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後編

 両親の顔を知らない。

 血を連ねている、一族の足跡を知らない。

 彼らが生きてきた土地を、故郷のことを知らない。

 あたしには歴史が無い。生まれる前の軌跡が無い。根を張るだけの歳月が無い。魔術師キュナスは何もないところからぽんと生えてきて、他者とのかかわりを通じて己を定義してきた。

 魔術の知識を蓄え、いくら研鑽を積んだところで、こればかりはどうしようもない。


「今さら戻って来て、いったい何のつもりだい」


 イルマさんの厳しい声が屋内で響く。

 老婆は質素な机に肘を付いて、自分から顔を逸らす息子を睨みつけている。


「何って……面を拝みに来ただけだろうが」


「勝手に出て行ったくせに、今度はいきなり押しかけた挙句もてなせって? こりゃ驚いた。王都じゃあ傭兵ってのは大層偉い職業なんだねえ」


「ああそれなりに偉くなったさ。けどよ、もてなせなんて言ってねえ。こんな貧乏くさい場所で何を期待するもんかよ」


「その貧乏くさい場所で貧乏くさい女の股ぐらから生まれたのがあんただろうが。今どれだけ稼いでるか知らないけどね、自惚れるんじゃないよまったく」


 小さな身体に似合わず、力強い御仁だ。

 濁流のように押し寄せる言葉に気圧されて、あたしはすっかり黙り込んでしまった。ゲヴァルトは椅子をひっくり返しかねない勢いで立ち上がると、窓辺に近付く。彼は頑なにこちらを、ひいてはイマルさんを見ようとしない。


「心配される筋合いはねえよ。オフクロこそ、いつまでこんなみみっちい場所にいるつもりだ?」


「それこそいらぬ心配さ。ヴァルトタールは良い場所だ。魔獣も出ないし空気も良い。みんな年寄りにとぉーっても優しくしてくれる」


「んだよ、当てつけか?」


「いんや。もしかして心当たりがあるのかい? 悪かったねえ、坊やの繊細な心を傷付けちまったよ」


「それだけ口が回るんなら、荒野の向こう側はまだ遠いだろうな」


 玄関口の近くに立てかけていた斧を取り、傭兵は扉を開ける。

 「ちょっと、どこへ行くの」と呼びかけると、彼は背中を見せたまま「ちょっくら村を回ってくる」と言いながら出て行ってしまった。

 ばたりという音と一緒に取り残される。扉を凝視していたが、視界の外から放たれる老人の強烈な圧迫感に身じろぎしてしまう。

 ゲヴァルトの馬鹿。いつもなら実際に浴びせる罵倒も、今は口にする勇気はない。

「あんた」という声が、漂っていた沈黙を唐突に破った。


「せがれのなんだい。まさか嫁じゃあないだろう」


「ええ、まあ……どうして分かったんですか」


「あんたみたいなべっぴんさんを、あいつが捕まえられるわけないからね」


 イルマさんは息を漏らしながら席を立つと、緩慢な動きで台所に向かい、紅茶を淹れた。あの手の嗜好品は都市周辺であれば珍しくもないが、田舎では高級品だ。

「お気になさらず」と声を掛けても、手を振るばかりでやめる気配は無い。


「ついて来いとでも頼まれたのか」


「いいえ、こちらから頼んで、無理やりついてきたんです」


 あたしの前に茶器を差し出してから、老婆は顔をぐいと近づけてきた。その眼差しは、瞳を通じて心の内を見透かそうとしているようで、たじろぐ。


「良い目をしているね。昔の自分を思い出す」


「えっと……それは、どうも?」


「それで?」とイルマさんは椅子に腰かけながら、問いを投げかける。「まだ最初の質問に答えてもらってないよ」

 難しい質問だと思った。

 共に魔王を倒した戦友です、なんて言っても、冗談はよせと一蹴されておしまいな気がする。あるいは同じ職場の元同僚です、というのも味気ない。今の時点において、ゲヴァルトとの関係を端的に説明する言葉が見当たらなかった。


「…………友達です」


「ふうん。するとなんだい、あんたも傭兵なんてアコギな商売やってんの。もったいないねえ」


 膝元に置いていたとんがり帽子を軽く持ち上げて、老婆に職業を示す。


「モルゲンブルグで魔術師を。普段は薬の調合なんかで生計を立ててます」


 凝り固まった老婆の眉がわずかに動く。机にもたれかかっていた彼女は居住まいを正し、神妙な面持ちになって、「荒野におわす勇者よ」と短く祈りの言葉を述べた。


「そりゃあ大変だっただろう。色々あったって聞いてるよ」


 戦争があった。あたしが住んでいた都市は、敵勢力の攻勢によって壊滅的な損害を被った。長く続いた争いの中でも、モルゲンブルグ襲撃事件が王国にもたらした衝撃は大きい。

 それこそ、このような遠い地域に情報が届くほどに。


「あそこは今、どうなってるんだい」


「復興作業も終わって、以前より活気が増したぐらいです」


「そりゃあいい。あんたも、故郷を失わずに済んで良かったね」


「帰る場所がなくなるのは、誰でも辛いことだからね」とイルマさんは頷いている。

 否定するべきか迷ったけれど、話をややこしくさせるのも嫌だったので、やめた。モルゲンブルグは故郷でなく、人生の中で偶然行き着いた場所に過ぎないと言っても、老婆はぴんとこないだろう。


「でも、不思議な感じです。外から人がたくさん来て、新しい建物も出来て、様変わりする都市を見ていると、いつか自分の知るモルゲンブルグが消えてしまうような気がします」


「仕方ない。人も物も変わっていくもんだ。この村も同じさね」


「そうなんですか。ゲヴァルトはあまり変わらないと言ってましたが……」


 それこそが、故郷というもんなのさ。

 老人が、ここに来て初めて笑みを見せる。俯きがちに口角だけを歪ませるその仕草は、酔っぱらった時にゲヴァルトが見せる表情と似ていた。

「どういうことですか?」と尋ねると、イルマさんは窓の方向に顔を向ける。


「家の外にある通りはね、せがれがここに住んでいた頃からある。村の外周を流れる小川もそうさ。今ぐらいの時間になれば、暖かい風がどこかを通り抜けていく」


「変わらないものもある、と?」


「ここに残り続ける限り、故郷は変わらない」自分のこめかみを指で叩き、それから溜め息を吐いた。先程と比べて、彼女から威圧感が抜けているのに気が付く。

 茶器のふちを撫でながら、あたしは思い浮かんだ疑問を声に出した。


「では、知らない人間はどうなのでしょう。帰る場所を最初から持たない人間は……」


 口元に手を当てながら、小さくうなる老婆を見て、しまったと思う。

 変な質問で相手を困らせてしまった。取り下げるため口を開きかけると、イルマさんは首を横に振った。


「そんな奴、いないさ。故郷ってのはね、人間が最初にかかる魔法なんだよ」


「……魔法?」


「人は、生きていれば必ず何かを見て育つ。匂いや手触りを感じながら大人になっていく。そうして何十年と月日が流れて、ふと、昔に感じたそれらを懐かしく思う。あるいは、当たり前みたいに染み付いてるかもしれない。あんたも、心当たりがあるんじゃないかね」


 知っている。

 白い息を、冷え切った指先を、通りまで流れてくる酒場の喧騒を。モルゲンブルグで感じてきた何もかもが身体に染み付いている。

 これこそが故郷だと、イルマさんはそう言った。


「もちろん、そういうのが嫌で、さっさと忘れちまいたいと思ってる人間もいるだろうけど……でも、そうか、あいつは覚えてたのかい……」


 子供の笑顔を思い出す。怪我の痛みが和らいだ母親を見て安心する子供を。

 土地の記憶とは、即ち物の記憶であり、また人の記憶だ。様々な情報が付随して、一つの大きな輪郭となる。これを故郷と名付けて良いならば、あたしにとっては、あの雪国がそうだ。

「よっこらしょ」そう言って老婆が立ち上がり、腰をさすりながら、ゲヴァルトが持って来た王都産の土産物を見た。


「せがれを呼んできておくれ。そろそろ昼食の時間だ」


 言われるがまま、家を後にする。玄関口を出る直前に「そういえばあんた、旦那はいるのかい」と尋ねられた。自分のやりたいことで手一杯だと笑いながら答えると、「良い時代になったね」と老婆は穏やかに言った。

 彼女の予想通り、ゲヴァルトは村外に流れる小川のほとり座り込み、流れる水面を静かに眺めていた。驚いたのは、彼の近くに魔獣の死体が転がっていたことだ。


「なんだか既視感あるわね」


「……よくここだと分かったな」


 一見すると野生の熊に似ているが、その体躯は通常の三、四倍はあり、肥大化した頭部からは軟体動物の触手のようなものが幾本も生えている。腹から零れ、活動を停止した臓物が、怪物の絶命を示していた。

 近寄ると、ゲヴァルトが足元に転がる小石を川に投げているのが見える。また宙に浮かせてやろうと思ったが、杖をあの家に置いてきたのだと思い出した。


「お前が俺の昔馴染みと話してる時に、見たことない岩があると気付いた。おかしいと思って見てみりゃあ、このアリサマだ。ド田舎じゃあまり出ないって聞いてたが、流れてきたのかねえ」


「後で領主様に報告したほうがよさそう」


「んで、オフクロは何だって?」


「昼食を食べましょうって」


 とはいえ、死体を野ざらしにしておくのは衛生的に良くない。イルマさんには申し訳ないが、処理を優先することにした。

 ゲヴァルトが慣れた手つきで肉を解体している。野生動物であればこのまま持って帰りたいところだが、残念ながらこれは魔獣だ。人体にどんな影響をもたらすか分からないし、領によっては禁止とされている。

 いくつかの部位を並べながら、傭兵は「期待してたもんは見られそうにねえな」と言った。


「期待って?」


「とぼけんなよ。お前、帰郷ってやつがどんなもんか見てみたかったんだろ? だから近くにいた俺を体よく利用した」


「人聞き悪い言い方しないで。純粋な善意と、ついでの興味よ」


「割合は」


「…………四、六ぐらい?」


 嘘。本当は二、八だ。

 以前から興味があった。故郷へ帰るとはどういう感覚なのだろうと。感動か、悲哀か、別の何か、劇的な物語が待っているのだろうか、と。

 それほどまでに感情を突き動かされるものなのだろうかと。

 だが、いざ付いて行ってみれば、そこに劇作家が好みそうな物語は無く、川面に小石を投じるような、ささやかな日常の延長にある光景を見せつけられるだけだった。

 そういう意味では、確かに期待外れだったかもしれない。


「でも、がっかりって感じでもないわ」


「へえ、そりゃあ付き合ってやった甲斐があるってもんだ」


「……実はね、誘われてるのよ。もう一度、城仕えをしてみないかって」


 ゲヴァルトが作業の手を止めて、こちらを見る。

 ほとりに腰かけ、あたしは陽光を反射してきらきらと輝く川面を眺めた。


「まだ返事してない」


「おいおい、せっかくの申し出だろう。受けねえのか」


「迷ったけれど……断るわ。ほら、領のお仕事って、未来を築くためにあるでしょう。きっと意義深いのだろうけれど、でも、今はただ、目の前のものに向き合おうと思ってるの」


「向き合うって?」


 足元に転がる小石を拾って川面に投げた。それは音を立てることもなく水の中へと紛れ込み、どこか遠くに流されていく。

 小石の行方に耳をすませながら、あたしは「故郷」と答える。


「故郷、ねえ……」


 肉を捌きながら、ゲヴァルトが呟いた。



────



 二人で家に戻ると、イルマさんが昼食を用意して待っていた。

 飛んでくる皮肉に対し、ゲヴァルトは意外にも受け流す姿勢を見せ、大人しく食卓についた。むしろイルマさんのほうが、そんな彼の様子に、やりにくそうにしていた。

 土産物である遠方の調味料を使って作られた料理は、ぴりりと辛く美味しい。見たことも無い材料でどうやって作ったのか問いかけると、老婆は「年の功さね」とだけ答えた。


「なあ、オフクロ」


 昼食を食べ終えた後、ゲヴァルトが神妙な面持ちで切り出すと、屋内に妙な緊張感が漂う。あたしは親子の顔を交互に盗み見たが、まるでこれから殺し合いでも始まりそうな空気であった。


「本当にここを離れるつもりはねえのか。俺は……」


「ないよ」


 傭兵の顔が引き攣る。彼なりに歩み寄ろうとしているのだろうけれど、相手は頑なだった。また罵倒の応酬でも始まるのかと身構えていると、先に口を開いたのはイルマさんのほうだった。


「あたしがいなけりゃ、あんたは二度とここに戻ってこないだろう。だから、いる。なんでも変わっちまうのが世の常だから、せめて母親だけはね」


「……一番変わったのはあんただよ」


「あら、そうかい」


「記憶の中のオフクロは、いつも背筋を伸ばしてた。声は無駄にデカかったし、立ち上がる時にうめき声なんざあげなかった。なにより……こんなふうに、真面目に息子と話すことなんて無かった」


「馬鹿らしい」そう言って、老婆は歯を見せながら笑った。


「いつまでもお子様気分でいるんじゃないよ。言ったじゃないか、なんでも変わっちまうのが世の常さ。さっさと慣れな。傭兵ったって、たまに戻ってくるぐらいはできるんだろ」


 ゲヴァルトの眉がぴくりと動く。突き出していた下唇をしまい、深く息を吸うと、彼は自分の母親を真っ直ぐ見据えた。


「その、なんだ…………まあ、気が向いたらまた来る」


「よし。ついでに労いの言葉と肩もみも頼むよ」


「うるせえ」


 イルマさんの提案で、今日は村に滞在することとなった。ゲヴァルトは渋ると思ったのだが、特に皮肉などを挟もうともせず快諾した。なんだかよくわからないが、彼らなりに落としどころを見つけたらしい。

 ただ、傭兵は老婆に「夕飯はいらない」と言った。疑問に思っていると、彼はこちらに例の笑みを向けた。


「昔馴染みと飲みに行ってくる。オフクロの言うように、さっさと慣れねえとな」


「あら、じゃあ酒場の隅で久しぶりに飲んじゃおうかしら」


「お前は付いてくんな。介護役はごめんだ」


「店主に迷惑かけんじゃないよ」というイルマさんの言葉を背に、あたしたちは玄関の扉を開けた。

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