第一話 記録から外れる
玄関の鍵を開ける。
金属が噛み合う音は、昨日よりも少しだけ軽い。
靴を脱ぎ、揃える。
自分の靴だけが、三和土のタイルと同じ温度になっている。
体温が残らない。
脱いだ瞬間に、最初からそこにあった物の顔をする。
自分も、その一部になりつつあった。
*
リビングのドアを開ける。
テレビの音が、壁に反射して均一に部屋を埋めている。
妻がキッチンに立ち、娘がソファでスマートフォンを見ている。
「ただいま」
声は出したはずだ。
喉は震えたし、空気も揺れた。
だが、二人の肩は微動だにしない。
無視をしているのではない。
センサーライトが点くように、その場に「帰宅」という事象が発生したことを、ただ事実として受け流している。
返事の代わりに、換気扇の音が一段高くなった。
*
食卓に着く。
自分の前には、すでに食事が並んでいる。
ラップがかかったままの皿。
温かさは、中身ではなく容器の材質として存在している。
箸を取ろうとして、手が止まった。
箸置きがない。
自分の箸だけが、テーブルの木目に直接置かれている。
「お父さん」
妻が言った。
こちらを見ていない。
コンロの火を見つめたまま、言葉だけをこちらに投げる。
「今日、振り込みの日だったでしょ。助かったわ」
自分、ではなく。
「振り込み」という機能。
名前を呼ばれたはずなのに、指名された感覚がない。
通帳に刻まれた数字が、自分の代わりにここに座っている。
自分は、その数字を維持するための装置に過ぎない。
*
風呂場へ向かう。
脱衣所のカレンダー。
家族の予定が、色とりどりのペンで書き込まれている。
「塾」「買い物」「ランチ」。
自分の仕事の予定も、確かにそこにあったはずだった。
だが、今のカレンダーには、自分の筆跡だけが「印刷ミス」のように抜けている。
紙は白く、滑らかだ。
消しゴムで消した跡すらない。
ただ、そこだけが時間を記録することを拒んでいる。
自分は指先で、自分の名前があった場所をなぞった。
指紋すら残らないほど、紙は乾いていた。
*
鏡を見る。
湿気で曇っている。
手で拭う。
映っているのは、自分だ。
だが、焦点が合わない。
網膜が、自分を「背景の一部」として処理しようとしている。
輪郭が薄いのではない。
存在の主張が、空調の唸り声と同じ周波数になっている。
娘が脱衣所に入ってきた。
自分と目が合う位置に彼女が立つ。
彼女は、鏡の中に自分が映っていないかのように、前髪を直し始めた。
ぶつからない。
触れない。
ただ、そこに「何もない空間」があるかのように、彼女の腕が自分の胸元をすり抜けて動く。
自分は一歩下がった。
下がったことで、彼女の動線が完璧になった。
*
寝室へ入り、クローゼットを開ける。
自分のスーツが並んでいる。
形は正しい。
色も正しい。
だが、ハンガーから取ろうとすると、驚くほど軽い。
布の重みがない。
繊維の一本一本が、この家というシステムに吸い取られている。
横たわる。
ベッドの沈み込みが、昨日より浅い。
反発が強いのではない。
自分の体重が、この部屋の「記録」から除外され始めている。
*
階下で、妻と娘の笑い声が聞こえる。
楽しそうな、正しい家庭の音だ。
その輪郭の中に、自分の場所はもう必要ない。
自分がいなくても、家計は回り、会話は弾み、朝は来る。
むしろ、自分が「風景」になることで、この家はより完成に近づく。
暗闇の中で、自分の手がシーツに溶けていく感覚があった。
痛みはない。
ただ、役割だけが残っていく。
「お父さん」という、中身のない箱。
明日の朝、その箱を開けるのは、自分ではない誰かかもしれない。
いや、最初から誰も入っていなかったのかもしれない。
意識が遠のく中、リビングの電気が消える音がした。
順番は、正しい。
守られているものが、ここにある。




