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京子ー4

 夕方。家事や郵便物の整理を終え、母に証明書や書類の場所を伝えた(どうせ忘れてしまうのだが)。その後、父が帰ってきたので、母を任せて両親の家を後にした。父との会話は最小限。お願いしていた買い物の確認と、軽い申し送りのようなやり取りを二、三して、すぐ家を出てしまった。


 自転車で住宅街をしばらく進むと玉川上水沿いの道路に出る。三鷹駅から伸びるこの川沿いの道は「風の散歩道」と名付けられ、道路脇にはレンガブロックで舗装された遊歩道が続いている。近くに有名なアニメスタジオの美術館があるため、たまに観光客で人が多くなることもあるが、普段は静かで気持ちのいい通りだ。川沿いの自然はそのままになっているから、水と緑を含んだ空気が顔に当たり、自転車で走ると心地よい。日も落ちかけ、空には紺と橙のグラデーションが広がる。風も冷たく、昼間の火照りを冷ましてくれる。江戸時代から続くこの流れも、今やこうして住宅街の風景に溶け込んでいる。

 風の散歩道を進み、駅側のスーパーに向かう。そこで作り置きのおかずを作るための野菜や豚小間、冷凍食品と切れそうなシャンプーを買い、そのほか駅前のお店をちょっとだけ見て回ったら、家に帰るため駅前の通りを進み住宅街へ向かう。

 しばらく進み、いくつか道を曲がると図書館がある静かな通りに出る。その通りにあるのが、私が借りている五階建てのマンションだ。一階に小さい整骨院と美容院が入っている1Kのマンション。外見はレンガ調のタイルで舗装されてきれいだが、築は二十五年ほど。ただ、中もきれいなのであまり不自由はしない。

 隣のマンションとの間にある薄暗い駐輪場へ自転車を押し込み、買ったものが入ったビニール袋を持って、二階にある自分の部屋へ向かう。

「……ただいまぁ」

 スチール製の重いドアを開け、誰もいない部屋にそうつぶやきながら入った。靴を脱いでキッチンから順番に電気をつけていく。冷房をつけて、肩に掛けていたバッグと買い物袋を置き、ベッドに座る。そして、ふー、とひと息ついた。

 母の認知症がだんだん進んでいることもあり、前より疲れがどっと来るようになった。前に言ったことが反故にされたり、分かりやすく整理したつもりのものがぐちゃぐちゃにされたりするのは、かなり堪える。

 このまま寝てしまいたい。そんな気持ちを抑えて立ち上がり、私は諸々の片づけを始めた。羽織っていたリネンシャツに消臭剤を吹きかけた後、カーテンレールにあったハンガーにかける。スーパーで買ったものはキッチン横の冷蔵庫へとにかく詰めて、午前中に干した洗濯物も取り込む。一通り片づけを終えたら、一旦、部屋着に着替えて夕食をとる。今日はふるさと納税で手に入れた冷凍ハンバーグと、スーパーで買ったサラダ、液みそと乾燥わかめで作った味噌汁を食べた。いつも平日は作り置きしたものをちゃんと食べているのだが、土日だけは、こうした手抜きをしている。見どころの無い、気の抜けた炭酸のようなバラエティ番組を垂れ流しにしながら食事をする。

 食べ終えて食器を洗ったら、ベッドの上に戻って背中を壁に預けた。暇つぶしにスマホでSNSを眺めたが、すぐに疲れて、見るのをやめてしまう。情報収集のためにと思ってスマホに入れたSNSだが、嘘か本当か分からない情報しかなく、ただ刺激的なだけで、うんざりしてしまった。まぶしい光の点滅をずっと直視しているような感覚で、目も脳も疲れてしまう。無駄な疲労を癒すため、ベッドに寝ころび、目を腕で覆う。目の疲れが、腕の温もりで溶けていく。


 しばらく休んで頭がすっきりすると、またスマホを開いて、今度はブラウザアプリを立ち上げた。そして検索バーに「包括支援センター」と入力し検索する。「包括支援センター」というのは、市区町村が設置している施設で、簡単に言えば介護に関する心配事・悩みについて相談できる場所だ。ケアマネージャーさんや保健師さん、社会福祉士さんがいて、相談だけでなく介護サービスを受けるために必要な手続きなどもここでできる。

 検索結果には市役所がやっている支援センターのサイトや、利用の流れをまとめたPDFなどが出てきて、私はそれをクリックしては流し読んでいく。もう何度も見たものばかりなので、別に確認しなくてもいいのだが、最近は手持ち無沙汰でつい同じものを何度も見てしまう。


 先月、ここに電話して相談の予約をした。電話した時は二か月先まで予約が取れず、相談できるのが来月になってしまった。

 母の状態から相談することを決めたが、素直に前向きな気持ちにはなれていなかった。早く相談したいという気持ちもあれば、手続きが億劫だという気持ちもあるし、自分がやってきた介護について、何か指摘を受けるのではという不安もあった。小学校の頃の三者面談を思い出す。親子の関係に外の誰かが介入してきて、第三者に見てほしいところもあるが、深く踏み込んできても困ってしまうところもある。そんな感覚だ。


 ブラウジングをしていたら、いつの間にか三十分ほどたっていた。外も暗くなっている。もう今日は何もすることないし、と私は早めのお風呂に入った。湯の中で体も脳も休めたら、風呂から出て、体を拭いて、スキンケアを一通り済ませる。

 終わったら、テレビでVODサービスにログインして、ゾンビが出てくる海外ドラマの続きを見る。このドラマ、最初はべたなゾンビ作品なのではと思ったが、生き残りたちの人間模様なども描かれていて予想以上に面白く、今も見続けている。シーズン11まであるのだが、今もうシーズン9まで見終えた。もうすぐクライマックス。楽しみでありながら、ちょっと寂しい。

 夜の九時。ドラマを見ていたら、ローテーブルの上に置いたスマホがヴゥっと震えた。映像を止めてスマホを見ると、彼からのメッセージだった。

『お疲れ様です。すいません遅くなりました。

 今から電話してもいいですか?』

 毎月恒例の電話を、今からできないかと。一人きりの凪の時間に急に石を投げ込まれたような気持ちになり、ため息がでた。スマホの画面を見つめて少しだけ考え込む。もう一日も終わるという今のタイミングで電話はしたくない。かといって後回しにするのも億劫だ。どうしよう。

『ごめん、明日でもいい?』

 結局、そう返信した。後回しにするのが良くないのは分かっているが、どうしても今日はもう人と話したくなかった。

 送信をしてしばらく待つと『了解です。ごめん、夜遅くに。おやすみなさい』と返信が帰ってきた。文字だけで繋がった線が切れて、強張った体がほぐれる。私はまた、ドラマの再生を再開した。ただ、無駄な横やりが入ったせいで興が削がれ、ドラマに集中できなくなってしまった。そして、もう別れたとはいえ、家族だった人からの電話に対しそんなことを思ってしまう自分に嫌気がさしてしまう。


 これは、いつまで続くんだろう。最近、そう考えるようになった。別れた夫から毎月毎月家族の報告をされるものの、私にできることはもう何もない。子供たちにしてあげられることもない。本来であれば、家族についての報告を受ける必要も、権利もないのに、彼は懇切丁寧に連絡をしてくる。ありがたいと思わなければならないのかもしれないが、私にとっては心の負担が大きかった。だって、逃げて放り出してきたものを、毎月突き付けられているような気がするから。複雑な気持ちになる。

 ただ、断ることもできない。だって、そんな電話をもらって憂鬱になる理由は自分のせいだから。勝手に周りを妬んで、自分勝手に家族を置いて出て行って、こうやって一人自由に暮らしているから。そんな状態で、私から「もう連絡してこないで」なんて言えない。

 問題に何も答えを出さず、無理やり終わらせたせいで、残った後悔が背中にべったり引っ付いている。たぶん、これはずっと残ったままだ。もう、どうしようもないのだ。


 ぼーっとしてしまい、ドラマの内容が頭に入ってこなかった。これは、明日も同じ話を見直さないと、話が分からない。

 テレビを消して、台所で水道水を一杯飲み、ベッドに入って、電気を消した。冷房で冷えた部屋の中、冬でも使える羽毛布団をかぶって、温もりを感じる。もう寝よう。今は目の前のことを考える。母のことを支援センターに相談して、要介護認定をとって、介護施設に預ける。それまでは頑張らなくては。

 あと少しでこの生活が終わる。その後は、どうなるのだろう。このまま母を施設に預けてしまえば、母との接点はなくなっていくだろう。そのまま認知症も進んでしまって、私のことも忘れてしまうだろう。

 そう考えると、何か心につかえる。ただ、その何かが何なのか、私はなんとなく分かっていた。

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