第一章 第八話 「灯火」
久しぶりの村は、変わらず静かで、風と土の香りが漂い、遠くで薪の爆ぜる音が微かに混じる。
この世界にも新しい年を祝うという文化があるらしく、年の瀬にハイメとアラトはピンケット村に帰ってきた。
「結局麻薬の出処は分からずじまいでしたね」
「私の権能を持ってしてもさっぱりだったな」
ティアが小さなテーブルに料理を並べる。湯気がふわりと立ち上り、素朴だが温かい香りが部屋を満たした。
腹の底が正直に反応し、アラトの腹が情けなく鳴る。
「久々に帰ってきて仕事の話?」
蚊帳の外に置かれたことが気に入らないのか、ティアは頬を少し膨らませ、不満を訴えるように二人を睨んだ。
「ごめん。手伝うよティア」
アラトは弾かれたように立ち上がり、慌てて台所へ向かい、ティアの横に並ぶ。
「少し背、伸びたかしら?」
「そう?」
ティアは感慨深い様子で、確かめるようにアラトの頭に手を置く。
「あなたがここに来て、もう随分経ったものね」
これ運んで、と差し出された皿を受け取りながら、アラトは小さく頷く。
「全く、子供じゃあるまいし」
ハイメは呆れたように溜息をつき、テーブルで頬杖をつく。
「いいじゃない。私にとっては本当に息子のようなものだもの」
何気なく紡がれた言葉に、アラトの胸が僅かに軋んだ。
嬉しいのに、照れくさくてどう返していいか分からない。胸の奥が締め付けられるようで、むず痒い。
「俺にとってもティアはお母さんみたいな存在だよ」
頭を掻きながら、ぽつりと零した本音。
頬が熱を持つのが自分でも分かった。
ティアは一瞬驚いたように目を見開き、すぐに表情を緩めると、アラトを優しく抱きしめた。
細い腕の温もりが、帰る場所を実感させる。
「へえ。じゃあ私はどんな存在なんだ?」
ハイメが悪戯っぽく口元を緩め、からかうように問いかける。
「先生は──父親、かな」
「私はレディだ!」
◆◆◆
夜更け。村の人々が寝静まった頃、家々の灯りはひとつ、またひとつと消え、土の道には虫の声だけが残っていた。
「少し冷えるな」
ハイメに促され、アラトは五大英雄の像が立ち並ぶ庭園へと足を進めた。
夜空は息を飲む程の星々で満たされている。
光害という概念のない異世界ならではの光景だ。
星明かりを頼りに村の正門を抜ける。
──五大英雄。
かつて世界を救ったとされる存在。
ハイメの弟子であり、本来ならアラトにとって兄弟子にあたる。
「年月が経つのは早い」
ハイメは像を見上げ、静かに語る。
「君も十分に強くなった」
ポン、とアラトの頭に手を置く。
ただそこにいることを確かめるような、静かな仕草だった。
「……なんですか急に」
「もう私がいなくなっても大丈夫だ」
まるで今生の別れかのようにハイメはアラトの頭を撫で続ける。その感触を永遠に忘れぬように。
「やめてください。先生がいなくちゃ、俺すぐに死にますよ」
アラトはハイメの腕を払い除ける。
「ははっ。そうだな」
ハイメは小さく笑い、五大英雄の像から離れる。
夜風が彼女の銀髪を揺らす。星明かりを映した髪が、ひとすじ、またひとすじと夜にほどけていく。
遠ざかるハイメの背を、アラトは黙って見つめ続けた。
◆◆◆
夜の静寂を粉々に砕くような爆発音が鳴り響き、アラトは飛び起きた。
「なんだっ?」
急いで寝ぼけ眼でリビングに降りる。ハイメとティアはいない。
扉が開いたまま、風に揺れている。アラトは壁に立てかけていた剣を手に取り、外へ駆け出す。
「先生!」
ハイメとティアは村の中央を貫く大通りで呆然と立ち尽くしていた。
「一体何が──」
ハイメ達の視線の先を見ると、村の正門は粉々に破壊され、松明の光の中、おびただしい数の骸骨の軍勢が村の中へと侵入してくる。
「……」
瓦礫の山に立つ一人の影を見て、ハイメの表情が強ばる。
「……お久しぶりです、先生」
心臓が凍りつくような低い声。
黒いローブを纏い、フードで顔は隠されている。
「まさか、あなたは──」
まるで死人でも見るかのようにティアは言葉を失う。
「……先生、お知り合いですか?」
アラトは一瞬息を詰め、それからハイメに視線を向けて尋ねた。
「あいつは五大英雄の一人──死屍の英雄」
宙に浮かぶ男はフードをゆっくりと外し、その素顔が露になる。
ただ男に顔と呼べるようなものは無く、剥き出しの骨、黒く染まった髑髏が星明かりに照らされていた。
「アルディア・ハイデネス、君の兄弟子だよ」
「ご紹介どうも」
アルディアは瞬時に間合いを詰め、アラト達の前に現れる。
その異様な空気感から、アラトは無意識に剣を構えた。
五大英雄と言えば世界を救った英雄。剣を向ける相手ではないと、遅れて気づき剣を下ろそうとするが、横に立っているハイメも杖を剣に変容させ、かつての弟子に切っ先を向ける。
「久しぶりの再会なのに、その反応は傷つきますよ」
「……君は暴虐の英雄と共に死んだはずだ。それにその変わり果てた姿……」
「察するに、その少年は貴方の教え子ですか?」
空虚な瞳はアラトに向けられる。
視線がアラトに突き刺さった瞬間、膝が笑い、背筋を冷たいものが這い上がる。
全身を恐怖で支配され、蛇に睨まれたカエルのように身動きが取れない。
「君達と負けず劣らずの優秀な弟子だよ」
ハイメはアラトの硬直した肩をそっと溶かすように撫で、アラトの前に立つ。
そうだ。相手が圧倒的強者であろうと、ハイメがいる。
揺るがない師の強さを思い出し、アラトは息をゆっくりと吐く。
「私達五大英雄以降、貴方は教え子を取らなかったはずだ。何か心境に変化が?」
「質問するのは私の方だ。君は本当にアルディアなのか……。いや無粋だな。私が教え子を見間違えるはずもない」
「先生もお美しいままで何よりです」
「そんな洒落たことも言えるようになったのか。それより、要件はなんだ。こんな真夜中に呑気に新年の挨拶回りって訳でも無いだろう?」
騒ぎに気づいた村の家々から、ぽつり、ぽつりと灯りがともり始める。
「ええ、不必要な観衆も増えてくる頃合だ。手早く済ませましょう」
アルディアの真下の大地が腐った沼のように揺らぎ、黒く濁った地面が裂け、その奥底から死の気配をまとった漆黒の大鎌が姿を現す。
「貴方の命、頂戴します」
骸の軍勢が波のように押し寄せる。
「下がっていろ」
ハイメの声は鋭く、短く空気を切った。
骸の軍勢は骨が擦れ合う音が重なり、地鳴りのような轟音となって村を揺らす。
「先生──!」
アラトが叫ぶより早く、ハイメは前に出ていた。
剣が閃く。白い軌跡が夜を裂き、先頭の骸骨を粉砕する。
何体か切り伏せたところで、ハイメは違和感に気づく。
「こいつら……」
「そうです。この骸兵は生前英雄だった者達。流石に権能まで宿してはいませんが、その技量は真のものですよ」
恐らくアラトでは一体でも勝ち目の無い相手にハイメは次々と薙ぎ倒していく。
だが、その圧倒的な物量で左右、背後、骸骨達は包囲を素早く完成させていた。
『全てを見通す眼は理を識り、深淵を照らす叡智と成る。我に顕現せし力の奔流──其は知恵の神』
瞬きの間に四方に群がっていた骸兵が塵と化す。
だがそれを無駄だと嘲笑うかのように、とめどなく骸兵はハイメへと群がり続ける。
「……これじゃジリ貧だ」
アラトは汗ばむ手で剣を握り締める。
自分が加勢したところで、一瞬でやられてしまうのが落ちだ。ハイメの足手まといになる。
何も出来ない自分が歯がゆい。
「きゃぁあああ!!魔物よ!」
突如、若い娘の悲鳴が響き渡る。
騒ぎを感じ取り様子を見に来たのだろう。続々と村の人々が集まってくる。
当然、骸兵は村人に反応しカタカタと音を立てながら走り出す。
「おい!お前らの相手は私だ!」
ハイメは村人に走り出した骸兵を切り払う───がその一瞬の隙を伽藍堂の眼は見逃さなかった。
「その甘さが貴方の弱さだ」
アルディアの大鎌が、音もなく振るわれる。
「……っ!」
黒い軌跡が夜を裂く。
衝撃が地面を抉り、ハイメの身体が後方へと吹き飛ばされる。
「先生!!」
叩きつけられた地面に、血が滲む。
「……ぐ、は……」
「かつての剣聖の貴方だったら勝ち目は無かった」
「……アルディア…」
ハイメは剣を支えに立ち上がろうとする。
だが、足が動かない。
「貴方の権能は全てを見通す。敵の癖や技術、性格。それらを見極め、数秒先の動作ですら予測し対処する。まさに神業」
「先生!」
「駄目行っちゃ──」
アラトはティア静止を振り切り、ハイメに駆け寄り、身体を抱き起こす。
指先が、真っ赤に染まった。
「だから単純な物量で攻めました。貴方の処理能力を越えさせる為に。これほどの英傑を揃えるのに時間はかかりましたが」
「うるさい!お前よくも先生を──」
「お別れです。灯火の英雄」
アルディアは右手を正面に出すと、小さな球体状の黒い塊が現れる。
骸兵は糸が切れたように次々と倒れだし、手の平サイズの黒い塊だけを宙に残し、アルディアの手の平に引き寄せられ集まる。
「魂をこの世に留めるには莫大なエネルギーが必要になる。それを収束させ解き放つとどうなるか」
粉々に弾け飛んだ村の正門を顎でしゃくる。
アラトは血の気が引き、凍りついたように足が動かなくなる。
「さようなら先生」
球体状に形を保っていた黒い塊が堰を切ったように膨張し、肥大化する。
また俺は何も出来ないのか。誰も救うことができないのか。
先生でも歯が立たない相手。逆立ちしたって勝てないことはわかってる。
だけど───
「何やってる……バカ弟子!」
ハイメは血を吐きながら、眼前に立つアラトに叫ぶ。
自分でもこの行為が無意味だというのは理解している。
何も取り柄のない、特別な力も無い凡人以下の落伍者。そんなアラトにも、こうでありたい、こうであるべきと在り方を目指し、密かに彼女に
アルディアの手から全てを無慈悲に飲み込む黒い光線が放たれる。
「──俺は貴方のようになりたい」
何もかも飲み込む光に、世界は白く染まった。
「─────────────」
誰かの声が聞こえる。
「────どうかこの子だけは」
走馬灯。アラトがこの目の前の現象を当てはめるとすればこの言葉が最も近しいと思った。
だが走馬灯と呼ぶにはアラトはこの光景を知らない。
ボロ布を纏いながら、赤子を抱え必死に祈る母親。
雨に晒され、何かに怯えながらうずくまりながら、必死に懇願している。
その願いは届かず、無慈悲にもその身体は弓矢で貫かれ、赤子は地面に放り出される。
「誰でもいい。どうかこの子だけは助けて──」
赤子の鳴き声が止んだところで場面が変わる。
老人が地面に横たわっている。足腰が悪いのか地を這って、何かから逃げているようだ。
「早く逃げろじーさん!」
青年が老人の前に立ち、何かに向かって剣を振るうが、いくつもの剣によってその身を貫かれてしまう。
「俺達が何したって言うんだ…。頼む誰か、じーさんだけは、あの人だけは」
炎が放たれ、村は焼き尽くされる。悲鳴と怨嗟の声を糧に、炎は天高く舞い上がる。
また場面が変わる────
知らない光景が延々とアラトの頭の中に流れ込む。共通しているのは悲劇。人々がどれだけ願っても報われない惨劇。
「……ふざけんな」
白一色の空間に、アラトの声が荒く叩きつけられた。
音は反響することもなく、吸い込まれるように消えていく。
アラトは両手を強く握りしめ、爪が食い込むのも構わず、地面に向かって吠えた。
「……全て無意味だとでも言いたいのか?」
膝が震え、力が抜けそうになるのを必死にこらえ、顔を上げる。
涙はもう出なかった。流し尽くした瞳は焼けつくように痛む。それでもアラトは、何もない天を睨みつけた。
「なあ、神様。この異世界にはいるんだろ?」
声は掠れ、喉の奥がひりつく。
それでも言葉を止めることができなかった。
「だったら助けてくれよ。あの人達は……懸命に生きていたはずだ。こんな結末があっていいのかよ……!」
拳を震わせ、言葉を吐き出す。
「レイラだってそうだ…。あんなに健気で、小さくて……それでも必死に前を向いてた。父親を亡くしても、泣きながら立ち上がって……生きようとしてたんだ」
胸の奥が軋む。息が詰まり、言葉が一度途切れる。
「……俺なんかより、よっぽど生きる価値があった。なあ、返してくれよ。レイラの命を……」
掠れた声で、何度も、何度も呼びかける。
「……なあ。聞いてんのかよ……なあ……」
応えはない。
白い世界は沈黙したまま、冷たく広がるだけだった。
必死な叫びは、どこにも届かず、静寂だけが返ってくる。
「……だったら」
アラトは、ゆっくりと息を吸い込む。
「俺が全部救ってやる。こんな悲劇、全部拒絶してやる」
その瞬間だった。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
小さな火種のような感覚は、次第に奔流となって全身へ広がっていく。
温かい。だが同時に、抗えないほど重い。
視界が揺れ、足元の感覚が遠のく。そのまま地面へと倒れ込み──意識は闇に沈んだ。
◆◆◆
「……どういうことだ?」
全てを消し去るはずの一撃は、何も奪い去りは出来なかった。
アラトの眼前には、淡い光が生まれていた。
それは盾の形を取り、アルディアの一撃を阻んだ。
悪意を拒絶する光の盾。
理由も理屈も分からない。ただ、この光が自分の中から生まれたものだと言う確信だけが静かにあった。
「……ハイメ、見ている?」
「ああ、相も変わらず暖かい光だ…」
ティアはハイメの肩を支えながら、その光景を一瞬たりとも逃すまいと目に焼きつける。
「権能……いや、この輝きは……」
アルディアの声に、初めてわずかな揺らぎが混じる。
驚きとも、戸惑いともつかない感情。
その直後、アラトの膝が地に落ちた。
「は……ぁ……」
全身から力が抜け落ちていく。
息を吸うたびに肺が痛み、吐くたびに視界が波打つ。
立っていることも、意識を保つことさえ、酷く遠い。
「多少驚かされたが、満身創痍だな少年。次はどうする?」
アルディアは淡々と言い放ち、再び黒い塊を手の中収束させる。
「まだ、だ…」
歯を食いしばり、足に力を込める。
だが膝は震え、言うことを聞かない。
「くそっ、動け!」と拳で腿を叩くが、応えるのは虚脱だけだった。
「ちくしょう…また俺は…」
「いいや、よくやったバカ弟子」
遠くで雷鳴が唸った。
最初は低く、地の奥で転がるような音。
次第にその雷鳴は轟き、世界そのものを揺さぶる轟音へと変わる。
夜空を切り裂く黒い稲妻と共に、彼女は舞い降りた。
「明墨の英雄、クロエ・フィスフィライト。王命により馳せ参じた」
自身の背丈ほどもある漆黒の大剣を、まるで玩具のように軽々と携え、長く黒い髪が雷光を受け、夜空に揺れる。
「…クロエ……」
その名を呟いた瞬間、アラトの緊張は糸が切れたように解けた。
立ち上がることを諦め、地に身を委ねる。
「雷の権能、王家の者か」
アルディアは手を下げ、収束させていた黒い塊を霧散させる。まるで戦いそのものに興味を失ったかのように。
「何、逃げるの?」
クロエは一歩も引かず、大剣の切っ先を突きつける。
「目的は果たした。人々の標たる灯火を吹き消し、再び闇の時代がやってくる」
アルディアの足元から、闇が生き物のように絡みつき始める。
「先生、貴方の命を我らが主君に捧げ魔国の繁栄の礎となるであろう。冒険者、世界に知らしめよ。我らが王は再び世界に降臨した───魔王の復活だ」
「そんな戯言を聞いて、黙って返すとでも?」
クロエは大剣を強く握り締め、漆黒の刀身に黒雷をまとわせる。空気が軋み、雷鳴の残響が地を震わせた。
次の瞬間、地を蹴り飛びかかろうとしたその動きを「待て、明墨」とハイメが静かに声を上げ制する。
「アルディア、私が命を落としたところで人々は簡単に希望を失ったりはしないよ」
ハイメは深く息を吸い、裂けた脇腹を押さえながら、ティアの肩を借りてゆっくりと身体を起こす。
一歩踏み出すだけでも痛みが走るはずなのに、その背は不思議と揺らがない。
「灯火の英雄たる所以、君なら知っているはずだ」
天幕のように広がる満天の星空を仰ぎ、ハイメは短く息をついた。
「今日は星がよく見える。私はあの星屑の中のひとつにすぎない」
彼女の銀色の瞳に、無数の星が映り込む。
「小さな星ひとつではこの闇夜を照らすことは難しいだろう。でも、私の弟子や孫弟子、そいつらに感化された人々。灯火は想いを糧に伝播し、この星空のようにこの世界を優しく照らす」
夜空に瞬く星々が、静かに肯定するかのように輝いていた。
アルディアは動かない。
ただ、ハイメの言葉を拒むことも、否定することもなく、沈黙のまま受け止めている。
「だから、私という存在は大して重要じゃない。それにもう───どでかい灯火はこいつに託した」
ハイメは微笑み、アラトの肩に手を置いた。
その掌から暖かい体温が伝わってくる。
「最後にアルディア。楽しかったよ、君達との日々は」
「───私もです。先生」
アルディア静かにそう答え、身体は闇に溶けていく。
周囲に蠢いていた骸兵たちも、それに倣うように音もなく霧散し、戦場にはただ静寂だけが残された。
ハイメは糸が切れたように地面に倒れ込む。
「先生早く治療を!」
アラトは膝をつき、血に濡れたハイメの身体に手を伸ばす。
「いやいい。私はもうすぐ死ぬ」
「──え?」
その一言が、頭の中で何度も反響した。
意味を理解するより先に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「あいつの鎌は時神の大鎌、指先でさえあの鎌に触れれば死に至る」
ハイメの声は驚くほど穏やかで、まるで他人事のようだった。
「そんな顔をするな。私は多くの弟子を見送ってきた。どいつもこいつも先に死にやがって……。だから弟子に看取られるのは悪い気分じゃない」
冗談めかした言葉とは裏腹に、アラトの喉はひくりと震えた。
アラトは唇を噛みしめ、声を殺す。
涙が視界を歪ませ、何も見えなくなる。
「ティア、長い付き合いになったな」
ハイメは視線を横に向け、寄り添うティアを見つめる。
「……あなたも先に行ってしまうのね。寂しくなるわ」
ティアの声は震え、糸のように細かった。
唇は微かに震え、糸目の奥に溜まった涙がこぼれ落ちる。
「泣くな、ティア」
ハイメはゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬に触れる。
「いつか君の罪が許される時が、きっと来る。その時までは死ぬな。……先で、待っている」
「そうね……いつか、そんな日が……」
ティアは微笑もうとするが、涙が零れ落ちる。
「ハイメも、そこにいて欲しかった」
「……ああ」
短い返事の後、銀色の瞳がアラトを捉える。
「アラト」
「嫌です…先生。俺あんたがいなくちゃ何も出来ない。まだまだ教えて貰いたい事が沢山…」
縋るように、ハイメの服を掴む。
「君は充分成長した。私がいなくても大丈夫」
ハイメはその手に触れ、静かに首を振った。
「やめてください!嫌だ、嫌だ、嫌だ!なんで…なんでですか…」
抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
声は掠れ、言葉は形を失っていった。
「ハイメの最後の言葉、しっかり聞いてあげて」
ティアがそっとアラトの背に手を置く。
「君が開花させた力は、権能とは違う特別な力だ。使い方を誤ってはいけない。願わくば──誰かを守るために振るいなさい。……ここまでは君の師としての言葉だ」
ハイメの声は、師としての厳しさを帯びる。
「ここからは私自身の言葉」
そして、柔らかく声色を変える。
ハイメは、最後の力を振り絞るように微笑んだ。
「アラト、私にとって君は──最愛のバカ息子だ」
アラトの喉から、嗚咽が零れる。
「ハイメ先生……」
涙に濡れた視界の向こうで、彼女を見つめる。
「俺にとって、貴方は……最愛の母親でした」
言い終えた瞬間、涙が堰を切ったように溢れ落ちる。
ハイメは満足そうに目を閉じ、その胸がゆっくりと上下するのをやめる。
同時に──夜空を埋め尽くす無数の星々の中から、ひとつの光がすっと流れ落ちた。
短く、しかし確かな輝きを残して、それは静かに天の彼方へと消えていく。
星空は変わらずそこにあり、ただアラトを優しく照らしていた。




