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エピソード2 いっしょに帰ろう

教室の空気が、ゆっくりと戻ってくるのに時間がかかった。

さっきまで俺に抱きついていた――彼女は、何事もなかったみたいに一歩下がり、ふわりと手を離した。

俺の制服の背中に、微かに残った体温だけが、証拠みたいに張り付いている。


「えー……じゃ、自己紹介してもらおうか」


先生の声は、いつも通りの軽さを装っていたけど、喉の奥で引っかかってた。

黒板の前に戻った彼女は、ゆっくりとクラスを見回す。目の色が、教室の白い蛍光灯を拾って静かに光る。


高城紅葉くれはと申します。……紅葉と、呼んでください」


ふっと、教室の温度が一段下がったように感じた。

名字がついた瞬間、名前が“人間のもの”になってしまう――そんな、妙な違和感。

ざわめきがやっと再開する。「和風だ」「綺麗」「ドラマみたい」——どこからともなく飛んでくる囁き。

紅葉は、薄く微笑んで続ける。


「転校前は、穏やかな町で暮らしていました。こちらは……賑やかですね」


そこで、ふと。

彼女の視線が、ほんの一秒だけ俺に絡む。


「ね、耕平さん」


かすれた小さな声。

教室のノイズに紛れるくらいの音量なのに、俺の鼓膜だけを正確に撫でた。

心臓が一回、打ち損ねる。


(聞こえたよな、今の。やっぱり——)


「じゃ、空いてる席に座ってね。えーと……神谷の斜め前、空いてるな」


先生の指示で、紅葉は歩き出す。

すれ違う時、袖がほんの少し触れた。洗いざらしの布と、あの花の香り。

俺は息を飲んだまま、動けなかった。


「お前、何した。なぁ、何した」


昼休み、岡崎が机を寄せてくるなり、弁当の蓋も開けずに詰め寄ってきた。

箸の先で俺の肩を小突くな。人間の肩はスイッチじゃない。


「してねぇよ。何も。初対面だろうが」

「初対面で『旦那様』は業が深ぇって。前世で助けた? それとも前世で浮気した?」

「どっちもしてねぇよ。前世知らねぇよ」


口では突っぱねながら、頭の中ではまだ、夢の縁側の光がちらついていた。

あの笑顔。底に沈んだ氷。

「耕平さん」と呼ばれるたび、耳の奥で小さくカチ、と鳴る。


「神谷」


低い声。振り向くと、みゃーこが立っていた。弁当はすでに食べ終えてるらしく、箸袋をきゅっと折り畳んでいる。

その顔はいつも通り無表情に近いけど、目だけ真面目だった。


「ちょっと、貸して」


有無を言わせず廊下に引っ張り出される。

外気はまだ春の名残で、ほんの少し冷たい。窓の向こうで、紅葉が誰かに話しかけられて微笑むのが見えた。

笑顔は丁寧で、完璧で、隙がない。


「……あの子、なんか変だよ。遼、大丈夫なの?」


みゃーこが言う。声は小さいけど、言葉はまっすぐだった。

俺は肩をすくめる。


「変って……俺もそう思ってる。けど、何がどうって言えねぇ」

「言えないくらいの“変”が、一番面倒なんだよ」


一拍、沈黙。

みゃーこは窓の外から目を離さない。紅葉の立ち姿を、無表情でなめるように観察している。

見ているうちに、眉間がわずかに寄った。


「……距離感、おかしい」

「やっぱそう見えるか」

「うん。初対面の距離じゃない。あの子、自分の中ではもう“近しい人”の位置に置いてる」


言い方が冷静で、逆に寒気がした。

みゃーこは、ふっと息を吐いてから、わざと軽い調子を乗せた。


「——ま、でも。遼も隅に置けないねぇ。あのレベルに『旦那様』って言わせるって、どういう徳積み?」

「積んでねぇよ徳」

「うん、知ってる」


言って、目だけで笑った。

そのまま踵を返しかけて、俺にだけ小声で付け足す。


「……警戒は、しときなよ」


俺は頷くことしかできなかった。


放課後。

鞄に教科書を詰めて、適当にチャックを閉める。帰り道は裏門から出るつもりだった。

——いる。

顔を上げると、紅葉がそこに立っていた。自分の席から一歩も動いてないみたいな自然さで、いつの間にか“俺の隣”にいる。


「帰り道、少しだけお時間いいですか?」


声は穏やかで、柔らかい。

けれど、俺の喉は乾いた。さっきの“氷の瞬間”が、目の裏側に薄く残っている。


「え、あー……」


言葉に詰まっていると、みゃーこが俺の背中を指で軽く押した。

顔はからかい半分、けれど目は真剣だ。


「送ってやれば? ——でも、気をつけてね」


最後の一言だけ、俺にしか届かないような声量で落とす。

紅葉が、みゃーこに丁寧に会釈した。表面上は礼儀正しい美人だ。

ただ、その首の角度が“完璧すぎる”ことが、逆に不自然だった。


「……少しだけ、な」


俺は自分に言い訳するみたいに答えた。

紅葉が、嬉しそうに目を細める。


「ありがとうございます。少しだけ、で十分です」


十分、という単語の響きが、どこかで引っかかった。


校門を出ると、夕方の風が頬を撫でた。

人通りはそこそこ。部活帰りの生徒が前を走り抜け、遠くで自転車のベルが鳴る。

紅葉は半歩だけ俺より後ろを歩く。歩幅は綺麗に揃っていて、靴音のリズムまで合わせてくる。


「……この道、懐かしいです」


唐突に、紅葉が言った。

俺は顔を向ける。


「懐かしい? 引っ越してきたばっかだろ?」

「ええ。でも、ずっと前に、耕平さんと歩いたような気がして」


「……誰だよ、それ」


思わず低くなる。

紅葉は、深くは追わず、ただ目尻だけで笑った。


「ふふ……そうでしたね。今はまだ、思い出せなくても」


(今はまだ——?)

喉の奥に小さな棘が刺さったような感覚。


数歩、沈黙。

信号待ちの横断歩道で、車の排気が生温かく流れてくる。

紅葉が俺の袖口を見て、ふっと視線を上げた。


「昔と同じですね」

「何が」

「歩く速さ」


俺は言葉に詰まる。

紅葉は淡々と続けた。


「私が少し早足になっても、ちゃんと合わせてくれるところ」

「……偶然だろ」

「そういうことにしておきます」


会話の切り方が、妙に上手い。

これ以上踏み込まない、でも距離は詰める——そんな歩き方だ。


角を曲がる。住宅街の風が変わる。ひんやりして、洗濯物の柔軟剤の匂いが混じる。

紅葉が囁く。


「あの角を曲がると、風が変わるんですよ」

「は?」

「耕平さんは、いつもそこで立ち止まって、少し目を細めてました」


俺は足を止めてしまいそうになった。

息を整えるふりで、軽く鼻を鳴らす。


「俺、そんな名前じゃねぇって」

「……ええ、今は」


短い相槌の“今は”が、胸の奥でじわっと広がる。


公園の脇を通る。ブランコが一度だけ金属音を鳴らした。

紅葉は立ち止まらず、視線だけで中を一瞥する。


「この公園、——猫、いましたよね」

「さぁな。知らねぇ」

「よく、ベンチの下で丸くなって。あなたがしゃがむと、すぐ喉を鳴らすんです」


(知りすぎだろ)

喉が乾く。唾を飲み込む音が、自分でもうるさい。

紅葉は、俺の横顔を見て、ほんの少しだけ首を傾げる。


「怖がらせたいわけじゃないんです」

「じゃあ、何がしたい」

「近くにいたいだけ。前と同じように」


答えが、怖いくらい真っ直ぐだった。

嘘の匂いが一切しない。そのこと自体が、余計に怖い。


マンションの角で、俺の帰り道と紅葉の帰り道が分かれる。

通学路の三叉路。電柱の影が三本に裂けて、アスファルトの上で重なっている。

ここで、さすがに切り上げようと俺は口を開く。


「じゃあ、俺は——」


「神谷」


背後から、早足の音。みゃーこだった。息は上がっていない。

俺と紅葉の間に割り込むわけでもなく、けれど位置取りは“俺の側”。

視線で「帰る?」と問われ、俺は小さく頷いた。


紅葉が、みゃーこに会釈する。みゃーこも、ほぼ同じ角度で返す。

礼儀の応酬。表面だけ綺麗な、薄いガラス板みたいなやりとり。

沈黙が、ほんの数秒だけ伸びる。


「——それじゃ」


俺が言いかけた、その時。

紅葉が一歩、近づいてきた。

距離は詰めない。けど、声だけが近い。


「……これからも、ずっと、一緒に帰りましょう」


耳のすぐ側で、柔らかな声。

意味は、優しい。音は、優しい。

なのに、脊髄のどこかがキュッと縮んだ。


「え、いや——」


振り返る。

紅葉はもう、背中だけをこちらに向けて歩き出していた。

歩幅は俺に合わせたまま、音だけが軽い。

横を見れば、みゃーこが無言で俺を見ている。問いは浮かべたままで、答えは求めない目。


(……なんなんだ、こいつ)


喉の奥で呟いた言葉は、風に混じって消えた。

それでも、心臓の奥で“カチ”という音だけが、まだ鳴り続けていた。


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