地獄に行きたい男
前に書いてたちょっとした短編です。
ぷしゅう。
黄色いバスの出口から、一人の男が降りてきた。
若干貧相な、四十すぎの黒地にグレーのストライプが入ったスーツを着ているその男は、手持ち無沙汰にしながらも、周囲を雪国にあるような強化プラスチックの屋根に覆われたバス停で周囲を見渡す。
周囲は一面、白い。雪化粧ではない、住み慣れた灰色の街ほど寒くもなく、静かだ。それでいてどこかからか光が差し込み、手元まで明るい。
男は歩き出した。近くにリノリウムの階段があったからだ。バス停の文字は何と書いてあるか分からない文字だし、左手首に着けている時計は銃弾を受けて壊れている。時間も分からない。
ため息を吐きながら、階段をほんの二十段ほど昇ったところで、まるでリゾートホテルのロビーカウンターのような場所に男は出た。
ぽかんと呆気に取られていると、カウンターの中にいた金髪の男——高椅子に座ったドアマンの格好をしたそいつは、紙タバコをくわえていた——が、声をかけてきた。
「そこに突っ立ってないでこっちへ、順番的にMr.ダフィールドだろう。はいこっち、書類にサイン」
急かされて、ダフィールドという本名で呼ばれた男はカウンターに近づく。
「何で俺の名前を? そっちはろくに使っちゃいないが」
「は? あんた、偽名使ってたのか」
「悪いか」
「偽証ねぇ。まあ、そのくらいなら主もお許しくださるよ」
何だか大仰なドアマンの口振りに、ダフィールドは閉口する。
とりあえず、ダフィールドは差し出された書類を読む。そして叫ぶ。
「『天国行き入域許可証発行手続きまでの滞留諸手続き』?」
「ああ、みんなそういう反応するから大丈夫。ちゃんと説明するよ。ここは天国への入り口だ。だからここに来るやつはみんな天国行きの善人、それは保証されてる。ただ、天国側は慢性的に人員不足で処理が追いついていない。処理が済むまで、ここで過ごしてもらう。何、早くて数時間、遅くても二、三日だ。分かったら、そこにサインを」
ドアマンは何事もなく書類の下部を指差す。
「へー、そんなことになってんのか」
「そうそう。俺はここで受付やってる」
「受付ね、あーはいはい……誰がそんなこと信じるか!」
ダフィールドは渡されそうになったペンを弾いた。
そのまま勢いでカウンターを越えてドアマンの胸ぐらを掴み、表情ひとつ変えていないドアマンへ叫ぶ。
「あのな? 俺はコロンビアからやっとこさ運んできた積荷の確認に港の倉庫にいたら、突然銃撃戦に遭ってそれから憶えがねぇんだ。積荷の中身はトン単位のクラックだ、ここ最近じゃ取り締まりが厳しくてそりゃあ苦労したんだよ。くそ、そのせいで俺は何度胃痛に悩まされたか分かったもんじゃねぇ! 見ろ、髪も減った気がする!」
「落ち着け、そりゃただの老化だ」
「うるせぇ! そんな俺が天国に行けるような善人なはずがねぇだろ! もう一回調べろ!」
「オーケーオーケー、分かったから。書類ミスもたまにはある、自己申告は珍しいがな」
「いいからやれ! ったく、けったくそ悪ぃ!」
ダフィールドはドアマンの胸ぐらを掴んでいた手を離し、カウンターに肘をつく。
平然としたドアマンは火の巡りが悪い紙タバコを揺らしながら、何やら手元のパソコンのキーボードをカタカタ打つ。妙に手慣れたところが、ここが事務処理の最前線なのだと思わせる。
しばらくして、顔も上げずにドアマンはダフィールドへこう告げた。
「いや、間違いはない。あんたは天国行きだ、ジャイルズ・ダフィールド」
「は?」
「問い合わせもした。これで間違ってたら俺は地獄の悪魔に指差されるだろうよ」
「何て言われるんだ?」
「あらあら事務のひとつも満足にこなせない天使様のお通りよ、って感じで」
「お局様かよ。まあいい、俺は地獄に行く。手配しろ」
「できなくはないが、ちょっと時間がかかる。再審査のこともあるが、問題は移動手段だ。ここに来るときにバスに乗っただろう?」
「ああ」
「あれの時刻表をいじって、臨時便を手配しなきゃいけない。いつになるかは分からない、それでよければ」
「それでいい。審査したやつに文句言っとけ、どこに目ぇつけてんだ、ってな」
「まあそれは我らが主なんだがな」
「ここでOMGっつったらギャグにもなんねぇな?」
「大丈夫だ、どうせしばらく客も来ない。好きにしろ。別の書類を用意するからちょっと待ってろ」
ドアマン——おそらく天使だろう——はシニカルに笑う。
毒気を抜かれたダフィールドは、近くに座る椅子がないことに苛立ったが、我慢する。いつも吸っているタバコもなく、当然だが酒の一滴もない。スマホも消えていた。どうやって暇を潰せというのか、ダフィールドはドアマンへダメ元で聞いてみた。
「おい、タバコ分けてくれ」
カウンター内にあるであろうディスプレイに目を落としたまま、ドアマンは答える。
「くれてやりたいのはやまやまだが、これはニコチンが入ってない。おまけに最低限まで葉っぱが減らされてて格好だけのもんだ」
「それでもいい、何かないと落ち着かねぇんだ」
「子供用の飴やるから舐めてろ」
ドアマンはカウンターに赤や黄色の丸い飴玉を置いた。ふざけてんのか、と払い除けることもできたが、その気にはならなかった。以前こんなふうに飴玉をもらったときも、捨てられなかった。
仕方なく、ダフィールドは飴玉をひとつ取って、口に含む。
「なあMr.ダフィールド、世間話をしても?」
「ああ」
「あんたは何で地獄に行きたいんだ?」
「何でも何も、俺は善人じゃあない。これでもマフィアの端くれで、灰色の街の一区画を任されるくらいに、それなりに出世もした。もっとも上が現場の苦労を押し付けるための椅子だったんだが……まあ、直接手を下さなくても、俺は悪事を働いた。それは確かだ、だったら天国はおかしい」
「まあ、そうだな。不思議な話だ」
「だろう? それに、俺は女房子供を捨てたんだ。そういうのは神様が好き好まない醜聞だ、違うか?」
「不貞を働いたわけでもないんなら、そうでもないな」
「大らかだな、おい」
「この平和な時代に何でもかんでもダメだダメだって言ってもな。昔は禁止しないとやりたい放題だったから厳しかっただけで、今はモラルも大分よくなってるから制限は緩いよ」
つまり、ダフィールドの捨てられない過去は、咎められるものではないらしい。そう聞くと、ダフィールドはもやもやする胸の内を吐き出さずにはいられなくなってきた。
そんなとき、ドアマンはちょうどいい話題を振ってきた。
「それで、あんたは何で妻子を捨てたんだ?」
ダフィールドはその問いを待ってはいたが、答えようとすると、躊躇いが生まれた。
こんなみっともない、子供にとってひどい話を、他人へしていいものなのか、と。
あのときも飴玉を渡されて、見送った。もう会えないと分かっているのに、「行ってくる」と言ってしまった。
どうにも、複雑な胸中は治まりそうにない。ダフィールドは頭髪を掻き回して、腹を括った。
「仕事をクビになった。金がないやつはあっさり死ぬような国で、生きていくためには何でもやるしかなかった。俺ひとりが生きていくだけならどうとでもなったんだが、マフィアの下っ端をやるってんなら女房も子供も迷惑がかかる。別れて、養育費だけ送り続けた」
そういえば保険金は下りたんだろうか。病気や怪我ならともかく、銃撃戦の末に死んだとなれば下りないのかもしれない、せっかく受取人は娘にしておいたのに。
ダフィールドはそんなことを考えつつ、ドアマンを見た。相変わらず、ディスプレイに目を落としている。
「つまり、あんたとしては誰かを不幸にさせた自覚があるから地獄に落ちる、って言ってるわけだな?」
「それ以外にどう聞こえたよ」
「いや、もっと聞くに堪えない罪を犯しているのかと思ったら、そうでもなかった」
「悪かったな、しょっぱいマフィアで。どうせ俺は中間管理職だよ」
拗ねた口振りでダフィールドはドアマンを睨む。しかし、ドアマンから返ってきた言葉は、意外なものだった。
「これだとちょっと厳しいな。こんなことで地獄に落としてたら、いくら空きがあっても足りないって嫌味言われるだけだな」
どうやら、自分は地獄行きの基準を満たしていないらしい。ダフィールドはそんな馬鹿な、と愕然としたが、何とかしようとしているドアマンのことも分かるだけに、無理は言えなかった。
「ダメなのか」
「ダメだな。念のため地獄の審査担当にも問い合わせてみるが、期待しないでくれ」
ドアマンは、ダフィールドを地獄へ堕とすために手を尽くしてくれている。それはダフィールドの希望でもあるが、本当に天使の仕事なのだろうか。少なくとも、紙タバコをくわえたドアマンがロビーカウンターで懸命にキーボードを叩いている様子からは、天使らしさは微塵も感じられない。
「他にないのか? 殺人や姦淫くらいの罪は」
「あったら言うに決まってんだろ」
「あんた悪人に向いてないよ」
「うるせぇ!」
ダフィールドはそう叫ぶだけで精一杯だった。善人でもないのに悪人にもなりきれない、というのはいささか格好悪い。
「もう大人しく天国行ったらどうだ。もうすぐバスも来るし」
「ふざけんな! 俺は」
ダフィールドがカウンターを乗り越えてドアマンに掴みかかろうとしたそのときだった。カウンター内にあった古い電話機が鳴った。二つボタンを押して、ドアマンが受話器を上げる。
すると、ドアマンは電話機を指差した。何だ、とダフィールドが見ている間に、ドアマンはスピーカーマークを押して、通話相手の音声をダフィールドにも聞こえるようにした。
通話相手が、ダフィールドを指名する。
「Mr.ダフィールド? 申し訳ない、こちらのミスだ」
老人の声だった。芯はしっかりとしているが、年は隠せない。
何のミスだ、もしかして天国行きは誤りで地獄行きだった、そういうことかというダフィールドの希望に似た思いは、すぐに裏切られることになる。
「あなたはまだ死んでいない。なので生き返ってくれ」
まるで、ミットで受け止めるのは百マイル超えストレートの球だったはずなのに、七十マイルのナックルボールが顔面に直撃したかのような衝撃だった。
死んでいないなら、天国も地獄もない。
「どのみちあなたは数十年後に死ぬし、いいだろう? そのときもどうせ天国行きだから、また彼に世話になるよ。挨拶して帰ってくれ」
ダフィールドはドアマンを見た。ダフィールドの間抜け面に、ドアマンはシニカルに笑う。
「じゃ、そういうことで」
ブツン、と電話は切られた。
ドアマンは受話器を下ろし、ダフィールドはカウンターに抱きついた形でドアマンへ問う。
「どういうこと?」
「そういうことだ。じゃ、お元気で」
「いやだから死んで」
「処理ミスだよ。ちょっと、あんたが死んだことになってたから混乱してたんだ。いい加減、人間も死ぬ人数が減ってくれればいいんだがな」
ドアマンはカウンターから出てきた。その手には別の書類がある。渡されたダフィールドが読むと、『特別帰還用通行証』と書いてあり、やはりサインを求められた。
どうしても、死なずに生き返らなければならないらしい。
ダフィールドは最後の足掻きとばかりに脅し文句を散らかす。
「い、いいのか! このまま生き返ったら地獄に落ちるように散々罪を犯すぞ!」
ドアマンは呆れたようにこう言った。
「あんたには無理だよ。根が善人すぎる」
ドアマンの仕方のない子供を見るかのような目つきに、ダフィールドは地団駄を踏んだ。
「くそっ、そんな目で見るな! 絶対後悔させてやるからな!」
ダフィールドは奪い取ったペンで書類にサインすると、大股で来た道を戻っていった。
三十八年後。
「ほら、無理だっただろう?」
あのときと何ら変わらないシニカルな笑いのドアマンと、寂しくなった頭髪の憮然としたダフィールドは、リゾートホテルのロビーカウンターのような天国の入り口で再会した。
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