エピソード1 やっと会えました、旦那様
#エピソード1 やっと会えました、旦那様
朝だ。
――というより、「朝みたいな景色」の夢だった。
障子越しに差し込む金色の光。
桟の隙間からこぼれた光は、宙を漂う埃の粒を一つひとつ金色に染める。
畳の青い匂い。
奥の台所から、湯の沸くかすかな音。
外では、風鈴が小さく舌を鳴らした。
縁側には、湯気の立つ湯飲みを持った女が座っていた。
着物姿なのに、古臭さはない。
襟元はきちんと決まり、指先の所作は清潔で、都会的ですらある。
年の頃は――俺と同じくらいか、少し上か。
目元はやわらかく、口元には淡い笑み。
「お茶、どうぞ」
湯飲みが俺の手に置かれる。
磁器の冷たさ越しに、内側の温度がじんわり伝わる。
湯気に混じって、若い葉の匂い……に、ほんの少し花の香りがまじっていた。
どこかで嗅いだことのある、遠い記憶をくすぐる匂い。
「今日は、お散歩、行けそうですね」
何でもない一言。
それだけで、胸の奥が少しあたたまる。
縁側の先、庭の緑が風にゆれ、葉の間からまだらに光が落ちる。
白い石に陽が反射し、薄い影がすばやく走った。
「……どこまで行く?」
自然に口をついた問い。
女は、少しだけ首をかしげて笑う。
「いつもの橋まで。途中で、猫に会えるといいですね」
「猫?」
思わず聞き返す俺に、女は目を細める。
「ええ。あの子、あなたにだけ懐くから」
――ドクン。
胸が大きく鳴った。
このまま、ずっとここにいてもいい――そんな感覚が、ふっと胸に浮かぶ。
……その時だった。
湯飲みを持ち上げた瞬間、女の笑顔がわずかに揺らぐ。
まぶたの奥の光が変わった。
優しさの底に、氷のような冷たさが沈み、その視線が俺を逃がさない。
耳の奥で、カチ、と小さな音がした気がした。
空気の温度が一度だけ下がる。
胸が、きゅっと縮む。
……なんだ、これ。
次のまばたきでは、もういつもの柔らかな笑みに戻っていた。
俺はそれ以上、深く考えなかった。
湯飲みを置く指が、わずかに震えたことにも気づかないふりをした。
……誰だっけ、お前。
そこまで思ったところで、目が覚めた。
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「よぉ、神谷!起きてるかー!」
学校に着くなり、窓の外から、うるさい声。
網戸ごしに顔を突っ込んでくるのは、隣の席の岡崎。
いつも騒がしい、陽キャの化身みたいなやつだ。
「うっせぇ……まだ朝じゃねぇか……」
「いやいや!転校生来る日だぞ!?美人に決まってんだろ、美人に!」
ほんと、うるせぇ。
俺は夢の内容を拾い集めようとしてたんだ。
けど、朝の光と一緒に、いつも端からこぼれていく。
あの女。
あの古い家。台所の音。花みたいな香り。
そして、笑顔の底に沈んだ冷たい何か。
その夢を見るのは、初めてじゃない。
前は縁側で一緒にスイカを食ってた。
俺が種を庭に飛ばすと、手を口に添えて、息を漏らすように笑う。
その前は、将棋盤を挟んで――「歩は歩なりに強いんですよ」なんて、よくわからん慰めをもらった。
「……マジで誰なんだよ、あれ」
胸の奥がざわつく。
岡崎は俺の顔を覗いて薄く笑う。
「お前さ、たまに遠いとこ見てんよな。寝不足?」
「……夢見が悪いだけだ」
「悪いのにニヤついてたけど?エロい夢なんじゃねぇの」
「黙れよ、もう」
階段を降りる途中、廊下の向こうで保科都――みゃーこが友達と歩いてるのが見えた。
岡崎の幼馴染だ。
俺と目が合うと、軽く顎だけ上げて「おはよ」と言い、すぐ視線を外す。
いつも通り、素っ気ない。
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「転校生マジ?」
「女子?女子来い女子……!」
「頼むから芋じゃありませんように!!」
「まずはお前が芋を卒業しろよな」
教室は朝から祭り前。
黒板の前では委員が席替えの案をめぐって揉め、後ろの列では誰かがカードを切る音を立てている。
窓際の二人は小声で映画の話。
蛍光灯の微かな唸りが、ざわめきの下で一定のリズムを刻む。
俺は自分の席で欠伸をひとつ。
どうせ、どっかから引っ越してきた普通の子だ。
クラスが一瞬盛り上がって、すぐ馴染んで、終わり。
“美人転校生がやってきて、人生が変わる”――そんなマンガみたいな展開、現実にあるわけがない。
みゃーこが前の席の男子の肩を指で軽く叩く。
「静かに。先生来る」
低い声。意外と通る。
ざわつきが半歩だけ引いた。
――チャイムが鳴る。
同時に、教師の声。
「今日から転校生が来ます。じゃあ、入って」
扉が開く。
床を擦る音が、やけに鮮明に耳に刺さった。
一歩、足音。
コツ、と硬い床を叩く。
その瞬間、教室の空気が薄くなる。
全員の呼吸が、ひとつ遅れた。
……嘘だろ。
見た目の話だ。
文句なしに可愛い。
黒髪ストレート、白すぎる肌、立ち姿まで上品。
整いすぎていて、少し現実感がない。
それでも、教室の景色にすっと馴染むのは所作のひとつひとつが丁寧だからだろう。
そして――その瞳の熱は、知っている気がした。
ざわめきが復活する前に、彼女は突如、歩を止めた。
目は、まっすぐ俺を射抜いている。
距離なんて関係ないみたいに、視線が一直線で届いてくる。
一歩、また一歩。
足音が近づくたび、周りの声が遠のく。
誰かがペンを落として、カラン、と音が教室の底で鳴る。
時計の秒針が、やけに遅く刻まれる。
まぶたが、ゆっくりと一往復。
そして――この世のものとは思えない、光り輝くような笑顔がぱっと咲いた。
それは“見つけた”人間の顔だった。
「……やっと会えました、旦那様。――紅葉です」
空気が凍り、ざわめきが飲み込まれる。
俺の喉が乾く。舌が上顎に張り付いて離れない。
彼女は周囲なんて存在しないかのように、一直線に俺の元へ歩いてくる。
なんだ?なんなんだ?
俺の背中を、汗が細く伝う。
その目の奥に――あの夢の、氷みたいな視線が重なった。
「――ようやく、見つけました」
次の瞬間、彼女は俺に抱きついた。
「……は?」
細い腕がためらいもなく俺の背に回る。
香水ではない、洗いたての布と日向の匂い。
ほんのり、あの花の香りが混じっている。
肩口に落ちる吐息が、体温より少し冷たい。
耳の奥で、またカチ、と小さな音。
現実の彼女の目が、それと重なる。
「――ずっと、探していました。耕平さん」
呼吸の仕方を忘れた。
背筋の内側を、冷たい水がつっと下りていく。
耕平?誰だよそれ。
俺の名前は、神谷遼――……のはず、なんだけど。
舌先で味わうように、彼女はもう一度名を呼ぶ。
「耕平、さん」
その瞬間、脳の奥で何かが弾けた。
縁側。猫。橋。将棋。種飛ばし。笑い声。手の温度。花の香り。
そして、笑顔の底で静かに凍る、あの目。
(……やばい。こいつ……)
逃げろ。
本能が赤いランプを点けた。
でも俺の足は、まだ床に縫い止められたままだった。




