瞳が、細い身体を抱く手が、全身が訴えかけている。
『拒絶しないでくれ』
まるで、捨てられた子猫のように――。




