第二章 第一話 「兆候」
死屍の英雄がピンケット村を襲撃した際、魔国は国境各地の小規模から中規模の集落を狙い、同時多発的に急襲を仕掛けた。
辺境の村、交易路沿いの町、守りの薄い開拓地。戦火は瞬く間に広がり、夜の闇を赤く染め上げていく。
悪神が討たれて以来の大規模な侵攻に、国軍や冒険者協会は後手に回り、多くの命が失われた。
国家英雄招集法に基づく王命により、所属機関を問わず、国内に所在する英雄を各戦地に動員し速やかに鎮圧、魔物を排除した。
だが、交戦した英雄たちの報告は、事態が単なる侵攻ではないことを示していた。
魔物たちは一様に、狂気じみた声で叫んでいたという。
「魔王が誕生した」───と。
混乱が収まりきらぬ中、灯火の英雄の訃報は炎に油を注ぐかのように広がった。
噂は瞬く間に近隣諸国へと伝播し、人々の胸に根拠のない恐怖と、拭いきれぬ不安を植え付けていく。
フィスフィライト国、王都フィライト、冒険者協会本部。
その建造物は、王城に引けを取らぬほど荘厳で、国家に属さぬ機関でありながら、いかに強大な権限と影響力を持つかを雄弁に物語っていた。
その最上階、王都の広範囲の景色を一望できる大型のガラス窓から背を向け、男は苦渋に満ちた表情を浮かべ立っていた。
トントン、と軽快なノックが聞こえると、男は曇った表情を振り払うように青い髪をかきあげ、重厚な椅子に腰を下ろす。
「マイアか?入れ」
「失礼します。会長、ご報告したいことがございます」
扉を開けて入ってきたのは、肩より少し下まで伸びた艶やかな金髪の女性だった。
きちんと整えられたロングボブ。その右目には細い金縁のモノクルが掛けられている。
腰元には小さな書類筒と複数のポーチ。
実務を第一に考えた装いは、彼女がこの場に飾りとして立っている存在ではないことを明白に表している。
マイアは一礼すると、迷いのない動作で書類筒から束ねられた報告書を取り出し、感情を挟まず、淡々と読み上げ始める。
「国軍所属の英雄は北側国境における、魔物の大規模暴動の鎮圧に対処していた模様です」
「北側国境……」
男は低く呟き、思案するように視線を落とす。
「あそこは魔物の数こそ多いが、敵対的というほどではなかったはずだ。魔物の集落としては比較的温和な地域だった。それがなぜこのタイミングで暴動など……」
マイアは一度言葉を切り、細い指先でモノクルを軽く押し上げると、別の書類を差し出した。
「原因として、昨今問題となっている麻薬が関与している可能性が高いと見ています」
「あの出処不明の薬か……」
男は忌々しげに息を吐く。
「今回の大規模な侵攻にしろ、麻薬の蔓延にしろ、あまりにも都合が良すぎるとは思わないか、マイア」
澄み切った蒼い双眸が、静かにマイアを射抜く。
それは水面のように穏やかでありながら、底知れぬ圧を秘めた視線だった。
胸元に、じわりと汗が滲む。
それでもマイアは姿勢を崩さず、問いに答える。
「……人類側に、内通者がいる可能性をお考えでしょうか」
「ああ」
即答だった。
「しかも、こちらの内情を相当深く理解している者だ。敵は既に喉元まで迫っているかもしれん」
男は椅子をぐるりと回し、マイアに背を向ける。
「それと、マイア」
呼び止める声に、わずかな揺らぎが混じった。
「ハイメ先生……いや、灯火の英雄に関する詳細な報告は、まだか?」
その微細な変化を、マイアは聞き逃さなかった。
一瞬の逡巡。言葉を選び、慎重に口を開く。
「正式な報告書が上がるまでには、もう少し時間がかかるかと。現場に居合わせた一等級冒険者、クロエ様は……書類作成を得意とされていません」
「……そうか」
「もう一人、ハイメ様の弟子である六等級冒険者も生存しているようですが……」
男は王都の景色を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、何かを断ち切るように踵を返し、立ち上がる。
「行くぞ、マイア」
「え……? どちらへ?」
威勢よく扉を開け、部屋を出ていく背に問いかける。
「決まっているだろう」
男は振り返らず、言い切った。
「──会いに行くんだ。弟弟子に」
◆◆◆
「で、では……こちらの書類に記載をお願いいたします」
受付嬢の声は、必要以上に硬かった。
周囲から向けられる冷たい視線と、侮蔑の混じった小さな囁きが、背中に突き刺さる。
ただのパーティー申請だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
それなのに受付の周囲には、いつの間にか興味本位の人だかりができていた。
「……やっぱりだ。あのパーティー殺しと…」
「本当に組むつもりなのか」
「正気じゃない」
誰に向けられた言葉かは、考えるまでもない。
流石にこれほど注目されると、指先まで意識してしまう。
握っているペンは汗で滑り、インクが紙に滲みそうになる。
「……じゃあ、これで」
アラトは息を整え、書き終えた申請用紙を差し出した。
濡れた紙の感触が、妙に生々しい。
そのまま、隣に立つ彼女を横目で見る。
──明墨の英雄、クロエ。
彼女はこの居心地の悪さを感じていないかのように、背筋を伸ばし、ただ静かにそこに立っていた。
視線を伏せることも、周囲を気にする素振りもない。
まるで、人の感情が漂うこの空間そのものが見えていないかのようだった。
「……はい。申請は正式に受理いたしました」
受付嬢は視線を上げず、淡々と告げる。
「こちらが詳細な規約になります。内容をご確認の上、遵守をお願いいたします」
差し出された用紙を受け取ると、クロエは一瞥すらくれず、踵を返して歩き出した。
受付の前に漂っていたざわめきや、向けられていた視線すら意に介さず、クロエは一直線に出口へ向かう。
まるで最初からここに長居するつもりなどなかったかのようだ。
「おい、待てよ!」
咄嗟に声を張り上げる。
周囲の視線が一斉に集まるのを感じたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
クロエは入口の手前で足を止めた。
だが振り返らない。
こちらを見ることも、表情を見せることもなく、背を向けたまま淡々と告げる。
「明日、この時間にここの訓練場で。お互いに慣れてきたら、実戦に行きましょ」
それは提案というより、すでに決まっている予定の確認だった。
拒否や相談の余地は、最初から用意されていない。
クロエはそれ以上何も言わず、人混みに紛れるようにして去っていった。
黒髪の背中はあっという間に人の波に飲み込まれ、気づけばその姿はどこにも見当たらない。
「おい、待ってて……」
追いかけようとして、途中で足が止まる。
視線を巡らせても、もう彼女はいない。
「……くそ」
アラトは頭に手を当て、乱暴に髪を掻きむしった。
話が早いのか、振り回されているのか、自分でも判別がつかない。
胸の奥に残るのは、置いていかれたような感覚と、言いようのない不安。
だが同時に、不思議な確信もあった。
あの背中は、嘘をつくために振り返らなかったのではない。
最初から、迷っていなかっただけだ。
「……先生、信じていいんですよね」
誰に聞かせるでもなく、空を仰いで呟く。
澄み切った青空は何も答えず、遠くで響く冒険者たちの喧騒が、その声を静かに飲み込んでいった。




