京子ー6
九月。平日も父母の家に通うようになってきた、そんな頃。父母の家の近所の方から連絡があった。近くを通った時、母の家で火災報知器が鳴っていたことに気づき、連絡をしてくれたそうだ。身の危険を案じて庭から中の様子を見たところ、鍋をかけっぱなしにしているだけで、火は出ていなかったため、中に入って止めてくれたらしい。火事ではない、と聞いて安堵よりも疲れが押し寄せた。私は電話で何度も謝った後、お隣さんに「すぐに行きます」と伝えて、自転車に乗って母の家に向かった。
道路に沿って張り巡らされた電線の下、住宅と緑の間を漕いでいく。風を受けながら急いでペダルを漕いでいくが、だんだんと気が重くなっていく。今日は有給を取って久しぶりにゆっくりしようとしていたのに。なんでこんなタイミングで。
家に着くと、門の前に連絡してくれた女性がいた。隣の小沢さんだ。私は自転車を止めた後、すぐ小沢さんのところまで行って挨拶と謝罪をした。小沢さんは「全然、大丈夫ですよ」と言ってくれつつ、心配そうな声色だった。当たり前だ。隣の家が火元の管理もできない人なのだ。火事にならないかと心配にもなる。この時点で、私はまた要介護認定の申請に行こうと決心した。これ以上はもう無理だ。
近所の方と別れた後、私は家に入った。玄関には簡単に外に出ていかないよう鍵が追加されている。前みたいに徘徊されては危険だからだ。九月といってもまだ暑い。もし日中に外へ出て熱中症にでもなったら命も落としかねない。
リビングに行くと、母はガラス戸近くのリクライニングチェアに座っていた。エアコンはついておらず、窓は空いている。私は窓を閉めてエアコンのスイッチをつける。
「……お母さん前にも言ったじゃん、エアコン使ってって」
「おお、京子、来たの?」
私が語気を強めて言っても、母は何事もなかったかのようにそう言う。
「もう窓開けるだけで涼しくならないのよ。ちゃんとエアコン使わないと、熱中症になっちゃうって」
「えー、エアコンあんまり好きじゃないのよ」
母は私から目を背けながらそう言った。私は羽織ったシャツを脱いでカーテンレールにあるハンガーに掛けながら続ける。
「小沢さんにはちゃんと謝ったの?」
「……ああ、挨拶したよ」
「挨拶って……。じゃなくて謝ったの? 心配かけたんだよ?」
「いやぁ……、ちょっと煮すぎて焦げちゃっただけなのよ。そんなに大事じゃないのに……」
「……報知器鳴ってたんだって! 焦げちゃったじゃないんだよ。気を付けてよ」
それはダメだろ、と私は大きな声で怒った。母はしゅんとしてしまったが、特に何も思わない。人に迷惑をかけているのだ。当たり前だ。私は無視して台所に向かった。コンロの上を見ると、ステンレスの鍋が焦げた状態で放置されていた。具材が真っ黒に干からびて鍋の底に張り付いている。何が煮すぎただ。完全に忘れているだけじゃないか。
私は台所の換気扇を回して片づけを始めた。鍋はもう使えないので、燃えないゴミのごみ袋に入れる。台所にあった食器を洗い始める。洗剤につけたスポンジで、お皿の表面をこすり洗う。
「……お母さん、私、来週からここに住むね」
シンクに流れる泡の水を見ながら、私はそう言った。さすがにもう父一人では任せておけない。せめて介護施設に預けるまでは面倒を見るしかないと思った。
「帰ってくるの?」
「……うん、まあ、そうだね」
すると母は「おおー帰ってくるのかい」と、嬉しそうに言いながら手をゆっくりと叩いた。おそらく、ただ帰ってくるという事実だけに喜んでいるのだろう。それが、自分の介護のためとも知らず。
「二階の部屋、空いてるから使いなさいよ」
昔から何も変わらない。
「ちゃんと洗濯物とか出しなさいよ。あんた、昔から出し忘れたりしてたから」
過保護で、お節介で、何でも私のやることなすことに口をはさむ。
「お父さんにも言わなきゃね。お祝いはちゃんとしなくちゃ」
「これが良い」と思うものが必ずあり、それが正しいものであると思い込んで、押し付けてくる。
「何が食べたい?」
そして、私に対しては、それを曲げない。
「ああ、そうだ登さんとかの部屋も必要か。どうしよう」
それが、私は嫌だった。
「だから、離婚したって言ってるでしょ!」
シンクの縁を叩きながら、そう叫んでしまった。母はびくっと肩をすぼめて、しばらく固まった後「ああ、そうだね、ごめんね」と小さく呟いた。
母はずっと変わっていないのだ。父との関係も、私との関係も。
父にとって、母は今やいてもいなくても変わらない存在で、だけど母はその糸が切れないよう、必死につなぎとめようとしている。
私のことは、ずっと『娘』のままだと思っている。結婚する前の、自分の言うことを聞いてくれる可愛い娘のままだと。
ただ、その関係は進展せず、ずっとそのままなのだ。そして、脳が病に侵され、そのまま進まず終わろうとしている。
意味も無くあがいた挙句、答えを出せないまま終わってしまう。
まるで、私のように。
このまま何も答えを出せずに終わるのだろう。無かったことになって、元の生活に戻るのだろう。でも、そしたら母はそのまま死を待つだけになるのだろうか。そのまま老いていき、何も答えを出せないまま、終わっていくのだろうか。そして、私も同じように、何もできぬまま終わっていくのだろうか。その疑問だけが、ずっと心につかえている。
ただ、もうしょうがない。そのことについて真正面から考えるのも、もう疲れてしまっていた。
いろいろやっていたら日が沈みかけていて、その頃に父が帰ってきた。父は昼間の騒動を知らず、私がいることも知らなかったので驚いていた。昼間のことを話すと父は顔をしかめ、面倒なことになったと言わんばかりの大きな息を吐いた。私はそのまま一緒に住む旨を父に伝えると「好きにしてくれ」と他人事のように言い放った。
外に出ると、父母の一軒家が夕日の橙に照らされていた。家を囲む外壁は雨だれで黒ずんだまま。夏に掃除しようと思っていたのに、結局、手つかずのままだ。