京子ー5
翌月の七月に包括支援センターへ相談しに行った。いろいろ相談した結果、一度、要介護認定の審査をしたほうがいいだろう、ということになり、その場で審査を申請して七月中に審査を受けた。母と一緒に問診票を書いて送った後、調査員が母の家に来て、一時間弱ほど面接をした。生活面や健康面、認知機能等、心身の状態を直接確認するためだ。食事や入浴・排泄は一人でできるか、衣類は自分で着ることができるか、物忘れや徘徊などをしていないかなど、具体的なところまでとことん聞かれた。
ただ、結果、要介護認定は受けられず、要支援認定にとどまった。面倒が必要だというものの、食事など普段の生活は一人でできているし、審査中の会話も特に問題なかったからだ。不思議なことに、他人と話す際は妙にはきはきして、しっかり受け答えができる。おそらく、余所行きの所作が体に染みついているのだろう。もちろん普段の様子も私から調査員に伝えたが、まだ要介護認定が必要な段階ではないと判断された。
このことも支援センターで相談したら、よくあるケースらしく「無理せず、何かあったらすぐ相談してくださいね」と言ってくれた。介護の大変さに心をすり減らして病む人もいるから、まずは自分も大切にするようにと。
介護についてすぐに相談できる場がある。それは、素直に嬉しかった。私以外の唯一の当事者である父は、積極的に介護のことについて考えようとしないから。
ただ、時を経るごとに母の記憶はどんどん欠けていき、うまくいかなくなっていく。
八月の中頃から、母はとうとう食べ物を腐らせるようになった。家を訪ねたら、台所から酸っぱい臭いがする。コンロには野菜スープのようなものが入った鍋が放置され、冷蔵庫には使い切れないほどたくさんの野菜や調味料で埋められている。レンジの中には温められた冷凍ごはんが放置され、それを母は覚えていない。郵便物も玄関横の靴箱の上に山積みにされ、身分証が入ったポーチの場所を聞いても分からず、その日は一日中探し回った。色々片付けて、探し回って、その日は結局、日が沈むまで母の家にいた。
これでは月一回ではとても間に合わないと、その日から毎週、父母の家に通うことになった。本来、こんな状態になるまで放置した父に怒るべきなのかもしれないが、母の症状はどんどん進んでいくし、父の性格を変える暇はなく、諦めた。
そして、そんな状態がずっと続いていくうちに、母の精神はどんどん不安定になっていった。おそらく、うまくできない自分が情けなくて、恥ずかしくて、もともとあったプライドが傷ついているのだろう。情けない自分に怒りを覚えれば、与えた杖で壁や扉を叩き、フラストレーションを発散する。そして不安になれば、いつでも父や私の存在を確認しようとしてきた。仕事中や真夜中でも突然電話がかかってきて、ただ『元気なの?』と確認してくる。まるで、親に見捨てられないようアピールしてくる子供のように。
そして八月の終わり。とうとう母が夜に徘徊をした。二十三時頃、父から「あいつがベッドにいない」と電話で連絡があった。ネットで見たやつだ。ふと何かしようと外に出て、そのまま家に帰れないというやつ。最悪のケースが頭をよぎり、私はTシャツスウェット姿に一枚シャツだけ羽織って外に出た。自転車に乗り、三鷹の住宅街を走りながら、母の姿を探していく。街灯の光が頭の上を超えて通り過ぎていく。
見つかったのは、三鷹から二駅東へ行った場所にある公園だった。住宅街の真ん中にある、都営アパート横の小さな公園。近所の方が公園のベンチに座っているところを見つけて、警察に連絡してくれたらしい。父には母を連れ帰るため車で来るよう伝え、私はそのまま自転車で公園に向かった。父より先に着くと、警察の男性が二人、公園のベンチに座った母の周りに立っているのが見えた。九月とは言え、まだ蒸し暑い。自転車から降りると汗が全身から噴き出す。夜は湿気が多く、汗で服が肌に張り付く。不快だ。ただ、その気持ちを外に出さないよう抑えながら、警察二人に頭を下げて謝罪をする。
「ちょっと迷っちゃっただけ。今から帰るところだったのよ」
謝罪中、母は私をかばうようにそう言った。警察の二人は気を使い「そうですか。大丈夫ですよ」と一方が言う。
「そうなんですよ、本当に大丈夫なんです、それなのに……」
「大丈夫じゃないでしょ! 心配かけてんのよ! もう黙って。お父さん来たら帰るから」
言い訳をしようとする母を見て、私は語気を強めてそう言った。もうこれ以上、醜態をさらしてほしくなかった。私のためにも。母のためにも。周りの状況も分からず話す母を、これ以上見たくなかった。
こんな調子の生活が続き、忙殺されながら、たまに胸が締め付けられるような気持ちになる。あの過保護で、お節介で、よく私のやることに口をはさむ母が、どんどん幼くなっていく。過ちを犯しても認めず、言い訳をしたり、不機嫌になったりする。昔の姿からどんどん離れていく。
最初に再会した時は、かつての母の姿から大きく違っていたため、母と再会した実感があまり湧かなかった。ただ、こう多くの時間を一緒に過ごすと、やはりこの人はあの母なのだと嫌でも思い知らされる。私の片づけ方に口を出してきたり、女性らしい服を薦めてきたり、お医者さんと話すときは取り繕ったような声色で話したり、私を呼ぶときは「京子」と放り投げるように呼び掛けたり、たまに中学の頃の友達の話や、高校の少し反抗期だったころの私の話をしつこく繰り返したりする。普段の仕草や会話の内容から、昔の母の面影がちらつくのだ。
ただ、それらが現れるのは本当に時々で、普段は脳が病に侵されてしまった老婆にしか見えない。まるで、砕かれた昔の姿の破片を雑に組み合わせてもとに戻そうとしているようで、とても痛々しく、「もう元の姿には戻らない」と残酷に突きつけられているようだった。
母が昔話をし始めると、特に不安になる。結婚して以降の話がまったく出てこない。ほぼ会っていないから当たり前なのかもしれないが、母の時が、そこで止まっているように感じてしまうのだ。