前編
陽光に晒された水面がチカチカと光を放つ。
絶え間なく揺れ動く白い輝きと、流れゆく血を目で追っていると、背後から「ねえ、ゲヴァルト」と声が降ってきた。顔を上げると、大きなとんがり帽子に覆われた顔がこっちを見ている。
「そろそろ出発しないの?」
後方に転がる魔獣の死体に目をやって、それから女に戻すと、わざとらしく欠伸をしてみせる。険しい顔を作り、斧の横に転がっていた小石を拾うと、川に投げる。
ぽとんと小さな音を立てて沈む────前に、小石は軽く浮かび上がり、蝶みたいに宙を舞うと、俺の足先に落ちた。
女が長い杖で地面を打ち鳴らす。遊んでる暇はないとでも言いたいのか。
「帰りが遅くなるわよ、夫人に追加の休日でも貰うつもり?」
雇い主の恐ろしい笑顔を思い出し、短くため息を吐いて立ち上がる。
傭兵という職業は、休暇を伸ばすほど食い扶持が減る。自営業の辛いところだ。出発するにしろ、しないにしろ、早く決断しなけりゃならん。
「なあキュナス。やっぱりやめにしねえか」
「はあ? 本気で言ってるの」
つばが親指でくいと上げられ、魔術師のひそめられた眉が露になる。
「お母さんはどうなるの。一人寂しく待ってるんでしょう?」
「勝手に捏造すんじゃねえよ。オフクロは……今さら会ったってしゃあねえだろ」
「きっと心配で夜も眠れない生活をしてるわよ。息子が遠くい場所で傭兵やってる挙句、いい歳していつまでもふらふらしてるんだから」
耳の痛い言葉を矢継ぎ早に繰り出してくるやり口は、共通の友人を彷彿とさせる。
「だから捏造すんなって言ってんだろ……」
里帰り。
土産を持って、山を越え、谷を渡り、時間をかけてド田舎までやってきたのは、ウン十年と会っていない母親の面を拝むためだ。
正直、気乗りしない。デカいことを成し遂げてやると家を飛び出した時、背中に浴びせられたのは「二度と帰ってくるな、恩知らず」という怒号だった。
「安心なさい。何かあっても、あたしがきちんと助け船を出してあげるから」
「お前だから安心できねえんだろ」
「何を」と、赤髪の魔術師は顔をしかめた。
元を辿れば、帰省はこいつの提案だ。いつだったか両親の話題になって、母親の話をしてしまったのが運の尽き。絶対に一度は戻るべきだと言って聞かず、押し切られる形でここまで来ちまった。
気を遣ってのことだろうというのは分かっている。人間の命なんざ簡単に消し飛ぶご時世だ、機会を逸すれば二度と会えないかもしれない。しかし。
「つうかよ、生きてるかも分からねえんだぜ。別に……」
行かなくてもいいだろ。そう言いかけて「意気地なし」という声に遮られる。
キュナスが、持っている杖に小声で何か唱えると、足裏の感覚が消失した。思わず声を漏らす。ゆるやかな風に全身が包まれて、俺は浮遊していた。
先ほど小石を掬い上げたのと同じ、風の魔術。自然法則に干渉し、己の望む結果を手繰り寄せる、魔術の業だ。
「おい、下ろせ!」
「ゴネ続けるなら、このまま運んでいくわよ」
ひとしきり悪態をついても、魔術師は引き下がらない。
素直に諦めて降参を表明すると、「最初からそうすればいいのに」という言葉の後に、地面に落とされる。クソが、目上の人間に敬意ってもんはねえのか。
内心に留めておくつもりだったが、無意識に漏らしていたのだろう。キュナスは鼻を鳴らし、腹這いになっている俺を見下ろして言った。
「貴方に払う敬意……どこに置いてきたかしらね」
宿を出て、山を迂回するように作られた道を暫く歩けば、村はそう遠くない。
俺とキュナスは、共に仕事をしていた時のように、荷物を背負い、いつもより歩く速度を速めながら、ろくに整備されていない泥道を行く。徒歩での長距離移動なんざしばらくやってなかったが、案外やれるものだと、自分のことながら感心した。
「そういや、お前んとこの侯爵様は元気にしてんのか」
「部下の人がね、よくうちに来るのよ。栄養剤とか買っていくの。仕事が大変みたい」
「薬なら城仕えの医者が処方してくれるだろうに」
「仕事し過ぎだから休めって、出してくれないんですって」
「へえ、じゃあ侯爵様が過労で倒れたら、お前のせいだな」
「まさか。闇の権力に圧力をかけられた被害者よ」とキュナスは冗談めかして笑う。かつて魔人との戦争で最前線に立っていた魔術師は、都市の片隅で、薬を調合して生計を立てている。英雄としての経歴や、小難しい魔術の論文を発表しても、それだけじゃ食っていけないのだから、大変なこった。
あれだけ好きだった酒も、生活費のためにある程度控えているという。
「また城仕えに戻りたいとか思わねえの?」
何気ない質問にキュナスは肩を竦める。
「どうかしらね。あたしに何かできるとも思えないけど」
「そうでもねえだろう。お前ぐらい優秀ならいくらでも……」
「時代は移ろいゆくものよ。軍勢を吹き飛ばす火球で目玉焼きを作る人はいない」
キュナスの口ぶりは素っ気ない。
隣を見るも、とんがり帽子の大きなつばが表情を覆い隠していた。
「今の生活に不満もないの。贅沢には興味ないし……やりがいもある」
この前、隣家の子供が訪ねてきて、母親の火傷を治してほしいと言ってきたと、魔術師は語る。
「修道院で診てもらうよう促したんだけど、せめて痛み止めが欲しいって。だから容態を確認しに行って、塗り薬を渡したの。あの子、安心したのか笑ってくれたわ」
「母親は?」
「だいぶ落ち着いた。後は、二人を修道院に連れて行っておしまい。大した話じゃないかもしれないけど、誰かのためになってるって実感できるでしょ。城仕えには味わえない経験よ」
二人分の足音が、人通りのない道を往く影に続く。
時代は移ろいゆくもの。
キュナスの言葉が、俺の脳内でいつまでも反響していた。
────
俺の故郷は、何の変哲もない村だ。
ヴァルトタール。親のことを聞かれるまで、名前すら忘れていた。
到着すれば何かしらの感情が湧いてくるものかと思ったが、現実はそうでもないらしい。記憶に在るより狭く、小さく感じる家屋が居並び、小川に囲われている。朝焼けが数年越しの帰還者を出迎えた。
結局、昨日中には到着できず、野宿する羽目になったが、まあ仕方ない。
「どう、久しぶりの故郷は」期待を込めた眼差しを向けるキュナスに、俺は肩を竦めた。
「どうだかな。見てくれはあまり変わらないが……なにせ時代は移ろいゆくもんだ」
「ちょっと、マネしないでちょうだい」
後頭部を軽く小突かれる。固い触感から、使われたのが長杖なのは明白だ。
ったく、仕事道具なんだからもっと大切にしろっての。
「旅の方ですか。珍しいですね」
杖を手元に引っ込めて、キュナスが帽子を深々と被り直す。俺よりも早く、魔術師は愛想の良い声色で「こんにちは」と挨拶した。
先にこうされてしまうと、こちらも挨拶をしなければ収まりが悪い。クソが、逃げ道を塞いできやがったな。と内心悪態を吐きながら、やってきた村人の男に口を開こうとする。
「ありゃ、お前……ゲヴァルトか?」
だが、またしても先を制されちまった。
傭兵という職業柄、一方的に素性を知られているという状況はどうにも落ち着かない。遠い過去に思考を巡らせながら、相手をまじまじと見つめると、ふと、昔日の思い出が浮かんでくる。
脳裏に過った名前を口にすると、男はよそよそしい態度を捨て、破顔した。
「久しぶりじゃないか!」
昔馴染み、というやつだろうか。
ガキの頃、よくつるんでいたうちの一人だ。相手に増えた小皺を眺めながら、一周回って、自分の老いを自覚する。
「なんだよおい、帰ってきたんだな。隣の娘、まさか子供……いや嫁さん?」
「いや違う。こいつは……」
「はじめまして。キュナスと言います。ゲヴァルトとは同じ職場の仲間でした」
まあ、嘘ではない。
ここであれこれと話しても無駄に長くなるだけだと踏んだのだろう。キュナスは当たり障りのないことを言って、男の好奇心を適当に躱す。
存外に器用な真似をするもんだ。行動を共にしていた時間は決して短くないが、そういえば、他人と交流しているところはあまり見たことが無かった。
二人が言葉を交わしている間、顎髭をさすりながら様子を眺めていた。
「ところで、彼のお母様は?」
「家にいるんじゃねえかなあ。元気にしてるよ」
キュナスがこっちに意味ありげな視線を寄越す。「良かったじゃない」なのか、それとも「ほら見たことか」と言いたいのか、それは分からない。
顔を背けると、村の外い広がる風景を見やった。特別、眺めがいいわけじゃない。実家嫌いな知り合いの故郷には王都を一望できる小高い丘があり、唯一の美点であったらしいが、ヴァルタトールに関しちゃそういった場所もない。
ま、俺は景色を楽しむような性質でもないが。
「なあ、ゲヴァルト!」
名前を呼ばれ、我に返る。
気が付くと、男がすぐ傍まで近寄っていて、俺の肩にぽんと手を置いた。ここが戦場であったなら二歩下がり、背負っていた斧を引き抜いて、相手の首を切り落としていただろう。
そんなことを考えている自分に呆れる。
「オフクロさんに挨拶したら、ちょっと飲もうぜ。お前の近況聞かせてくれ」
「ああ、おう、時間が余ってたら付き合ってやるよ」
どうやら、凄腕傭兵ゲヴァルト様の名声はここまで届いていないらしい。残念でならないが、戦争の英雄であるキュナスの名前にさえ反応していないのを考えれば、当然か。
昔馴染みに見送られながら、俺たちはその場を後にする。
「良かったじゃない。お母さん、元気ですって」
「まあ、そうだな」
「なんだか歯切れ悪いわね。さっきもそうだけれど」
さっき、と言葉を繰り返すと、キュナスは声を低くして、「ああ、おう、いけたらいくわ」と似てもいないモノマネを披露した。
「よせっての。ああいう時は、無難な返事をしておくのが礼儀ってもんだろ」
「礼儀ねえ……面倒くさいだけじゃないの?」
「んだよ、やっかみか? お前にゃあ誘ってくれるダチなんざいないもんな」
「そそそ、そんなことないけれど。謂れのない悪口はやめてくれない」
正直なところ、まだこれっぽっちもピンと来てなかった。
数十年ぶりに再会した昔馴染みも、まだ元気にしているという母親も、この村の風景も、覚悟していたよりも変わっていないが、記憶と完全に一致するわけじゃない。
ふと俺は、自分が故郷に何を求めていたのかさえ分かっていないことに気が付いた。
「悪ぃな、この年齢になってくると何事にも無感動になってくんだよ」
「つまり、あたしもいつかそうなっちゃうの? 年は取りたくないものね……」
「否が応でも年は食うもんだろうが。精々覚悟しとけ」
無駄話をしていると、目的の場所が見えてくる。
昔と変わらないのであれば、わざわざ誰かに尋ねるまでもない。近所の連中と村の外で遊んだ帰り道。ちょうど今と同じように、だらだらととりとめのない話題をくっちゃべりながら、日差しの下を歩いていた。澄んだ川面の照り返す光が眩しくて、やたら頭の片隅にこびりついている。
記憶と同じ場所に、やはり家はあった。
「こじんまりとしてて暮らしやすそう。良い場所じゃない」
「やんちゃなガキには狭すぎるぐらいだったさ」
手の甲が扉に触れる手前で動きを止める。
何を躊躇ってる。昔のことを適当に謝って、適当に話して、それでおしまいだ。
俺は意を決して、扉を叩いた。「はあい」というくぐもった声が中から聞こえる。がちゃり、と玄関口が開くと、中から人影が出てきた。
「よう、オフクロ」
老いた母親は、記憶の中にあるよりも、ずっと小さくなっていた。