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 美香は私が嫌だと言ってるのにつねってきた。小動物や虫のようにぐるぐるまわって素早く逃げているのに、私はいつのまにか向かいに立っている美香に腕をつかまれていて、いつ襲ってくるか分からない痛みに目をぎゅっとつむって構えた。どこにしようかな、どこが良い?と笑みを浮かべて聞いてくるあの子に皮の薄いところは嫌だと指差した。二回、三回とつまみあげられ、ひねりあげられた。

 昼休み、掃除のためにみんなの机が後ろに下げられた。空いた前方の窓辺に五人ほどが居合わせ、私は最近見たらしいお笑い芸人のネタを宣伝する一人の話を聞いていた。

 そばにある電源の落ちたテレビ、黒や濃い紺色に光る画面には私たちの姿が浮かびあがっていた。美香もやってきて無言で私の腕に手を伸ばした。友達はいつものことだというように私たちに干渉してこなかった。

 だが、彼女は教室でしか私をつねらなかった。

 週に二度ほど遊びに行く彼女の家では、二人でこたつに入って宿題をしたり、漫画を読んだり、「あたしンち」を見たりしてゴロゴロと過ごした。私は美香の家で過ごすのが好きだった。物が雑多に散乱している細い廊下、そこに据えられている洗濯機、私たちが普段過ごす部屋の奥にある真っ暗な畳の部屋。彼女が何かを取り出すときにそこを垣間見る。私はよくお化けのいそうな異空間を覗いた気分でいた。化粧気のない彼女のおばさんが彼女を呼び捨てにして話しかけるとき、両親でも先生でも親戚でもない大人に会った。あの部屋が私たちの拠点だった。美香は私の家に来たことはなかった。

 裏の勝手口であの子が背後に立って私を見送ってくれた。西日が細く落ちている靴に足を突っ込み、家までの道を駆け抜けると涼しい風にさらされた身体が途端に興奮で熱くなった。

 私がアイカツカードやプリティストーンにはまり美香に見せたあと、彼女も真似して何枚も何個も持ったので交換した。私がお小遣いでコツコツ集めた数枚のカードや、十個もないストーンとは比べ物にならないくらい何十とあの子は持っていたが、彼女が持つカードやストーンはどこか擦れていてあまり魅かれなかった。

 美香の家で遊んでいるとき、瞬きもしない目で様子を窺うあのいじわるな気配を見せてくる時もあったが、こしょこしょと足をくすぐってくるだけだった。

 すごくこしょばくてヒーヒーと息も絶え絶えに悶えてしまうが、足をバタバタさせて彼女の体にけりを入れて抗戦した。彼女の体にけりを入れるとき、もちろん人の体を蹴ることはよくないことなので手加減をするが、ケラケラと絶えず笑いながら、密かに的を狙って彼女のあばらに触れたことを感じながら後ろに突いた。

 美香は一番の友達ではないが嫌いではなかった。

 クラスで嫌われ者ランキングをしたら一位か二位に躍り出そうなあの子はうっすら女子に嫌われていたし、シングルマザーの家庭でかわいそうな子だと思っていた。

 そこには別に同情心もなかった。彼女の心情は想像したことすらなかったのだ。

 この年頃は背の高さと精神年齢の高さが比例しているのではないか、と考えることが最近ある。同級生に追いつけないような見えない壁が存在していながら、当時はそれが何か分からなくて、分からないまま日々を過ごした。クラスで一番背の低かった私が中ほどにいたあの子を下に見ていたというのは今の言葉に矛盾するが、彼女は見た目とは裏腹に、幼稚園児が書く絵のように髪の毛一本のツインテールと、顔の面積に対して大きすぎるダンゴムシのような目をもった人物を落書き帳に描いていた。

       *    *    *

 もうアプリは見たくなかったが、あの人にまだアプリは消さないでおくと言った手前消すこともできず、とりあえずホーム画面から除くだけにした。

 あの人は約束の数日前になると何度か私に足跡をつけた。

 中学生の時に好きだった担任と同じはるやという名前だったのに、約束の車のサイドガラスから覗くあの人の顔は先生とは正反対だった。短い髭を蓄え、髪をゆるくセットした男に内心がっかりしながらも、緊張する心臓を抑え、苦しい短い息を吸いながら話を交わした。

 先生は私と同じ背の高さで、色が白いきれいな肌をしていた。初めて見たときは、黒縁の眼鏡をかけていて犯罪者みたいだと母親に愚痴を言ったものだったが、いつの間にか先生と話せると嬉しくなっていた。

 私の顔は内側から燃えるように赤くなったが、他の先生と話すときと同じように笑顔を見せることなく淡々と話した。他の子みたいにからかったり、甘えたりするような好意がにじみ出るような喋り方はしなかった。私の好意はばれたくなかった。

 あの人の年は、おそらく今の先生と同じだ。でも先生はあんなにはおじさんになっていないだろうなと思う。

       *    *    *

 鬱々とした日が二週間ほど続いたある日、学校が終わって夕食を食べていると強烈に家に帰りたい念に駆られた。私の口は目よりも物を言って、物を噛み潰す口の両端が段々と下に垂れ下がった。

 急いで洗い物を済ませ、荷物を詰め込み家を出た。

 私の地元に行く普通列車はもう走っていなかったので、特急列車の切符を購入した。出発まで四十分ほど時間があったので、駅の構内で買ったグミやドライフルーツをつまみながら青空文庫にある山川方夫の「暑くない夏」を読み始めた。

 一つ隣の椅子に若い男の人が座った。あの人の車と同じ匂いがして顔をしかめながらも、ああ、あれは芳香剤じゃなくて香水の匂いだったのかと思い当たる。フルーティーだが嫌に鼻にまとわりつく匂いに、落ち着きもなく貧乏ゆすりをした。スマホの側面を指がカチカチと鳴らし始めたが、文章を追うのを止め足元の一点を見つめることでどうにかやり過ごそうとした。

 五分ほど経ち、目の前のトイレから出てきた女の人が男のそばにより二人は連れ立ってその場を離れた。放心したように足を投げ出し空を見つめた。

       *    *    *

 そもそもあれは、あの子が懐かしくてまた同じようにしてくれる人を探した結果で、私が望んだことだったのに今はもう嫌悪しか感じなかった。

 八月十五日、叔母の家へ行く車の中で崖の反対側に聳え、こちらに迫ってくる深緑色の山々を見つめながら、先生の事を考えた。先生が私の家のトイレでおしっこをしているところを想像した。私がそばで見ているのを恥ずかしがっている先生に

「でも排便を見られるよりかはいいじゃないですか」と言う。

 こんなふうに妄想していることも、いざ現実となって私の目の前で排泄している先生を見たなら、あの人と同じように嫌いになるのだろうか。いや、あの人のことは嫌いになったわけではないのだ。何に対しての嫌悪なのか自分でも分からない。ただ私の中のどこかが時たま苦しくなる。苦しさは断続的に起こるので自分でも忘れている時がある。苦しさは何枚もの透明な層が白くなるほど重なったところにあるので、層が剥がれ落ちてぼんやりした影が見えるとき、自分でもその存在に気づかない。何だろう、なぜだかやる気が出ない、と透明の柔らかい糸に全身を軽く縛られるような感覚で、焦燥感も湧かない。


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