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机の上の時計の針が午前一時過ぎを指した。ここ二週間ほど何とか進めなければと焦っていたレポートの完成した姿がパソコンの画面に映し出されている。ある資料を引用した。レポートの骨子あるいは肉の一部になるものだった。だが、それに即して文章を肉付けしていこうとこだわり続けたためになにも浮かばず筆が滞っていたのだ。長い時間苦心していたそのレポートを最初に漠然と決めていた期日より一週間も後になって、ようやく一通り書き終えた。
ゆっくりと腰を上げて、痛む肩をぐりぐりと指圧し、冷蔵庫からヨーグルトを取り出してバイト先でもらった焼き菓子と机の上に並べる。ツイッターを開いておすすめ欄をなんとなくスクロールして疲れた体と脳を癒す刺激物を求めた。深い息を吐きながら心臓は早く鼓動していた。
このレポートを仕上げないと行けないと思っていた実家に行くことが出来そうなので、早く眠ろうとメイクを落とし、冷たい水道水で顔を洗った。
布団に入ってから何十分かが経った。
心臓の音が静かな体の中で響いている。時折それはゆっくりと脈打つ時もあったが、頭はまだ冴えている。
目を閉じると星ひとつない夜空が目の前に現れて、草原に寝そべりながらそれを見ている気持ちになった。
また目を閉じると今度は魚のうろこみたいな薄い白色のかけらが眼前の底から立ちのぼるように現れて、少し経つと不規則な模様へと姿を変えた。紫色の線にかたどられたものもあって、昆虫の目の中にいるような錯覚が起きる。
二三度トイレに立った。トイレから帰ってしばらくすると、横になった膀胱がまた輪郭をはっきりとさせ、その存在を主張し始める。また、トイレに立ち、今度は寝る方向を変えた。いつもの足元に枕を移して横になった。
目はずっと閉じていた。今の自分の寝顔が頭の中に浮かぶ。(もしくは、私の双子の妹の寝顔かも知れない。この歳になってからの自分の寝顔は見たことがない)全く寝ているようでいて、頭の中はさまざまな映像をせわしなく映している。誰を妄想しても途切れ途切れでワンシーンももたない。外からは分からない世界を人は持っているのだなと思う。
* * *
昨夜書き終えたレポートを見直し少し推敲を加えた。おわりの章で言いたいことが上手く言葉にできなくて、たった一文を何度も書き直した。そのたびに文字数をパソコンに数えさせて、今の文字数を消して新しく入力した。それの繰り返し。
今朝はお昼前に起きたので、結局電車に乗れたのは十四時の少し前だった。
終着駅まであと四十分ほど、田んぼや山が左右に連なり始める。林の枝がプラットホームを越えて手を伸ばしているのを許す小さな駅が多くなってきた。
車窓からは真夏の真っ青な空が見えるが、照り付ける日差しは強くなかったのでブラインドは挙げたままにしておく。窓枠にはさっきからずっと仰向けになって腹を見せている羽虫がいる。お腹が時折、日差しを反射して鈍い色を放った。
斜向かいに登山客風の格好をした男が座った。本を読む体制は変えずに、視界の隅に映るぼやけた姿を注視した。足を大きく開き、大きく息を吐く動作の大きいところから外国人かなと思う。
そうすると本を読む姿勢にもどことなく見栄が出る。考えていることなどまるで読めない外国人相手に感覚の小さな針を反応させて、シートに座っている私の外見を頭の中に見る。
誰も私のことなど気にしていないのに、いつもそばの人間の存在を強く意識する。
タイミングを見はからってその顔を見ようと、窓に映る青いトップスに何度か目をやる。
普通の日本人だ。
何も考えていない一瞬の隙を狙って目が勝手に動いたのか、上目遣いで睨むような形でその顔を捉えていた。
視界の端に映る男の腹は、男がそこに手をやっているために臍を出しているようで、時折上下に動くその手は股間をまさぐっているように見える。あの人を思い出して気分が悪くなった。
本を閉じて車窓に流れる緑に目をやりながらも、隅に映るその手の動きに少し目頭が熱くなる。
高校生の時に乗っていた電車で、隣の男に露出した下半身を見せられたらしい女の人がいた。いつもと同じ無人駅に着いたかと思うと、いつまでたっても発車しない。そのうち警察が来て車内の写真を撮っていった。後日の新聞で何事があったかを知ったのだ。
この人もあの時と同じ、痴漢なのか。
時折、嘲るようにため息をつく。その音もあの人を思い出させた。
私の視線は窓に向けられているが、意識は決してガラス窓の外を見通さないで車内のぼやけた空中にある。瞼は二重に食い込む程見開かれているのが目の渇きで分かった。
* * *
あの人は体をのけぞらせてばかりいる私に困ったように、じっとしてと呟いて手首を壁に押さえつけた。もうと苛立ったように低く唸り、ため息をついた。怖かったが、自分がこの人を苛立たせているという事実が恥ずかしかったので、それには気づかなかったふりをして、じっとした。
女の私でも身をかがめないけないほどサイドドアの低い、黒色の車で近くの駅に送ってもらった。家に帰って部屋着に着替えようとTシャツとスカートを脱いだ時、二の腕や太もも、足の付け根にはもう紫色のシミみたいな痣や小さな斑点ができていて、嬉しくなった。
布団に寝っ転がってあざを見つめた。手を伸ばして鏡を手に取り、顔に影が落ちないよう適当なところで鏡の位置を微調整する手を止める。見るとアイメイクはほとんど落ちていて、そのことにぎょっとして飛び起きて電気の下でもう一度じっくり顔を確認した。やっぱり消えかかったアイラインがゴミみたいに目じりについていて、この顔を助手席の車窓から降り注いでいた日の光に晒しながら、言葉を交わしていたのかと急に恥ずかしくなった。いつもよりくっきりとしない目元は脳裏にずっとこびりついた。
しばらくはその痣を見るたび元気になった。あんなに耐えたのだ、頑張った証だと自分をやさしく撫でるのは初めての経験だった。
Tシャツの袖から覗くか覗かないかのぎりぎりのところに痣はあった。それに困ったと思ってパーカーを羽織りながらも、六月にパーカーを着て、群がる痣を中に秘めている自分に得意になった。だが、それも長くは続かなかった。痣も黄身を帯び始めて、毒々しい色が消えかかってきたころから鬱々とした日が続くようになった。
ホテルの部屋について荷物を下ろして向かい合ったとき、「じゃあいくよ」と丁寧に前置きの言葉を口にしてから平手打ちしてきたこと。あのため息、嫌だと言ったのに乳首や陰部に洗濯バサミを挟んできたこと、そのときの狙いを定めようとする真剣な目つき。呻き仰け反る私の手を持って自分の陰茎に持っていったこと、その薄い膜に覆われたようなすべすべとした感触。ベッドから弾かれたように飛び降りてズボンを手に持つあの人の茶色いしみだらけのお尻、そそくさとおもちゃを集め帰る準備をしているところ。それらが脳裏をよぎるたびに、手に汗がにじんだ。
あれもある種の自傷行為なのかとも考えたが、自傷行為と私とはひどく不似合いに見えた。今までskテープで自分の首を絞めたことはあっても苦しくない百歩手前で加減したし、悲しみのままに手をかけるまねごとをして自分が落ち着くのを待っていただけだ。痛いのは怖いので自分のことを刃物で傷つけたこともない。自分を傷つけたかったのではなくて、あの時みたいに私の皮膚の表面をヒリヒリとさせるほどつねってくれる誰かを欲っしていただけだったのだ、とそういう考えに結局は行きついく。
あの子は遠いところに行ってしまったなあ。怖いくらい普通の人になって、たまに話したときのあの子の目は私を見ているのに真っ暗で何を考えているのか分からなかった。




