1-1 日常からの転落
――あの朝のことを、俺は何度も思い返す。
すべてが、まだ取り返しのつく日常だった頃の話だ。
その朝、俺は大学時代からの友人――柏木の勤める、
大手ストレージメーカー『ギガ・レイド』のオフィスへ向かっていた。
どうやら、渡したいものがあるらしい。
家を出る前、俺は妻の明美と、娘の絵美に言った。
「それじゃ、篤史に会ってから出社する。
会社にも、そう伝えてある」
玄関で靴を履きながら言うと、明美が柔らかく微笑む。
「行ってらっしゃい、あなた。
今度、柏木君とも家族そろって食事でも行きたいわね」
「……行ってらっしゃい、パパ」
絵美は、少しだけ言葉を選ぶようにそう言った。
その視線が、ほんの一瞬だけ俺から逸れたことが、
なぜか心に引っかかった。
だが、遅刻しそうだった俺は、
その違和感に名前を与えることなく、家を出た。
◆
「で、最高技術責任者の柏木様が、
わざわざ呼び出した用件って何だ?」
「誠司、水臭いな。
篤史でいいって言ってるだろ。
……それより、これだ」
柏木が差し出したのは、見慣れたmicroSDカードだった。
「microSDUCか。
今どき、珍しくもないだろ」
「いや、これは違う。
SDUC規格の最大容量――128TBの試作品だ」
「……は?」
一瞬、言葉が詰まる。
「お前なら、使いこなせると思ってな」
「128TBって……
高画質動画でも、三ヶ月は回しっぱなしだぞ」
「まあ、作っちまったもんは仕方ない。
何かの役に立つかもしれん。
持ってけ」
「……相変わらずだな」
俺は苦笑しながら、それを受け取った。
「そうだ。
妻が、今度家族で食事でもって言ってたが」
「悪い。
スケジュールが詰まってる」
「だろうな。
分かった」
「用件はそれだけだ。
行け行け」
「はいはい。
データは後で送るからな」
◆
自社に出社すると、すぐに上司の高満が声をかけてきた。
「神宮君。
ギガ・レイドの要件は何だったんだね」
「いや、新型のSDカードを一枚渡されただけですよ。
娘にでも渡そうかと」
「そうか。
もしウイルスでも仕込まれていたら、
通信大手MKKの信用は地に落ちる」
高満は、穏やかな笑顔のまま言った。
「気をつけるように」
「ええ。
気をつけます」
その背中を見送りながら、
胸の奥に、言葉にならない違和感が残った。
――なぜ、そこまで気にする?
だが、その時の俺は、その疑問を掘り下げることをしなかった。
◆
帰宅後、俺は絵美にmicroSDUCカードを手渡した。
「少し早いけど、七歳の誕生日プレゼントだ。
容量が大きいから、写真も動画も撮り放題だぞ」
「ありがとう、パパ」
絵美は受け取り、少し考えるようにカードを見つめた。
「……これで。
ううん、何でもない」
「そうか?」
「うん」
その笑顔は、いつも通りだった。
――少なくとも、その時の俺には、そう見えた。
◆
それから、三ヶ月後。
休日の昼下がり、家でくつろいでいた俺のもとに、警察が来た。
「神宮 誠司。
故意による情報流出の容疑で、逮捕する」
「……待ってください。
そんなこと、していません。
証拠は?」
「君のIDでログインし、社内PCから海外へ機密データを送信した記録がある」
さらに、と刑事は続けた。
「君の机の中から、数億円相当のビットコインが入ったカードも見つかった」
頭が、真っ白になった。
俺は、そのまま手錠をかけられ、連行された。
外に出ると、マスコミと野次馬の向こうに、高満がいた。
――悲しそうな顔で。
その直前、絵美が駆け寄ってくる。
「お父さん、これ」
小さな手が、俺にお守りを握らせた。
「お父さんの無実を晴らすお守りだよ」
「……絵美」
明美が泣き叫ぶ。
「信じてるから!
私が、何とかするから!」
俺は、何も言えなかった。
こうして――
俺の日常は、音を立てて崩れ落ちた。
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