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京子ー2

 二年半前、私は彼――(のぼる)に、離婚をしようと告げた。理由は、たくさんあるような気がする。けど、あえて一言で言うのであれば、疲れたからだった。仕事のこと、家族のこと、実家のこと。考えて、頑張って、悩み続けて。結果、向き合い続けることに疲れてしまった。そしてその先に何があるのか見いだせず、答えを出さないまま、終わらせてしまったのだ。


 最初の転機は、娘の歩が小学校三年生の時。彼のお義母さんが亡くなった時だった。とある日の朝、今まで元気だったお義母さんが、突然、トイレの中で静かに息を引き取っていたのだ。まさに青天の霹靂だった。子どもたちはまだ何が起こったか理解できていなかったが、私と彼はかなりショックだった。結婚後も支え続けてくれたお義母さんがいきなり亡くなって、本当に悲しかったのだ。ただ、悲しみに耽られる期間はそんなに長くなかった。慣れない通夜や葬儀、お義母さんの部屋の片付け、そして引っ越し。亡くなった後があまりにも慌ただしく、一瞬で時は過ぎ、悲しみは有耶無耶になった。二階建ての賃貸から、前よりは手狭な3DKのマンションに引っ越した後にはもう新しい生活に向けて動き出し、そのまま何事もなかったかのように、お義母さんを除いた四人暮らしが始まった。

 お義母さんがいない。その問題に直面したのは、その四人暮らしを始めた後だった。それまでお義母さんが担っていた家事も、自分たちでこなさなければならない。歩や晴信を、余裕をもって受け入れてくれる大人の存在もない。家族の暮らしも心も支えてくれていた屋台骨が、ふっと消えてしまい、その代わりを、自分たちが果たさなければならなくなった。

 大変だった。どれだけ仕事で疲れていても、家事を明日に持ち越すことはできないし、その中でも、子供たちに孤独を感じさせないよう気を配らなければならない。特に歩は友達も作らず、絵ばっかり描いているような子だったから、それを肯定してくれていたお義母さんを失った寂しさを、何とか和らげてあげなければと思っていた。専業主婦になることも考えたが、将来のことを考えるとかなりギリギリの生活になるため、それは避けたかった。そのため彼も手伝うとは言ってくれたが、仕事は忙しいし、家事の要領も良くないため、あまり多くをお願いすることはできなかった。

 それでも、私がそれに耐えることが出来たのは、やはり歩や晴信のおかげだった。仕事から帰ってきたら、二人が迎えてくれる。晴信は元気な笑顔で玄関まで出迎えて、学校の話をしてくれた。歩はリビングで静かに小説を読んだり、絵を描いたりしているだけだけど、たまに私のところまで来て本の内容を教えてくれたり、絵を見せてくれたりした。それが幸せだった。こんなこと言ったら不謹慎だし、お義母さんに失礼かもだけど、お義母さんがいた頃よりもこの触れ合いが尊く、かけがいのないものと感じることができた。そして、これがこのまま変わらず続いてほしい、とも願った。

 ただ、そんな都合よくはいかなかった。その年の冬、歩がいわゆるいじめを受けていることに気が付いた。冬のある日のことだった。家に帰った時、いつもの場所に歩のカーディガンが掛かっていないことに気が付き、歩を問い詰めた。すると、歩のランドセルの中から、白のチョークで汚れたカーディガンが出てきた。幼稚な罵詈雑言が背中に書かれ、歩が消そうとこすったのか、文字がかすれ、白が滲むように広がっていた。歩は、「ごめんなさい」と謝った。その「ごめんなさい」で、こういうことが初めてではないことが、なんとなく分かった。私は汚れたカーディガンを握りしめながら、謝って、涙を堪えることしかできなかった。自分を責めることしかできなかった。私はお義母さんの死を言い訳にして甘えてしまったのではないか。仕事と家事の両立とか言いながら、歩にしたことと言えば、何も考えず、ただ彼女が描いた絵を褒めていただけ。言葉を掛けるだけで、寄り添うことを避けて来たのではないか。私は、失敗してしまったのだろうか、と。

 しかし、私にできることは、歩のことを気に掛けるぐらいしかなかった。

 直後の三者面談で、担任の先生に相談し、先生からも気を掛けてもらうようにお願いをした。そこからは、家で歩と話すときは、学校の様子を聞いて、同じようなことが起こってないか探ってみた。中学に上がり、小学校の人間関係が終わった後も、私は心配で仕方なかった。また、小学校の時と同じことが起きるのではないかと。結果、私は仕事に帰って歩に会うと、常に学校での様子を気にしてしまうようになった。歩は「大丈夫」と言ってくれているのに、不安になってしまう。それが常になってしまった。だんだん、食事の時間を楽しめなくなってしまった。


 そこから、あらゆることがどんどん辛くなっていった。


 家以外の場でも息苦しさを感じるようになった。結婚前からずっと働いていた仕事場。家の都合で早めに帰ろうと、周りからの目線が痛い。そうなると、普段何気なくしていた雑談も入りづらくなっていき、自然と職場で孤立していった。さらに、実家から連絡が入るようになってきたのもこのぐらいからだった。もともと結婚に反対だった母が、週に何回も電話をかけて、近況報告をしながら、こっちに帰ってこないかと言うようになったのだ。断ることが決まっているとはいえ、母に強く言える度胸がなかった私にとって、週に数回この億劫なやり取りがあるのは、辛かった。

 そして、それらのおかげで溜まった負の感情を、ちょっとした言動で逆撫でするのが、彼、登だった。実家のことを相談すると「気にするなよ」とご飯を食べながら片手間に言うだけ。気にしないことが出来たら、こんなに困っていないのに、寄り添ってもくれない。家事をしてくれる時の中途半端な完成度もストレスだった。洗濯物を入れる場所や畳み方がめちゃくちゃだったり、食器を洗った後、シンクの周りがびしゃびしゃだったり。手伝ってくれているはずなのに、毎度イライラしてしまう。それが負担だった。だって、一緒に支え合うパートナーとして結婚したはずなのに、私が抱えている重荷を、彼は対等に支えてくれないのだから。

 いろいろとあった。ただやっぱり、歩や晴信との会話が楽しくないことが一番つらかった。忙しい中で、彼女たちと話すことが唯一の生きがいだったのに、それが彼女らの様子を窺う場になってしまって、だんだん頑張る気力を削って行った。


 朝、ご飯や洗濯をして、仕事行って孤独に耐えて、夜帰ったら歩のことを気に掛けて、彼と母の相手をして、そして家事をして。

 そんな一日を終わらせ、そして、また同じ一日を始める。

 最初は幸せで満たされていた我が家が、どんどん息苦しくなっていく。


 私のスイッチが切れたのは、歩が中学二年生の時。晴信も小学校高学年になり、家事も手伝うようになってくれて、手がかからなくなってきた頃だった。久しぶりに友達と会うことになり、大きな駅近くにあるカフェへ行くことになった。行くのが億劫だと思いながらも、家族から離れられると思うと少しわくわくしてしまって、久しぶりに化粧をして出かけた。無意識に、何か変化を求めていたのではと、今になっては思う。

 先にカフェで待っていると、彼女たちが来た。びっくりした。他の友達は化粧とか関係なく肌が綺麗で、歩き方が元気で、精神的にも生き生きとしているように見えた。急に、自分の姿が大丈夫か不安になった。

 席について話をし始めると、皆、楽しそうに子供の習い事の話や夫の愚痴を言う。愚痴、と言っても、私には幸せの裏返しのようなエピソードにしか聞こえなかった。家事をしてくれないのだの、子供の面倒を見てくれないだの。専業主婦で、手伝ってもらう必要が無いような人たちが何を言っているんだ、と思ってしまう。そして、こんなたわいのない会話にさえ負の感情を抱いてしまうほど私は歪んでいるのか、と自己嫌悪に陥る。

 そんな鬱々とした気持ちで話を一通り聞いた後、友達の一人が「京子(きょうこ)さんちはどう?」と聞いてきた。

 その時、私は、何も返せなかった。ふと自分を振り返ってみて、具体的な回答が返せないほど、何もないことに気が付いてしまった。仕事は一人で淡々とこなすだけで、家族との会話は息苦しいほど希薄で、実家との関係についても話すことはない。全部が中途半端で、人に言えるようなものが無い。

 恥ずかしかった。あれだけ頑張ったのに、私は、何のために頑張っていたんだろう。あれだけの時間を費やして、私は何をしたのだろう。そう、思ってしまったのだ。


 帰り道、駅前の店舗群の中にある、ジュエリー店や洋服のショーウィンドウに目が留まる。昔は服やアクセサリーが好きで、お金をためて買ったり、彼にプレゼントしてもらったりしていた。幸せだった。

 顔を上げ、周りを見回すと、来る時には気付かなかったものが、たくさん飛び込んでくる。視界が開け、息が深くなる。そして、帰りたくない、とぽつりとつぶやいた。


 あそこで頑張り続けた先に、私は何を得るのだろうか。この、ジュエリーや洋服を手にしたとき以上の何かを、本当に得ることができるのだろうか。

 歩が中学に上がり、弟の晴信ももうすぐ中学に上がるこの先、どんどん手がかからなくなり、家事も手伝ってくれる。だんだん、私がいる意味も無くなっていく。子どもたちとの距離も、どんどん遠くなっていく。

 そしたらその後、私はどうすればいいのだろうか。このままあそこで時を過ごして、前に感じていた家族の幸せは、取り戻せるのだろうか。

 もう、その自信が、その時の私には無かった。


 その一週間後、私は彼に離婚しようと告げた。その後、何回か話し合い、言い合いにもなったが、結果は変わらなかった。私が彼らの下を去り、職場を変え、一人暮らしを始めた。1Kの小さな部屋。一旦、全てリセットした環境で、静かに暮らしたかった。

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