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京子ー3

 六月のとある土曜日。自分の家で洗濯を終えた後、私は母の様子を見に両親の自宅へ向かった。三鷹の住宅街にある庭付の一軒家。私が住んでいるマンションから、自転車を十分弱漕いだ場所にある。大きさだけ見ると立派だが、家を囲むレンガ調の外壁は雨だれで黒ずんで、手付かずで取り残されたような雰囲気がある。今年の夏休みは重い腰を上げてでも掃除を、と考えてはいるものの、この佇まいを見るたびにその気を削がれる。

 玄関前にある黒の門扉の横には車庫があるが、車はなく、真ん中がぽかんと空いていた。いつも通り、父は車でどこかに出かけている。おそらく仕事関係の人とどこか出かけているのだろう。私は胸の中の靄を吐き出すように息を吐いた。私が着く前に行っちゃって、何かあったらどうするんだ。せめて、私が来るまで待ってよ。そんな、もう何回言ったか分からない文句を頭の中で呟いた。

 車庫の中に自転車を停め、門扉から家の敷地に入る。そしてタイル張りの階段を昇って玄関にあるインターホンを押した。返答を待ちながらリネンシャツを脱いで、Tシャツの襟元をばたつかせる。まだ五月だが、自転車から降りると少しむっと暑さを感じる。着ていたTシャツの背中に汗がじんわりと滲んで不快だ。ただでさえ、母に会うってだけで気が重いのに。


 離婚した後、最初は新しい職場まで三十分程で通える場所に住んでいたが、半年ほど前から両親が住んでいる三鷹に引っ越した。きっかけは父からの電話だった。突然、父から「母の様子がおかしいから、面倒を見てほしい」と連絡があったのだ。最初は料理の味がおかしくなるところから始まり、その後、物忘れもひどくなった。同じものを何度も買ってきたり、さっきした食事を忘れたり、レンジにかけていた食べ物が放置されていたり。今までの母ではありえないようなことが度重なり、それを受けて明らかに普通ではないと思った父が、私に連絡してきたのだ。

「母さんがひとりで、ずっと『たいへん、たいへん』と呟いたりする。それが怖い。面倒を見てほしい」

 他の物忘れによる奇行を説明しながらも、父は私にそう言って来た。

 最初、私は断った。母がそんな状態になるまで放置してきた自分が悪い。それに、結婚に散々反対して、結婚後はほぼ連絡をしてこなかったような人が、今更連絡してきて母の世話を私に押し付けるなんて都合が良すぎる。最初の電話ではその場で口論となり、電話を切ってしまった。

 ただ、後になって母を放置することに罪悪感があったことと、金銭的な余裕を取りたかったこともあり、面倒を見る代わりに仕送りをしてくれるという条件で、近くに住んで定期的に面倒を見ることにしたのだ。


「………………はーい、どなたー?」

 しばらくの沈黙の後に、甲高い、しゃがれた声がインターホンの向こうから聞こえた。

「私だよ、京子(きょうこ)

「はーい」

 ほぼ食い気味にそう言って、ブツっとインターホンの通話が切れる。またしばらく待つと、玄関にかかった鍵が音を立てて開き、ゆっくりと開いた。

「……はーい?」

 小さく空いた扉の隙間から、体重を使って一生懸命に扉を押す女性の老人が見えた。ゆったりとしたズボンに、上には深いえんじ色の薄いカーディガンを羽織った、中肉中背の老人。少し腰が曲がっているせいか、私より背は小さく見える。そんな女性が、返事をしながら落ちくぼんだ目を丸くして、私の顔をじっと見る。まるで「どなた?」と言ったように。やはり私だと分かっていない。私はため息をついた。

「……私だよ、京子」

 私がそう言うと、しばらくして、ああ、と言って、にかっと笑った。

「ああ、京子、久しぶり。どうしたの、いきなり?」

「いや、だから毎月くるって言ったでしょ。先月も来たじゃん」

「ああ……、ああ。そうだね。そうだそうだ。そうだよね。あはは。じゃあ、上がって」

 母はまたそう理解したふりをして、私を家の中に通そうとする。この説明をもう何回したか分からないが、もう覚えてもらうことは諦めているので気にしない。私はいつも通りと思いながら、家の中に入った。

 家に入ったら私は自分の荷物が入ったショルダーバッグと玄関で脱いだシャツを机の上に置き、いろいろやり始めた。布団のシーツなどを洗濯物で回してから、キッチンを片付けて、冷蔵庫を整理して、掃除して、洗濯が終わったら入れていたシーツ類を庭で乾かす。そしたら今度はあまり汚れてない服とそうでない服を選別し、また洗濯機を回す。

 買い物は必要ない。無駄に物が溢れているからだ。母が買い物に行ったとき、すでにあるものを忘れてなんでもかんでも買ってしまうのだ。だからティッシュやトイレットペーパーはいくつもあるし、冷蔵庫やキッチンには使っていない食品や調味料がたくさん蓄えられている。余った生ものはどんどん捨てる。置いとくと間違って食べてしまう恐れがあるから。調味料や生じゃないものは残して置くが、あまりにも使いきれないものは捨ててしまう。今日はなぜか、干し椎茸が大量にシンク下の収納から出てきた。さすがに食べきれないだろうと思い、何個か捨てる。すると、それを見た母が怪訝な顔をして近づいて来た。

「何? それ捨てちゃうの?」

「そうだよ」

「なんでよ?」

「なんでって、こんなに使えないでしょ? こんな多く持ってたって、味が落ちて食べなくなっちゃうよ」

「……ええ、そう? じゃあ、持ち帰んなよ。体にいいよ」

「だからいいって……。 私もそんなに使わないよ」

「え? 登さんとかに何か作ってあげればいいじゃない?」

 母がそう言って、私は小さくため息を吐いた。これも、実は初めてではない。

「だから、私、もう離婚したって」

「……? ……ああ、そうだったか。あはは」

 また笑ってごまかす。来月にはまた忘れているのだろう。私は早々に諦めて「私やっておくから休んでていいよ」と言うと、母は庭側のガラス戸近くにあるリクライニングチェアにゆっくりと歩いていき、よいしょ、と掛け声をかけながら座って、日の光を浴び始めた。あのモードになったらしばらくは騒がない。やっと静かになったと思った私は、引き続き、母のせいで無駄になった食材たちを仕分けていく。


 半年前、何年かぶりに母に会ったときは何とも言えない感情になった。昔に比べてしわが増え、腰が曲がり、目も落ちくぼんでいる。まるで浦島太郎のように、知らぬ間に時が過ぎて、昔の元気な母がいつの間にか年を取ってしまったような感覚になった。そして「やっと帰って来たね」と言う母の言葉に、私と母との間に大きな空白があるように感じて、どこか空しい気持ちになった。

 母の世話を始めて分かったことは、まだ電話で話していたころの母から、まるでパズルのピースのように体力や記憶が欠けていき、何事もうまく行かなくなっていたことだった。記憶が抜けているため整理整頓が難しく、体力もないためそれが放置される。そして、うまくできないことへの苛立ちや、できない自分に情けなくなることで、感情も不安定になっていっている。私がいるときはかなり落ち着いて見えるが、父が言うに、普段は何かを常に心配し、不安がっているように見えるらしい。そんな姿を見聞きしていると、もう昔の母には戻れないのだと、つくづく思った。

 昔の母は過保護で、お節介で、何でも私のやることなすことに口をはさむような人だった。服を選ぶのも、習い事や部活を選ぶ時も、進路を選ぶ時も。母には「これが良い」と思うものが必ずあり、それを疑いもせず正しいと思い込んで押し付けてくるような人だった。父の家がいわゆる名士であり、そこに嫁いだということもあって、正しく育てなければならない、という使命感もあったんだと思う。母が思う正しいを、母は私に一生懸命伝えてきた。

 けど、私はそれが嫌だった。全てが先に決められてしまうようで、若いながらに鬱陶しく思っていた。ただ、善意一〇〇%の母を無理に説得するほど意思がなかった私は、母の言うことをいなしながらも、文句を言われないような選択を取っていた。進路は普通科のそこそこの高校に行って、そのまま大学に行き、大きな食品会社に就職した。

 だが、唯一、母の意向を無視したのが結婚だった。登と会社で出会い、付き合い始め、そして結婚した。母は大反対した。母は前からずっとお見合い結婚を望んでいたからだ。電話をするたびに「私がいい人を探してあげる」と言って、お見合いの話を持ってきていた。そんなときに娘がどこの馬の骨かも分からない人間と結婚するといい始めたものだから、母は大反対した。「なんでなの?」「どうしてなの?」とうろたえながら結婚を止めてきた。今まで不干渉だった父も「いきなり何言ってるんだ」と反対し、結婚前はかなりもめた。

「家に帰ってきて一緒に暮らせばいいのに、なんで?」

 電話越しで言い合っている中、母がポツリと言った言葉。それが母の本音だったんだろうと思う。自分の選んだ人と結婚をし、自分にその姿を見せる。それが母の唯一の願いであり、正解だったんだろう。

 ただ、もうすでに実家を離れ暮らしていた私には、それに従う理由がなかった。両親の意見に反しても、家を離れてしまえば、あの鬱陶しい文句も聞くことはない。そう思ってそのまま結婚に踏み切った。


 そんな、無理やり家を出て、半分縁を切ったような関係の母と、こんな形で会うとは思っていなかった。私が言ったことも、自分が言ったことも覚えられない。途端に昔のことを思い出したと思えば、話す内容はどこか欠けていて、体もうまく動かせない。そんな状態になっていた。

 もう、今までのことへの文句も言うこともできない。悪態一つ吐くことも、問い詰めることも無意味になってしまった。

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