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息が浅い。先生がいない。学年集会は嫌いだ。
二階の高さにある窓から陽の光が降り注いで渡り廊下が白く明るんでいる。
そこを一目散に駆け抜け、低学年のクラスが並ぶ廊下に出た。まだ授業時間中で廊下からは先生に視線を一心に向ける子どもがわらわらと見えた。
すぐ目の前に見えるトイレに駆け込んだ。仕切りの高さが心なしか低く感じられて思わず口をへの字に曲げたが、仕方なく便座に腰を下ろす。太腿が収まりきらない。便座も一回り小さいように感じられた。
先程の子供たちの姿が脳裏によぎる。そのなかには掃除の縦割り班で同じになったことがある男の子もいただろうが、横目では分からなかった。当時一年生だったその子は無口で、私は男の子の笑ったところを見たことがなかった。
邪気のない子供たちのことを考えていると、途端にあの子たちのトイレを拝借していることに落ち着かなくなってきた。一刻も早く用を足したかったが、焦れば焦るほどなかなか出てこない。膀胱があると思われるところに触れて、拳を作ってがんがん振り下ろす。
疲れて息を吐いた。
温かいものがこぼれ落ちたかと思うと、少しの間を置いてやっとおしっこは出た。
トイレを出てから体育館とは真逆にある玄関の方に向かった。こちらは旧校舎で薄暗かった。
どこかに隠れたい。中学校は隣にあるのになぜか私は小学校にいた。
三階の突き当りの高学年用の図書室を覗いたが、少し話したことがある程度の図書室の先生がパソコンに向かって作業をしていて入りにくかった。
来た道を戻り、防火用のドアと手すり壁の間に座り込んだ。怖い。今頃は皆教室に戻っている頃だろうか。思い思いに近くの席の子と喋って、先生は頬杖をついて見るともなしにどこかを見ていて、私なんかには興味も持っていない。家と学校以外のことは知らない。学校がすべてだ。教室に入りたくない。めんどくさい。もういやや。普通に生きられん。これからどうするんやろ。
頭を膝に押し付けて、暗闇の中で思っていることを言葉にしたり、思っていないことも言ってみたりする。
暗闇の中でチャイムが鳴った。何時を知らせるチャイムかが分からないので、像を結ぶことを放棄した目をぴくりともさせないで耳を澄ます。
目が乾いたのか突然泣きたくなった。涙は落ちてこないがさっとベールがかかるように目が潤った。口もへの字にひん曲がって、いつになく不細工な顔をしているんだろうと思うと体が冷めた。
冷めたら今度は教室の方に体が勝手に向かって、そうして歩いているうちにいつの間にか体温が戻った。
廊下には人気がなかった。皆帰ったんだろうな。一組と二組の教室には二三人の人がいた。三組の教室には誰もいないのに電気がついたままだった。空っぽの教室に入るといつもとちがう雰囲気を感じたので、荷物を掴んで足早に立ち去る。
廊下に出たところで、スマートフォンが鳴った。
「○○ちゃんが受験する大学の事やけど……」
女の声だった。何とも言いようがなくて口を開けないでいると、いつのまに切れていたのか耳から話したスマートフォンの画面は何も写していなかった。
職員室の方に行き、ドア越しに先生を見つけようとしたがいない。相談室にも図書室にもいない。
教師用の下駄箱に行って名前があるか見てこよう。唇が独りでにすぼまったり、横に固く結んだりした。私の体は落ち着こうと必死なのだ。
* * *
数年前に卒業した学校の玄関に佇んでいる。今まで先生に会いたいと思うことはあっても会いに行ったことはなかった。なぜここにいるのかが分からなくて、ここに来た道筋さえ思い出せない自分が怖くなる。
一歩踏み出したが、恥ずかしくて真っ赤に膨れた頭を垂れながら生徒がごった返しているなかを縫って歩いた。先生がどこにいるかも分からないから一階から三階まであらゆるところを探した。
人気のない廊下。まだ新しくて灰白色のつるつるとした壁が薄暗さを増加させているような空間に目が奪われて、どこを見ているのか分からないが、身体は糸で引かれるように進んだ。それと同時に恥ずかしい気持ちも忘れた。
突然視界の横に現れた奥まった部屋ではおじさんたちが話しているのが見えた。
見たことのある顔だったのでドアの左右から突き出た壁の一方に寄り聞き耳を立てた。
「……そんな子もいましたね、福永先生の受け持った子でしたっけ」
「あの子もすぐ辞めてさぁ」
「ほんとですか」
「……へえ、せっかく行ったのに……」
「ほんとだよ」
嘲る笑い声が口から漏れ出たような音が耳に届いた。
私の話だ。化学の先生だっただろうか。入学して一か月も立たないうちに高校を辞めた私に呆れているのだろう。
その場を離れてふらふらと数歩行くと、実験室に先生がいるのが見えた。皆の実験台を見て回っていて、私は少し離れてドアのガラス越しから眺めた。先生にとっては私がいてもいなくても変わらないのだ。私の担任をしたことは豆粒ひとつを当てられたみたいに訳ないことで、先生の人生には少しも関係しない。それで生きていけるのだ。
出口を求めて歩いたものの道を失ってしまったので、近くにいた用務員さんに外に出してもらった。二階の簡素なドアから伸びる階段を降りるとそばの雑草だらけの花壇に猫がいた。薄茶と白の毛色を持った猫でじっとこちらを見ている。
突然後ろのドアが開く音がしたかと思うと、振り向く間もなく私の名前を呼ぶ声がした。先生は私の苗字を呼び捨てにしていた。先生の見た目にはその名前の呼び方は不似合いで、二つは独立していた。が、くっついてもいた。それは、私には先生の実体をさらに引き立てているように、際立たせているようにも感じられた。




